「事件が起こるよ。きっと、すぐに」

 大都高校は、全国有数の高偏差値を誇る男子校だ。授業料が極端に高いことでも有名で、世間的にはエリートでセレブというイメージらしい。全国から選りすぐりの成績優秀者が集まるから、ほとんどの生徒が寮に入っている。


 ぼくも遠方の出身だけれど、寮暮らしではない。あんな牢獄、絶対にごめんだ。


 実家はありふれた中流階級だった。両親はエリートなんかじゃなかった。大都高校のバカ高い授業料は、全額返済なしの奨学金でまかなっている。奨学金の出資者の屋敷が、ぼくの下宿先だ。いや、居候先というのが正しいか。下宿代を払っているわけではないから。


 今日は友人と外で夕食を済ませてから、居候先の屋敷に戻った。四月半ばになっても、朝晩は肌寒い。けれど、ぼくの移動手段は二本の脚やローラースケート。すぐに体がほてってくる。少し気温が低いくらいでちょうどいい。


 屋敷のセキュリティはハイレベルだ。だからこそ、正しくない方法で門を突破するのがぼくの趣味だ。


 背の高い塀に仕掛けられた防犯カメラは死角をなくすべく計算されてはいる。けれど、ぼくがこの目でチェックすれば、実は盲点があるものだとすぐに露見する。


「北西角は、上がガラ空きですね。あれなら、ドローンで簡単に侵入できる」


 塀の長さと高さに比して、カメラの数が不足している。後で報告しておこう。

 思い切り助走をつけて跳躍し、立木と壁を塀を蹴って高さを稼ぎ、庭に降り立つ。すると今度は、赤外線センサーが侵入者を待ち構えている。


 でも、赤外線センサーは「線」に過ぎない。その軌道が見えるぼくには、一定の「面」を見張るカメラより楽な相手だ。


「一般的な侵入者の身体能力では、クリアできないだろうけどね」


 視界に現れる数値を活かし、物理学的に計算して最も無駄のない動線で、身体を制御する。ぼくにはそれが可能だ。


 子どものころは、視界の情報量の多さにやられて、体を動かすのがひどく苦手だった。スポーツ物理学の本に出会った十二歳のころ、トレーニングを始めた。今でも継続している。エネルギーの消耗が人一倍、早い。ときどき食事の配分を失敗して動けなくなる。


 跳躍したり地を這ったりして赤外線センサーをかいくぐり、庭を越える。壁に取り付いて、二階までよじ登る。鍵に針金を仕掛けてある窓を開けて、屋敷の中に入る。


「今夜も無事に侵入完了。ただいま戻りました、と」


 つぶやいて窓を閉めて鍵を閉めた、その途端。


「海牙さん! また変な方法で入ってきたんですか! 普通に正面玄関から入ってくればいいのに!」


 柱の陰から、黒髪ショートボブの女の子が現れた。面倒くさい人に見付かってしまった。この窓、もう使えないな。


「ちょっとくらい遊んだって、かまわないでしょう? 迷惑をかけているわけじゃないんですから」

「そういう意味不明なところがザンネン男子なんです! 普通にしてたらカッコいいのに、モテませんよ?」

「ありのままのぼくを理解しない程度の人には、モテなくてけっこうです」


 女の子は、屋敷の主の愛娘だ。平井さよ子さんという。黙っていれば、お嬢さま然とした黒髪色白の美少女だ。が、一瞬も黙っていない。襄陽学園高校に入学して約半月になる。襄陽に通いやすいこの屋敷に住むようになって、同じく約半月。


