四幕:宝珠_the_orbs
「海ちゃんって、姉貴のこと好き?」
目を開けたら、見慣れた色のシーツがあった。左を下にして体を丸めて眠る、いつもの癖。
でも、足りない。目に入ってくるはずの、シーツのしわの形状を計測した数値。そんな当然の情報が、ぼくの視界に存在しない。
【見えない】
失ったんだ。この世に生を受けた瞬間からぼくに備わっていたチカラ、
「おんや~、目ぇ覚めた?」
思いがけない声が聞こえた。ぼくは、パッと起き上がった。
ぼくの部屋に、
「これは……ぼくたちは、一体……」
「一夜明けて、今は午後一時だよ。あの後さ~、おれと鈴蘭ちゃんで、もう必死。海ちゃんとあっきーは気絶したまんまだし。四獣珠がバリア張ってくれてなかったら、ヤバかったよ」
理仁くんは目を伏せている。視界に何も入れたくないんだろう。口元は相変わらず、微笑んだふりを続けている。
「リアさんは?」
「連れてかれた」
理仁くんは背筋を丸めて、椅子の背に額をくっつけた。明るい色の髪は、リアさんと同じ色だ。
「ごめんなさい」
「何で謝るの?」
「ぼくがチカラを制御できなかったせいで、足を引っ張りました」
情けなくて申し訳なくて仕方がない。
「海ちゃんって、意外と謝るね。チカラが入れ替わってからこっち、何度も聞いたよ。ごめんなさいって。意識のない間も、ずーっとね、ほんとにしょっちゅう謝ってた」
【無力感、失望、劣等感、自尊心】
思念が勝手にこぼれてしまう。その途端、また、疲労感が肩にのしかかる。気を付けていないと、チカラを使いっぱなしになるんだ。数値だらけのあの視界より、はるかにエネルギー消費量の大きなチカラを。
「ぼくはナルシストなんですよ。十分に満足できるくらい優秀で有能な自分じゃないと、生きていられない。だから、生きている限り、ぼくはつねに優秀で有能なはずなんです。なのに昨日、何もできなかった。今、自分に対して絶望しています」
「海ちゃん、それ、ナルシストって言えない。海ちゃんはおれと同じで、自分のこと、そんなに好きじゃないでしょ? でも、どーにかして生きてなきゃいけないから、自分がこの世に存在することを許すための口実を用意してんだ」
【自己評価。優秀であること。他人と違う自分。特別でありたい願望。普通になれない、という劣等感を書き換える。変人であろうと振る舞う。力を抜くことができない。本当は、とても疲れている】
理仁くんはしばらく黙っていた。それから顔を上げて、目を閉じたまま、口元だけでニッと笑った。
「昨日の晩、おれ、ここに泊めてもらった。すっげー金持ちなのな、平井のおっちゃんって。朝飯、うまかったし。あ、そういや、昼飯まだなんだ。海ちゃん起きねぇかな~と思って、待ってた」
「食欲が……」
「なくても食わなきゃダメ」
【つらい】
弱音がこぼれる。本心を隠しておけない。こんなの、本当は誰にも聞かれたくない。
【怖い】
でも、一方で、このチカラを理解する理仁くんには見放されたくない。助けてほしい。
不甲斐ない。
ぼくはベッドに仰向けに倒れた。白い天井を映す視界は、あまりにも殺風景だ。数字が見えない。距離も角度も測れない。怖くなって、ぼくはまた、まぶたを閉じる。
「ぼくがさっさと祥之助に対応していればよかったんです。
もっと警戒すべきだった。きちんと計画すべきだった。綿密に情報収集しておくべきだった。今さら後悔しても遅すぎるのに。
