六幕:喜色_ joy

「さらし者じゃないですか……」

 深い水に潜るような感触だった。頭を下にして、静かに、緩やかに落ちていく。


 子どものころ、一度だけ家族旅行をした。父が運転する車に乗って、母が昔から憧れていたという高原のペンションで、一週間ほど過ごした。深い湖のそばだった。両親は毎日、湖畔を散歩した。ぼくは湖に潜った。


 宇宙飛行士の月面での作業を想定した訓練は、水中でおこなわれる。そう聞いたことがあった。実際に水中の感覚を知って、妙に納得した。


 重力の掛かり方が日常とは違って、浮力と水圧がぼくの行動を制限した。大気がないから、音の伝わり方もまるで違った。軽いのに、重たいような体。目を閉じて思い描いたら、地球を遠く離れているかのようだった。


 ひんやりとした暗闇に包まれて、心地よかった。息が苦しくならないのなら、ずっとこの場所にいたい、と思った。


 そんなふうに、ぼくは今、潜っていく。

 これがリアさんのココロなら、きっと湖よりも、はるかに深い。


 ――海牙くん。


 こぽこぽと、こもったような澄んだような音が聞こえた。声だろうか。遠くからかもしれない。耳元でささやかれたかもしれない。距離なんて意味がないのかもしれない。


 水のようなこの場所の温度は、ときどき冷たい。本物の笑顔を見せないリアさんの、凍った怒りを思い出す。


 ――海牙くん。

【リアさん】


 水が柔らかくて温かいときもある。何度か触れた体は、そんなふうだった。また触れたいと望んだら、怒られるかな。


 心を見せたがらないあなたのココロの底に、ぼくはもうすぐ降り立つ。この上なく無礼で卑怯なふるまいだ。こんなぼくに、あなたは、どんな景色を見せてくれますか?