 平井家の本宅は隣の県にある。広大な敷地面積を持つこの屋敷は、別宅の一つに過ぎないらしい。


 さよ子さんはよく動き回って、誰とでも気兼ねなく話をする。屋敷の雰囲気が、あっという間に変わった。明るくなったというか、何というか。


 ハッキリ言うと、さよ子さんはにぎやかすぎる。もっとハッキリ言うと、さよ子さんはうるさい。


 さよ子さんは最初、目を輝かせてぼくにまとわり付いてきた。本人曰く、「イケメンには無条件に惹かれるお年頃」なのだそうだ。一生続く「お年頃」だろう。


 どんなに美少女でも、年下のうるさい女の子には興味がない。ぼくはさよ子さんから逃げ回った。

 今、さよ子さんは別のイケメンに夢中になっている。助かった、と思ったら、甘かった。


「海牙さん、髪が伸びすぎです!」


 憧れの対象ではなくなった一方、プロデュースの対象になってしまったらしい。顔を合わせるたびに、髪形や服装のチェックが入る。お節介なこと、はなはだしい。


「そのうち切りますから」

「髪が目に掛からないスタイルにしてくださいね。そっちのほうが絶対に似合います!」

「はいはい」

「制服のボタン、上まで留めたら堅苦しすぎるかも?」

「ぼくには、カッチリ着るほうが合うんです」


 首や肩まわりを服の形でごまかさないと、撫で肩が目立つ。けっこう本気でコンプレックスだ。立ち居振る舞いは理想の数値どおりに調整できるけれど、骨格は無理だから。


 屋敷に住んでいるのは、ぼくやさよ子さんだけではない。ここは「KHANカァン」という特殊な組織の拠点でもある。組織の総統であり、屋敷の主である人の名は、ひらてっしん。ここには、総統にしょうへいされた人材がたくさん住み込んでいる。

 そう、ぼく以外にも人はいるのに。


「海牙さん、明日ですからね! 絶対、明日の約束は守ってくださいね!」


 なぜ面倒事が回ってくるのは、ぼくなんだろう? ぼくは明日、さよ子さんの護衛をしなければならない。


「はいはい、十九時に玉宮駅前ですよね?」

「返事の『はい』は一回!」

「……はぁ……」

「あ、今のため息、すっごくセクシー♪ それでですね、明日のことなんですけどー、って、ちょっとねえ海牙さん聞いてますー?」

「聞いてますよ」


 大都高校が男子校でよかった。女子の意味不明なテンションにはついていけない。

 さよ子さんの話は回り道が多い。要約すれば、以下のとおりだ。


 明日、十九時から、玉宮駅前でストリートライヴがある。さよ子さんが夢中になっているロックバンドの公演だ。件のバンドは襄陽学園の五人組。さよ子さんは、同級生と一緒に聴きに行く。が、夜に女子だけは不安なので、ぼくが借り出される。


 という、すでに五回は聞かされた内容を、今日もまた延々と聞かされているわけだけれど。

 重点的に繰り返されるのは、ただ一項目。そのバンドのヴォーカリストがカッコいい、ということだけだ。


 彼の魅力を語るために、さよ子さんの言葉はすでに十二万字以上が費やされていると思う。文庫本一冊ぶんだ。さよ子さんが彼に一目惚れしたのはつい先週だというのに。


 話題の彼とは会ったこともないけれど、ぼくはすでに彼に同情している。こんな勢いで攻めまくられたら、いくら何でもドン引きするんじゃないだろうか。

 とりあえず。


「すみませんが、そろそろ解放してください。ここ、ぼくの部屋ですよ」


 さよ子さんは頬を膨らませた。


「女の子が語りたいときは、男の子は語らせてあげるべきです!」

「じゃあ、好きにしてもらってかまいませんが」

「海牙さん、優しい♪」

「ぼくは着替えますね」

「にゅあっ?」


 ぼくはおもむろに制服の上着を脱いで、カッターシャツのボタンを上から三つ外し、ベルトに手を掛ける。髪を掻き上げて流し目をすると、さよ子さんは声もなく部屋から飛び出していった。撃退成功。


「パワハラとセクハラで、総統に訴えますよ。本当に」


 他人を部屋に入れるのは嫌いだ。基本的に、女性と接触するのも好きじゃない。でも、さすがに、屋敷のお嬢さま相手には強く出られない。


 ぼくはシンプルなシャツとジーンズに着替えた。玄獣珠のペンダントは、どんなときも肌身離さず付けている。


 直径23mm。未知の無機物質から構成される、玄獣珠。鉱物の一種には違いないのに、生体反応に似た「何か」が感じられる。


 ぼくは玄獣珠を決して視界に入れない。触れる肌から感じ取るチカラを、ぼくの目では解明できない。力学フィジックスのチカラを介して見る玄獣珠には、読めない文字が、びっしりとたかっている。文字がうごめくありさまは気味が悪い。