「おんなじこと、瑠偉っちが言ってたよ」
「瑠偉と会ったんですか?」
「昨日の晩、真っ先に駆け付けてくれたの。海ちゃん、突入の前に瑠偉っちに連絡したんでしょ? 場所は聞かなかったけど、お坊ちゃんちのビルだと思ったんだって」
【一人で何でもできるつもりでいた。そんなわけない。自分でもわかっているんだ、ぼくは視野が狭くて精神的に
「海ちゃん、素直」
「聞かないでください、こんなの」
「思ってることが洩れるのは、疲れてるときは仕方ないって。おれでも、たまにポロッとやっちゃうもんね~」
【壁を……】
「理仁くん、どうやったら壁を保持していられるんですか?」
「けっこう無意識」
「ずるいですよ、そんなの」
「海ちゃんこそ、どうやってこんな視界に対応してたわけ?」
「無意識ですね」
「ほらね」
どうやって、ものを見て情報を得ているのか。どうやって、声に出す言葉と胸に秘める言葉を選んでいるか。
無意識の判断は、幼児のころに徐々に身に付いていく。通常の範囲の能力も、ぼくたちの異能も、使いこなすためのプロセスはきっと同じだ。
「苦労しませんでした?」
「苦労したよ~。お友達にそんなこと言っちゃダメでしょ、っていうお叱りが、おれは普通の子より多かったわけ。叱られてるうちにチカラの操り方を覚えた感じ」
思念の声を洩らさないためには、自分を律する必要があって、感情を安定させておかなければならない。幼児には難しかったはずだ。十七歳のぼくにさえ難しい。
「だから、きみはいつも計算したような笑顔なんですね」
「海ちゃんだって、計算ずくの笑顔じゃん」
「つかみどころのない変人として扱われるのが、いちばん楽なんです」
【だって、ぼくは普通になれないんだから。演技しても努力しても、どうやったって普通になれずに、浮いてしまうんだから】
他人の視界には数値が現れないのだと、幼いころは理解できずにいた。
多すぎる情報量を持て余しながら、ぼくには不思議だった。どうしてみんなは曖昧な方法でしか物を見ないんだろう、と。
【孤独だった。笑ってごまかした。仮面をかぶるみたいに、こうしていると、楽になった】
どんな形に唇を動かせば笑顔に見えるのか、鏡をのぞきながら練習した。ぼくの顔立ちには、左右で誤差がある。でも、笑った顔はほぼ左右対称に見えるはずだ。
【完璧なように練習したから】
ぼくはため息をついた。
「ダメですね。思ったことが、どうしても洩れてしまう。寝言とか、うるさかったんじゃないですか?」
「朝までは、おれじゃなくて瑠偉っちが、この部屋に寝てたんだよね。床に布団敷いてさ。もし瑠偉っちが何か聞いてたとしても、大丈夫じゃない? あの人、口堅いでしょ」
「そうですね」
相当、心配をかけたんだろう。瑠偉がぼくの部屋に泊まるなんて。
ぼくが他人に寝顔を見せたくないこと、プライベートな空間に入られるのを極端に嫌うことは、瑠偉もよく知っている。修学旅行では、ぼくは大部屋で一睡もできなかった。最終日、瑠偉が教師に掛け合って個室を用意してくれた。
「瑠偉っちは今、たぶん学校だよ。情報収集のために、途中でちょっと抜け出すとは言ってたけど。で、朝から今までは、おれがこの部屋にいた。海ちゃんの寝言に関しては、まあ、姉貴のことだけ、後で瑠偉っちに説明しといたがいいんじゃない?」
リアさんのこと?
