「あなたの傷、わたしが治してあげる」

 青空が広がっていた。青草が生える丘の上だ。一本の大木が枝を広げて、涼やかな影を落としている。


 ぼくがトンネルを抜けて丘に立つと、イヌワシは隠し扉を閉ざした。そこには何の痕跡もなくなった。イヌワシは理仁くんの肩に止まった。ぼくの肩じゃないのか。


 心地よい風が渡っている。


 丘のふもとから、女の子と犬が、じゃれ合いながら駆け上がってきた。水色のワンピース姿の女の子は十歳くらいだろうか。大型犬は焦げ茶色で毛足が長く、耳が垂れている。


「姉貴だ、あれ」


 言われなくても、気付いていた。短めの髪が活動的で、よく日に焼けている。屈託のない笑顔がまぶしいくらいの、幼い日のリアさんだ。


 木陰に至った彼女は、ぼくたちにチラリと手を振った。


 丘の景色には音がなかった。風が吹くのも、木の葉がそよぐのも、彼女が笑うのも、犬が息をするのも、すべてが無音だ。


 ただ、ぼくたち四人がたてる音だけが聞こえる。身じろぎをした、きぬずれの音。理仁くんがくすぐったそうな目をして、つぶやいた言葉。


「姉貴の九歳か十歳のころ、だと思う。親父の仕事の関係で、フランスのいなかに住んでたんだ。この犬、そのころ飼ってたやつ。けっこうデカいけど、まだ大人じゃなくてね。成犬と比べたら、やっぱ華奢な体つきしてるし、顔があどけないよ」


 鈴蘭さんが、女の子と犬を見つめて目を細めた。


「ワンちゃんの名前、何ていうんですか?」

「キキ。ほら、めっちゃ嬉しそうな、嬉々とした顔してるから。姉貴はキキのこと、大好きだったらしい。おれはこのころ、一歳か二歳だから、キキのことは全然覚えてねーや。住んでた場所の風景とかは、いくつか記憶にあるけど」


 キキを覚えていない、という言葉に、ぼくは不吉な違和感を覚えた。

「長生きしなかったんですか? 大型犬って、十年くらいは生きるでしょう?」


 理仁くんは、たわむれる一人と一頭を見つめている。口元は、例によって、本物ではない形に笑っている。


「キキは、姉貴が十歳のときに死んだ。てか、殺された。だからたぶん、この思い出も、ここじゃ終わんないよ」


 ピクリと、キキが耳を動かした。誰かに呼ばれたんだろうか。キキは立ち上がって歩き出す。どこに行くの、と彼女の口が動いた。


 突然、ゴウッと音がした。空間が裂けた音だ。青空の情景を突き破って、巨大な両手が現れた。


 キキはそっちへ向かっている。彼女はキキを追い掛けようとした。

 素早く飛び出した煥くんが彼女の小さな体を引き留めた。


「何だ、あれは?」


 キキは巨大な両手の間でお座りをして、パタパタと尻尾を振った。右手の人差し指がキキの頭を撫でる。骨張った関節の形からして、男の手だ。左手の薬指には、ひどく目立つ金色の指輪がある。


 理仁くんが吐き捨てた。

「うちの親父の手だよ」


 両手は、キキを包み込むようにして抱え上げた。焦げ茶色の毛並みがすっぽりと隠れてしまう。

 そして、そのまま、両手はキキを握りしめた。


 音が鳴った。骨が砕け、肉がつぶれ、血があふれ出る音。

 鈴蘭さんが短い悲鳴を上げた。理仁くんがこぶしで自分の太ももを打った。


【どうしてこんな……】


 呆然とした煥くんの手を、彼女が振り払う。泣き叫ぶ声は、ぼくたちの耳には聞こえない。駆け出そうとする彼女を、我に返った煥くんがつかまえる。


 巨大な手に、指輪が一つ増えた。血濡れた指先が満足そうに指輪をなぞる。


 丘のふもとから、駆けてくるものがある。動物たちだ。犬が数頭、猫も数匹、フェレット、ハムスター、トカゲ。金魚や熱帯魚の群れも、宙を泳いでやって来る。


【来ちゃダメだ!】


 ぼくの声に、数秒間、動物たちが止まる。焦れたように、両手が「おいでおいで」と手招きをする。動物たちが再び動き出す。


 来ないで、来ちゃダメ、と彼女が叫んでいる。


 動物たちは次々と、巨大な手のひらの上に乗った。動物たちが乗れば乗るほど、手のひらが広くなっていく。青草の原っぱに落ちる影も広く、黒々と濃くなっていく。


 ぼくは体が動かなかった。


 すべての動物が乗った手のひらが、あっけなく、パシンと閉じ合わされた。

 赤いものがしたたる。ぼたぼた、ぼたぼたと。丘の緑は赤く濡れた。汚れた両手のすべての指に、宝石細工の指輪がはまった。


【どうして?】

「前、チラッと話したでしょ? おれの親父、あのお坊ちゃんみたいなやつだって。朱獣珠を使いまくってさ、願いをかけて、金儲けして。願いの代償としていちばん優秀なモノが何かって、今のを見てたら、わかるよね?」


【命……】

「そう、おれと姉貴が大事にかわいがってた動物たちの命。別にね、その現場を目撃してたわけじゃないよ。でも、わかるじゃん? 朱獣珠もSOS出したかったみたいで、ある時期から、予知夢みたいな形でおれに見せるようになったしさ」


