七幕:怒涛_anger
「おれと姉貴の関係、ちゃんと見えた」
扉をくぐると、薄暗い
螺旋階段の手すりの外側には、ガラスのショーケースが、延々とはるか下まで並べられている。埃を被ったそれらの中身は、女児向けの玩具の着せ替え人形だ。
階段に足を踏み出そうとした
「オレが先に行く。あんたはまだ足下がおぼつかないだろ」
「落ちても、あっきーが助けてくれるって? イケメンだね~」
おどけた口調は、明らかに
煥くんも、理仁くんの空元気を痛々しく感じたらしい。
「泣きたけりゃ泣けよ」
理仁くんは手すりをつかんで歩き出した。
「そういうセリフは、女の子に言ってやんなよ。おれはもう平気。今までさんざん泣いてきたから。てか、おれがセリフ言いたい側だゎ。姉貴って、おれの前では絶対に泣かないから」
足音もなく先頭を進みながら、煥くんは自分の銀色の髪をクシャクシャにした。
「弟の面倒見なきゃいけない人間は、そういうもんだろ。オレの兄貴も無駄に辛抱強い。絶対、オレには弱音吐かねぇし」
ぼくは最後尾から問い掛ける。
「
「ああ、文徳っていう。うちのバンドのギタリストでバンマスで、オレを無理やりステージに引っ張り出した人。オレは人前に立とうなんて思ったこともなかったのに」
理仁くんがうなずく。
「文徳も、まあ、姉貴と近いタイプかもね。度胸よくて、堂々としてて、面倒見がよくて。その理由が、頼りない弟を守るため、だもんな~」
【頼りない弟?】
煥くんが、ささやいているのによく通る声で、淡々と言った。
「オレが小学生のころ、両親が死んだ。ふさぎ込んでたオレを救ってくれたのは兄貴だ。本人には言えねぇけど、感謝してる」
階段の両側に連なるショーケースを、見るともなしに見る。
着せ替え人形が林立している。金髪の少女人形。いろんな服を着て、いろんなポーズで、たたずんでいる。
ときどき、違うタイプの少女人形がある。ぬいぐるみも交じっていて、そのほとんどがうさぎだ。ドールハウスが入ったショーケースもあった。
階段をさらに下りていくと、人形のゾーンが終わって、幼女のマネキンが並ぶゾーンに入った。子供服がずらりと展示されている。
すそがふわりと広がったドレス。小学生サイズのフォーマルウェア。バレエの衣装みたいな白いチュチュ。何かの舞台で使ったのかもしれない、妖精の羽が付いたワンピース。
ショーケースの中身は古ぼけている。さっきの丘の情景が鮮やかな色をしていたのとは対照的だ。
「姉貴が大事にしてたおもちゃや服だ。でも、捨てなきゃいけなかったからね」
ポツリと、理仁くんがこぼした。あいづちも打てないぼくと煥くんに、理仁くんはポツポツと語る。
「うちの財産、増えたり減ったりのアップダウンすごくて、引っ越しも多くて、だいぶいろいろ捨てた。まあ、ほとんど捨てたね。今、実家の中を探しても、何も出てこないよ。思い出系のもの、何も。姉貴はここにしまい込んでたんだ」
誰の思い出でも、可視化したら、こんなふうに陳列されるんだろうか。ぼくだったら、何が並ぶんだろう?