 ――海牙くん。

 ぼくを呼ぶ声が聞こえる。


【リアさん】

 ぼくも何度も、彼女の名前を呼んだ。


 ふと、ぼくは目を開けた。硬い床の上に倒れている。


 磨き込まれた木材が視界に映った。体を起こすと、先にひとくんが目を覚ましていた。木製タイルの壁に背中を預けて、ぼんやりと自分の手のひらを見ていた。


「お、海ちゃん、起きた?」

「魂珠の中ですか? ここが?」

「みたいだね~」


「体感も何もかも、現実と変わりませんが、ぼくたちは今、精神だけなんですよね?」

「だね~。チカラも相変わらずだ。ちなみに、おれ、海ちゃんの寝言で起きたよ」


 理仁くんがニマニマしている。イヤな予感しかしない。


「……ぼくが、何を言ってました?」

「アドバイスしとく。八歳の年齢差、むしろ逆手に取るほうが近道だよ。年下男子のかわいさで、こうグイグイと……」

「誤解です!」


「でも、海牙さん、リアさんのこと好きなんでしょう?」


 振り返ると、鈴蘭さんがニコニコしている。あきらくんも、身軽に跳ね起きたところだ。


「好きって……まあ、人間として、嫌いではありませんが」

「そうじゃなくて、恋です」

「さよ子さんみたいなこと言わないでください」


 鈴蘭さんはニコニコ顔でかぶりを振った。


「さよ子って鋭いですよね。海牙さんをからかってるだけかと思ってたけど、見抜いてたみたい」

「だから、何を根拠に、何を言ってるんですか?」


 鈴蘭さんが煥くんを見た。めったに笑わない煥くんまで、唇の端をかすかに持ち上げている。


「マジで自覚ないのか?」

「自覚って、何の自覚ですか?」

「ここに来るまで、水に潜ってる感触だったろ?」

「はい」


「右も左も上も下もわからなくて、暗くて息苦しくて、流されそうで」

「流されそう? ぼくは、まっすぐ深い場所まで潜るような感じでしたよ。息苦しさは感じなかったし、スムーズでした」


 煥くんは肩をすくめた。


「オレは、洗濯機にでも放り込まれたみたいに、ひどい流れに呑まれてた。真っ暗な激流の中で、海牙の声に引っ張られて、ここに落ちてきた」

「わたしも煥先輩と同じです」

「ビミョ~に悔しいけど、おれも同じく」

「ちょっ、え……ぼくの声?」


 思わず喉に手を触れたけど、もちろん違う。肉声じゃなくて、思念のほうだ。


「海ちゃん、また謝ってたろ? 勝手に入り込んでごめんなさい的な感じ。あと、姉貴が海ちゃんのこと呼ぶ声でも聞こえてた? どこにいるんですか的なことも繰り返してて」


 まずい、まずい、まずい。顔が熱い。やめてほしい。言わないでほしい。

 でも、煥くんが追い打ちを掛けてくる。


「柔らかいとか、さわりたいとか、もっと強烈な言い回しも、露骨な単語も」

「だよね~。おっぱいって何回も聞いた。海ちゃん、おっぱい好きなんだねー」

「涼しい顔してるくせに、けっこうフツーにそういうこと考えてんだな」

「知識欲や探求心が旺盛で頭のいい研究者タイプは、あっち方面のアレも旺盛で研究熱心とかいうしね」


 ひどい。否定できない。あんまりだ。

「さらし者じゃないですか……」


 鈴蘭さんが胸の前でこぶしを握って、目を輝かせた。


「いつでも相談に乗りますから! 男子の恋バナって、すごく興味あります!」

「興味本位……」

「海牙さんの声がいろいろ聞こえてしまったときはビックリしましたけど、情熱的なのはとってもいいと思います!」


 ぼくは、ほてった顔を手で覆った。

 リアさんのことは嫌いじゃないし、年上の女性には妄想をいだいてきた。でも、これを恋だと言える自信はまったくない。欲望交じりの憧れに過ぎない。後ろめたくて仕方がない。


 理仁くんがパンパンと手を打った。


「ま、とりあえず、仕切り直し。海ちゃんいじるのはこのへんにして、先のこと考えよっか。まずは現状確認。上から落ちてきたんだとしても、上には戻れそうにないね」


 理仁くんは上を指差した。果てを視認できないほど、天井が高い。円筒形の部屋。深い井戸の底みたいだ。


「で、ドアがいくつか見えるけど。現実的に言って、くぐれるドアはないっぽい」


 壁の上のほうにあるドアは、そこへよじ登るための取っ掛かりがない。無理なく開けられる高さにあるドアは、ずいぶん小さい。


「持ってくべきアイテムは、たぶんこれ。部屋の真ん中に落ちてた。でも、姉貴の趣味じゃないね。お坊ちゃんが用意したんだと思う」


 理仁くんが胸ポケットから出したのは、懐中時計のようなものだ。本体も鎖もゴールドでできていて、キラキラした石があちこちに埋め込まれ、バラの模様が彫刻されている。


 数字も目盛もない文字盤をのぞき込むと、針は一本きりだった。文字盤は大半がゴールドだけど、十二時から一時の部分は真っ黒だ。


「十二時の位置から動き出したところでしょうか。進んだ角度は約三十度、今は一時の位置を差してますね」

「海ちゃん、分度器なしで三十度とか、わかる?」

「この程度は、誰でも目測でわかりません?」


 理仁くんは首を左右に振った。


「無理無理。力学フィジックスの視界だから、今はわかるけど。あ、ちょうど三十度になった。これさ、海ちゃんの言うとおりで、たぶん〇度のとこからスタートしたんだよ。おれが見てたのは四.五度のとこから」