「ヤバい発言、してました?」
「そりゃもうすっげー正直に、高校生男子の欲望を」
「うわ……」
「冗談だよ~」
「やめてくださいよ」
「海ちゃんって、姉貴のこと好き?」
【美人。キレイな人。強い。スタイルがいい。柔らかかった】
勝手にあふれる思念に蓋をするように、ぼくは両手で顔を覆った。
「嫌いではないです。でも、好きだとか。そう感じるほどの長い付き合いじゃないですし」
正直な気持ち、だと思う。ハッキリとはわからない。
「ま、好きって言われても嫌いって言われても、複雑だけど」
理仁くんが乾いた声で笑った。
「心配ですよね」
「当たり前じゃん」
「今すぐにでも、動けたらいいんですが」
「うん、無理なのはわかってる」
【無力感。苦しい。情報が足りない。戦うにも支障がある。怖い。情報がほしい。数字がほしい。自信がほしい】
胸の上で玄獣珠が鼓動している。今まで、未知の情報の集合体である玄獣珠に意識を凝らしてみることなんて、ろくになかった。預かりたくもないくらいに、解析不能な玄獣珠というものを、ぼくは疎ましく思っていた。
たぶん今、ぼくはどうしようもなく弱っている。玄獣珠を拒む元気もない。
だから、初めてわかった。玄獣珠のぬくもりから、ぼくをいたわる思念が静かに伝わってくる。言葉と呼べるほど明確なものではないけれど、優しさと呼んでいいような波動が、じわじわとぼくの胸を温めようとしている。
理仁くんが、また、乾いた笑いをこぼした。
「すげーよな、海ちゃんって。この視界の情報、全部使いこなしてんでしょ? 眼鏡型のPCが開発中とかいうけど、海ちゃんのチカラは、その超絶高性能バージョンじゃん」
「理仁くんのほうがすごいでしょう。こんな状況なのに、冷静ですよね」
「んなことなくて、ひと暴れしたんだよ」
「ひと暴れ?」
「昨日の晩、平井のおっちゃん相手にね。今すぐ姉貴を助けに行きたいっつって、暴れて泣いて疲れ果てて、や~っと落ち着きました。めっちゃみんなに見られたからね。今さらだけど、すげー恥ずかしい」
「リアさんが安全な場所でおとなしく待っているような人なら、こんなことにはならなかった。でも、リアさんがいなかったら、ぼくは混乱したまま、どうなっていたか」
場面ごとに場合分けして考えてみる。要所要所で、リアさんの機転に救われた。リアさんがいなければ、ぼくたちの行動はもたついたはずだ。
「度胸がよすぎて危なっかしいでしょ。昔から、あんな人なんだ。おれ、絶対にかなわないもんね」
「いくつ違うんですか?」
「八つ上で、二十五歳だよ。姉貴はさ、おれのチカラのストッパーだったの。おれがちっちゃいころ。だから、あの場面であんなことできたわけ」
「あんなことって? 体を張って、って意味ですか?」
「こら、そこ変な想像しない。ちっちゃいころって言ったろ?」
軽い口調で、理仁くんは語った。子どものころ、わがままが駄々洩れになることがあった、という話。
癇癪を起こして、大音量で泣きわめいてしまった。肉声とともに、まわりの人々の精神を傷付ける衝撃波が噴出した。抑えようにも、自分ではうまく制御できなかった。
そんなときに助けてくれるのが、リアさんだった。誰彼かまわず操ってしまうマインドコントロールの
「姉貴も、まったく効果なしってわけじゃないらしいけどね」
「ああ、それはぼくも感じました。自分が
「意識がない状態なら、預かり手だろうがその血縁だろうが、操れるかもね。んな悪趣味、やってみたことないけどさ」
「意外です」
「マジ?」
「ぼくなら、その実験、やってしまったんじゃないかな。相手の尊厳とかより、自分の好奇心のほうが大事なんです」
そして、全部が済んでから後悔するんだ。人でなしだ。マッドサイエンティストだ。こんなふうだから、ぼくは人と同じようになれないんだ。最低の人間だ。
理仁くんは小さく笑って、言った。
「子どものころのわがままってね、おれの場合だけど、腹減ったとか眠いとかより強い欲求があったんだ。甘えたいとか、くっつきたいとか、そーいうやつ。でも、恥ずかしいじゃん? なのに、変なスイッチが入るとさ、勝手に声になって聞かれちゃうんだよね」