ボロボロになるまで読み込んだ科学図鑑。五千個ほどピースを持っていたブロック玩具。唐突に両親が買ってくれた、かなり高価な天体望遠鏡。モーターから羽の成形まで、徹底的に自作したドローン。
夢中になれるものは、ほんの少しだった。無関心と集中状態のギャップが激しすぎて、異常な行動も多かったみたいだ。両親は、ぼくが異能を持つ特殊な子どもだと理解していたけれど、それでも扱いに困って、何度もぼくを病院に連れていった。
両親は平凡で善良な人たちだ。預かり手の家系に連なる末端の傍流で、まさかこの家から次代の預かり手が生まれるとは、本家の人々は想像もしていなかったらしい。前代はぼくの曽祖父に当たる人らしいが、ぼくが生まれた日に死んだ。
高校入学と同時に家を離れて以来、一度も帰省していない。両親と仲が悪いつもりはない。でも、ぼくが同じ家にいてもあの人たちは困るんじゃないか、と思う。
少なくとも、両親は、ぼくの学業成績のよさを持て余していた。親戚との会話の中で、雲の上にいるみたいな子、と母が笑いながら言っていた。父も同意していた。あの一言が忘れられない。両親に突き放されたように感じた。自分は捨て子なんじゃないかと思った。
螺旋階段を下りる。どんどん下りていく。
またショーケースの様相が変わった。小さな
「メイク道具ですか?」
「海ちゃん、何で疑問形?」
「あまり見る機会がありませんから」
「そういやそっか。大都高校って男子校だし、親元離れてるし、自供を信じるなら、彼女もいないわけだし」
煥くんがフォローを入れてくれた。
「オレもわからなかったぞ。ファンデーション? のコンパクトを見て、やっとわかった」
「あっきーもそんなもんか~。ま、鈴蘭ちゃんは化粧してないしね」
「どうしてそこで鈴蘭の名前が出てくる?」
煥くんは心底不思議そうだ。鈴蘭さんの恋路は、きっと険しくて長い。
「姉貴がメイクに手ぇ出したの、割と早かったと思うよ。髪をいじったり染めたり切ったりもしてた。変身願望があったんだって。で、その延長線上で美容師免許を取った」
首から上だけのマネキンが並んでいる。いろんな髪型、髪の色。このゾーンは、着せ替え人形や子供服のゾーンより色味が強い。
「リアさんの顔を最初に見たとき、化粧が上手だと思いました。顔立ちの左右の誤差をうまく修正している。ぼくなりに、顔のパーツの座標には理想値があるんです。それにかなり近い値でしたね。化粧する前から、もともと、いい感じの値の持ち主なんでしょうけど」
つまり、と煥くんが要約した。
「好みの顔だったってことか?」
一瞬、息を吸おうとしたのか吐こうとしたのか、混乱した。その結果、ゴホッと咳き込む。
「ちょ、な、何でそういう……」
「違うのか?」
「違いま……せんけど、いや、何かちょっと途中経過が省略されすぎている気がしますが」
好みの顔。
そうだったのか。リアさんを美人だとは思っていたけど、それ以上だったのか。だから、最初からあんなに印象が強かったのか。
理仁くんが喉を鳴らして笑った。
「おれ見たらわかると思うけど、姉貴も素で美形だよ? 化粧落としても、ちゃんと目がデカいし、まつげ濃いし。キリッとしたとこだけ、なくなる感じ。二重の幅が広いから、ふわっとして、ちょい眠そうな顔になる」
「別に、そういう説明をしてもらう必要はないと思うんですが」
「それなりに
「何の前説ですか?」
「え、そりゃ、そーいう夜を過ごすことになった場合の」
【そーいう夜って生まれたままの化粧も覆いもない姿で愛を情熱を欲……】
シャットダウン!