 玄獣珠の鼓動が速い。朱獣珠が、忌まわしい記憶に苦悶しているせいだ。同期した四獣珠の鼓動は、ぼくたちに一つの真理を告げる。


 願いの代償として最も重いものは、命。そして、それが喪われるときに流される涙。あるいは、燃やされる怒り。四獣珠は本質的に、命を食らうことを何よりも忌み嫌う。


「親父は動物がいなくなるたびに、また次のを買ってきた。おれも姉貴もさ、動物、好きなんだ。この子もまたすぐに殺されるってわかってても、無理だよね。かわいがって、すげーつらい思いをする。あったかい喜びの思い出には、いつも、つらい結末が付いてくる」


 鈴蘭さんの頬が涙で濡れている。

「残酷です、こんなの」


 ゴウッと音がする。再び空間が裂けて、指輪だらけの血濡れの両手が引っ込んでいく。

 理仁くんは、青すぎる空を仰いだ。


「死んだ動物の名前も顔も性格も思い出も、全部、覚えてるよ。苦しくてさ、おれも姉貴も、だんだん泣けなくなった。もういっそ自分たちも死のうかって、何度も、何度もさ、カッターナイフ持ってきて、自分の体を傷付けてみたんだよ」


 小さな彼女がふらりと歩き出す。その数歩先の空中に、凶暴そうに輝くものがある。包丁ほどのサイズがありそうなカッターナイフだ。


【ダメです、リアさん!】


 カッターナイフが、あどけない少女の頬を切り裂いた。血が流れる。


「やめろ!」


 煥くんがカッターナイフを打ち落とした。ジュッと音をたてて、カッターナイフは消滅する。でも、別の方向から別のカッターナイフが飛んできて、彼女に切り掛かる。


 鈴蘭さんが青草に膝を突いて、彼女を抱き寄せた。


「ダメ、やめてってば!」


 理仁くんは、うつろな目にカッターナイフを映している。


「姉貴のほうが、おれより傷付いてた。ガキのおれがするより強く、自分を傷付けてた。これが姉貴の記憶なら、カッター奪うの無理だよ。ほんと怖くなるほど深く切ってたから」


 煥くんが顔をしかめた。泣き出しそうな顔に見えた。


 駅前広場でのライヴの後、騒動があってリアさんがケガをしたとき、ぼくもリアさんの古傷を目撃した。あの傷は、本来ならいだく必要もない罪悪感の証だったのか。


 カッターナイフは、彼女を抱きしめる鈴蘭さんを避けて、正確に彼女だけを傷付ける。


 青い空、緑の丘、動物たちが生きていた痕跡の赤黒い液体。ぼくは、どうすることもできずにいる。だって、どうすることができる?


 リアさんの記憶を見せられて、過去を知って、小さな彼女を守りたいのに、どうすればいいのかわからない。


 理仁くんが懐中時計に目を落とした。

「時間がねぇよ。先に進んだほうがいい」


 言葉に反応して、イヌワシがふわりと飛び上がった。彼が向かう先、丘に立つ大木に、いつの間にか扉がうがたれている。


 鈴蘭さんが顔を上げた。

「わたしはここに残ります」


 理仁くんが目を見張った。

「何で?」


「リアさんのこと、一人にできません。小さいころの思い出では、一人だったんでしょう? そんなの、苦しすぎるじゃないですか。リアさんにとって気休めにしかならないとしても、気休めにもならないかもしれないけど、わたし、ここに残ります」


 鈴蘭さんはニッコリした。その全身が、淡く青い光をまとい始める。光は、うつろな目をした幼いリアさんをも包んでいく。


「大丈夫よ。もう痛くないから。あなたの痛み、わたしが引き受ける。あなたの傷、わたしが治してあげる」


 カッターナイフが傷を付けるたびに、青い光が傷を癒す。


「あれは、鈴蘭さんのチカラ……」

 ぼくの言葉に、煥くんがうなずいた。


「傷の痛みを引き受けることで、その傷を治すんだ。だから、治せる傷は、その痛みを引き受けられる範囲だけ。痛ぇはずなんだよ、今。あいつ、リアさんに笑ってやってるけど」


 何で、と理仁くんが繰り返した。不思議そうな表情は、今まででいちばん幼く見えた。

 鈴蘭さんが、目尻に涙のにじむ笑顔で答えた。


「リアさん、ずっと痛かったんでしょう? ペットちゃんたちのことは喜びの記憶で、大切だったはずです。痛くても、いつも思い出してたんですよね? だから、こんなふうに鮮やかに覚えてる。わたしも一緒に、この記憶を大切にしてあげたいんです」


 幼いリアさんが、か細い泣き声をあげた。小さな手が鈴蘭さんにしがみ付いた。カッターナイフはその手を襲う。青い光が傷を癒す。

 鈴蘭さんが優しく言った。


「わたしはここに残ります。三人で先に進んでください。わたしのチカラにも限りがあるから、できるだけ早く。みんなで助かりましょう? だから、行ってください。お願いします」


 理仁くんが、ゆっくりうなずいて、ぎこちなく微笑んだ。

「ありがと」


 鈴蘭さんは笑顔でうなずき返した。


 幼い泣き声は大きくなっていく。切なくて、聞いていられなかった。

 ぼくはリアさんのことを何も知らない。知ってみたいとか、近付きたいとか、そんな願いをぼくがいだくのは、思い上がりなんだろうか。


 彼女のココロの奥へと、また一つ、駒を進める。彼女が耐えてきた苦しみを、また一つ、ぼくは知ることになる。

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