「針が進んだ後ろ側が暗転しているんですね」

「そうみたい。この黒い部分さ、針が進むのに合わせて、影みたいに、じわじわついてきて広がってんの」


 鈴蘭さんが、服の上から青獣珠に触れながら、眉をひそめた。


「タイムリミットを示してるように感じますね。針が一周して、文字盤全体が暗転したらおしまい、って」


 異物を侵入させたリアさんのココロのタイムリミットか。他人のココロに閉じ込められたぼくたちのタイムリミットか。いずれにしても、この直感はきっと正しい。玄獣珠がうなずく気配がある。


 煥くんが眉間にしわを寄せた。


「この部屋から出て、先に進みたい。けど、ヒントも何もない。しかも、ここはリアさんのココロの中だろ? 部屋に傷を付けるのもまずい気がする」


 不意に。

 パタン、と音がした。扉が閉まる音だ。

 全員、音のほうを向く。


「あ、イヌワシのぬいぐるみ」


 リアさんと初めて会ったとき、ゲーセンで取ったぬいぐるみだ。黒い翼に緑色がかった目、不敵な笑み、チェック柄のタキシード。リアさんが妙に気に入っていた。ぼくに似ているなんて言っていた。


 ぬいぐるみが動いている。思いがけず広い翼を広げて、ふわりと宙に浮いている。浮いているだけだ。あの形状では、羽ばたいて飛ぶには物理学的に不可能だから。


 イヌワシが翼をクイクイと動かした。手招きしているように見えた。


【道案内?】


 イヌワシがうなずいた。

 鈴蘭さんが真っ先にイヌワシに近付こうとした。煥くんが腕をつかむ。


「ついて行くのか?」

「はい。大丈夫だと思います。あのぬいぐるみ、かわいいし」


 かわいいかどうかは、この際、関係ない。というか、あれはかわいくないと思う。

 煥くんが鈴蘭さんの先に立った。理仁くんがぼくを振り返った。


「あの鳥さん、もしかして海ちゃん絡み?」

「ええ、一応」

「あっそ」

「どうかしました?」

「こないだ、姉貴が珍しくぬいぐるみなんか持ってて、出所を訊いたんだけど、教えてくれなかった。あのゲーセンデートの思い出の品ってわけ。なるほどね~、姉貴が妙に機嫌よかったわけだゎ~」


 語弊のある言い方をして、理仁くんは歩き出した。ぼくは理仁くんに並んだ。


「ぼくと同じ立場なら、男は誰でも同じことしましたよ。美人が不良にナンパされてたら、助けるでしょう? その美人に、時間つぶしに付き合ってと言われたら、応じるでしょう? ぬいぐるみを取ってほしいとリクエストされたら……」

「リア充爆発しろ~。って、ダジャレのつもりないんだけど」


 イヌワシが振り向いて、理仁くんをにらんだ。


 部屋の壁は木製タイルでできている。イヌワシは、その一角に飛んでいって、タイルを押した。

 タイル四枚ぶんの正方形が隠し扉になっていた。正方形は、一辺が約800mm。扉と呼ぶには狭いけど、通れなくはない。


 イヌワシが最初に隠し扉を抜けた。のぞき込むと、トンネル状になっているらしい。さほど奥行きはなく、抜け出た先は明るいようだ。


 煥くんがイヌワシに続いてトンネルをくぐった。向こうにたどり着いて、問題ない、と声を寄越す。


 鈴蘭さんと理仁くんも向こう側へ行った。ぼくが最後にトンネルに入る。

 四つん這いの姿勢で、すぐ目の前に光が見えている。その割に、長い。


 ――海牙くん。

 遠くて近いどこかから、声が聞こえる。ココロへ落ちて潜ってくる途中で聞いた声だ。


【リアさん】

 呼び掛けてみる。返事はない。ただ、ぼくの名前を呼ぶ声だけが聞こえる。


 ――海牙くん。


 ぼくで、いいんですか? 弟である理仁くんじゃなく、ぼくを、呼んでくれるんですか?

 ぼくにあなたの声が聞こえるように、あなたにも、ぼくの声が聞こえていますか?

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