ぼくは顔の熱さを無視して、冷静なふりをした。
「地雷を踏みましたが、止め方も覚えました」
「みたいね~。そもそも、あんまり声を洩らさなくなったよね。あっきーの『好みの顔』発言で暴発するんじゃないかと期待したけど」
いちいち聞かれてたまるものか。
メイク道具とヘアスタイルのゾーンを抜けると、階段が尽きた。くすんだ色のドアがある。
イヌワシがドアノブを翼で示した。煥くんがドアノブに手を掛けて、回した。鍵もかかっていない。
ドアを開けると、長い長い廊下だった。はるか向こうにドアがある。
廊下は、壁にも天井にも、ランダムに人物写真が貼り付けられている。赤ん坊、幼児、小学生、中学生、高校生。年齢はバラバラだけど、彼の正体は見間違いようもない。
「おれ、だ……」
圧倒されたように、理仁くんが後ずさった。朱い目を、じっと凝らしている。
煥くんが先に立って歩き出した。
「すげぇな、この数。さっきの階段の人形の比じゃねえ。何枚あるんだか」
理仁くんが、ため息をつくように言った。
「19,419枚」
「枚数、見えましたか?」
「重なって下敷きになってるやつもあるけどね。表に見えてるぶんだけで、19,419枚」
理仁くんは下を向いて歩き出した。ぼくは彼の隣を歩く。
写真は、笑顔が多い。キョトンとした表情もある。素直な表情を撮影してあるんだと感じた。
「きみが生まれてから今まで、一日約三枚のペースですね」
理仁くんが力なく笑った。
「この空間、めっちゃキツい。おればっかじゃん。姉貴の影もなくて、ほんとにおれだけ。おれ、どんだけ姉貴の中のスペース食ってるわけ? 何でこんな……おれの存在、重すぎんだろ? どこまで重たいお荷物だよ?」
泣き出してもおかしくない自虐を口にしながら、理仁くんは笑っている。ぼくの前にいる理仁くんは、写真の中の彼とは違う。
煥くんが足を止めた。自然と、理仁くんもぼくも立ち止まった。
「オレには、実の姉はいない。でも、姉と呼んでいいくらいの幼なじみがいる。兄貴の彼女なんだけど、飯作ってくれたり、服選んでくれたり、面倒見てくれる人だ」
向き合って立つ。煥くんがぼくたちより背が低いことを思い出した。
「文徳の彼女って、
煥くんが琥珀色の目で理仁くんをにらんだ。
「無理して笑うなって言ってんだ。ここにある写真みたいに、普通に笑えるときに笑え。姉っていう人は、弟には想像もつかないくらい、わかってる。背負ってくれてる。だから、背負われろよ。姉っていう人をいたわるのは、弟じゃない男だ」
「痛ってぇな~。それ言われると、すげぇ痛い。正しすぎて、何も言えないね」
理仁くんは、へたり込むように、しゃがんで下を向いた。リアさんと同じ色の髪。その頭の上に、イヌワシが肩から移動していった。
「兄貴と、姉貴みたいな人と。年上だからって、その二人に背負われるのは、オレも心苦しかった。だけど……」
「あー、うん、わかってる。ここは素直になったがいいのは、わかってる。甘えりゃいいんだってことは重々承知。姉貴がそれを望んでんだってことくらい、わかってるつもりなんだけど」
ぼくは理仁くんの頭上からイヌワシを抱え上げた。軽い。質感も質量も、まるっきりぬいぐるみだ。
「弟としてではなく、別の関係で、リアさんと出会いたかったですか?」
即答が来た。
「絶対無理」
「無理って、どうして?」
「あんな強烈な女、他人だったら絶対無理」
「そんな言い方は……」
「海ちゃん、すげぇ度胸あるよ。よくあんな強烈な人、女として見れるね~」
「いやあの何をまた……」
イヌワシがぼくの手を抜け出して、理仁くんの頭を翼で打った。リアさんのナイトのような存在なんだろうか。ぼくが贈ったぬいぐるみが?
理仁くんが立ち上がって、顔も上げた。脱力した感じに笑っている。
長い廊下を行く間、ほとんど無言だった。次の部屋への扉に至る直前、唐突に理仁くんが言った。
「あっきー、さっきの話だけどさ。姉をいたわる男は弟じゃない、っての」
「ああ」
「謎が解けた感じがした。おれと姉貴の関係、ちゃんと見えた。サンキュ」
話はそこで途切れた。
煥くんが、次の扉を開けた。
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