同じだ。昨日のぼくと同じ。
【触れたい、助けてほしい、自分だけ見てほしい。無意識の欲求だった。恥ずかしいのに、望むことを止められなかった】
「でしょ? 姉貴はさ、そこを逆手に取るんだよね。ショック療法的な感じで。人前で思いっ切りギューッてやられたの。自意識の強い幼稚園児のおれ、超恥ずかしくて。やめろーって感じで、声をシャットダウンする」
「まったく一緒ですね、昨日のぼくと」
「海ちゃんのほうがなまなましかったけどね」
「年齢相応です」
「超恥ずかしかったろ?」
「死にたかったですよ」
ぼくはずっと、性別や年齢に関係なく、人との接触を拒んできた。両親との間にさえ、壁のようなものを作った。高校に上がって総統や瑠偉と知り合って、少しマシになったけれど。
【女性に触れたのは初めてだった】
「え、うっそ~、モテそうなのに」
「容姿とステータスだけはね」
「初めて揉んじゃった感想は?」
【柔らかかった気持ちよかったおっぱいもっとさわりたかったおっぱい見てみたかったもっと知りたかっ……】
「変な誘導尋問はやめてください! 本当に、シャレにならない!」
顔から火を噴きそうだ。ぼくは年齢相応に、あるいはそれ以上に性欲があって、エロいことも考えるし、いやらしい視点で女性の体を見たりもする。でも、そんな一面なんて人前では絶対に出したくないのに。
「ま、おれとしても複雑だしね~。姉貴が男からそういう目で見られてるって、わかってても、わざわざ知らされたくねぇや」
「じゃあもう言わないでください」
「りょーかい。たぶんね」
ぼくは髪を掻きむしって、話題を変えた。
「理仁くんはリアさんと仲がいいんですね」
「仲よくなきゃ、生き延びれなかったしね」
「どういう意味ですか?」
文字どおりと答えて、少し間があって、理仁くんは言葉を補った。
「こないだまで、一年くらい、フランスにいたんだ。おれと姉貴、二人で、国外逃亡して隠れてた」
「ほかの家族は?」
「おふくろは入院中。親父は……死ねばいいのに」
流行りの言い回しだ。「死ね」と口にする生徒が多いと、教師はよく怒っている。
でも、理仁くんの「死ねばいいのに」は重みが違った。思念と言葉が、理仁くんの本来のチカラだ。その彼が父親のために選んだ言葉が、「死ねばいいのに」だなんて。
「深刻そうですね」
「あの祥之助坊ちゃまが自分の父親だったら、海ちゃん、どう?」
「絶対イヤです」
「そんな感じなの、おれんち」
祥之助は黄帝珠に操られて、そのチカラに依存している。リアさんと理仁くんは、そんな祥之助に対して強烈な嫌悪感を示していた。リアさんは、朱獣珠に振り回されてきたとも言っていた。
【朱獣珠の乱用?】
「そのへんでやめといてよ。話せるときが来たら話すし」
「リアさんにも、同じようなことを言われましたよ。全部を話せるような深い仲ではない、とね」
「うちの事情、特殊だから」
「朱獣珠の活性化が、四獣珠の集結に関与したかもしれないんでしょう?」
「使っちゃいけないんだよね~。代償を差し出せば何でも叶えてくれる宝珠って、そんな便利なもん、人間が使っちゃダメだ。朱獣珠は、止めてほしくて、みんなを叩き起こしたんだよ」
問い掛けて答えてくれるなら、四獣珠と話をしてみたい。聞かせてほしい。今、何が起こっているのか。四獣珠が何を望んでいるのか。
「黄帝珠も、同じように叩き起こされたんでしょうか?」
「それに関しては、瑠偉っちがちょっと調べてきてたよ」
「え? 瑠偉が?」
「平井のおっちゃんも、自分が知ってることを教えてくれるっぽい。だから、今日は学校終わったら、みんなここに集合するんだ。まあ、おれらは、今はとりあえず昼飯ね。腹ごしらえしよ?」
理仁くんの誘いに、ぼくはベッドから起き上がった。
「そうしますか」
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