 宝珠は奇跡の存在だ。人の願いを叶える。願いに相応の代償を食らって、奇跡を生み出すんだ。願いが大きければ、代償も大きくなる。


 ぼくの預かる玄獣珠は、単独の存在ではない。四獣珠のうちの一つだ。中国の伝説に登場する四聖獣が、それらにチカラを授けたという。


 玄獣珠は玄武。

 朱獣珠は朱雀。

 せいじゅうしゅは青龍。

 はくじゅうしゅは白虎。


 四聖獣とは、そもそも、物事に備わる四つの「特徴」を象徴する存在だ。四分類される「特徴」には、例えば、色、方位、季節、物質あるいは物性、感情、体の部位、味覚などがある。


 玄獣珠に備わるのは、くろと北、冬、水、哀しみ、腎臓や耳、塩辛さなど。占いや東洋医学では、そうした「特徴」をすべて覚えておくことが重要らしい。ぼくにはさして興味がない。覚えたところで何かの役に立つとも思えない。


 預かり手のチカラとそれらの「特徴」は、相互に関連しない。チカラは、預かり手自身の個性に由来するそうだ。


 それなら、ぼくという人間において、チカラと人間性の関係をどう説明するのが的確なんだろう?


 学校にも上がらない幼いころ、足し算と引き算を知った。九九を覚えた。分数と小数を理解した。その都度、視界にうごめく未知の情報は、整然として美しい数へと姿を変えていった。嬉しかった。だから、ぼくは勉強に没頭した。


 学べば学ぶほど、知れば知るほど、この視界の情報は、質も量も最適化されていく。ぼくは勉強せずにはいられない。目の前にある情報を必ず処理せずにはいられない。まぶたを閉ざして無防備になる姿を、誰にも見せたくない。


 チカラを持つからこそ、ぼくの人間性はこんなふうなのだと思う。でも、宝珠の由来を記した古文書によれば、人間性がチカラに形を与えるのだという。


 自分に関わることだけに、このテーマについてどんな答えを出すのが正確なのか、ぼくは方向性を決めかねている。


 ぼくは総統の書斎を訪ねた。総統は忙しい人だ。でも、事前に予約を入れる必要はない。総統は万事の掌握者だ。ぼくの行動くらい、何もかも見透かしている。

 ノックをして扉を開ける。総統は、くつろいだ和服姿で執務机に向かっていた。


「お仕事中、失礼します。お耳に入れておきたいことがあるので」


 総統の顔立ちが不思議な印象を持つのは、左右の誤差がきわめて小さいせいだ。頭蓋骨の形状も東アジア人として理想的なバランスを成しているから、文字どおりの意味で、総統は格好がいい。四十代後半。加齢による皮膚の緩み具合さえ、計算したように端正だ。


「そろそろ来るころだと思っていたよ。ゲームセンターでのデートは楽しかったかい?」


 総統の能力は計り知れない。心の声も記憶も読まれてしまう。まあ、報告の手間が省けるから楽だと思っておこう。そうでなければ、強大なチカラへの恐怖に負ける。


「ほんの二十分程度でしたが、楽しめました。女性は年上のほうがいいですね」


 年上だから、だと思う。リアさんに近寄られても、手を握られたことさえ、不快じゃなかった。


「またすぐに会えるよ。彼女やその弟は、海牙くんの行く末に多大な影響を与える。今、運命が分岐するポイントに差し掛かったようでね」

「運命が分岐、ですか?」


「正確には、運命のひとえだの分岐だな。何が起こり得るか、『秘録』で読んだことがあるだろう?」

「ええ。四獣珠を始めとする宝珠について記されていて、その来歴や預かり手の役割にも言及されていましたね」


「運命の一枝、と例えられる、この世界の在り方についても」

「記憶しています」


 運命は、多数の可能性の枝を持つ大樹の姿をしている。ぼくが生きるこの世界は、ある一枝の上に存在する。別の一枝の上には別の世界があって、別のぼくが生きている。


 総統には、この一枝の生長が見て取れるという。それが総統のチカラだ。


 日常的に知覚することのできない運命の一枝なんてものを、一体、どんな姿でとらえているのか。好奇心に駆られて、総統に「ぼくも見てみたい」と言ったことがある。


 総統は見せてくれた。いや、見せてくれようとした。

 ぼくの額にかざされた総統の手のひらから、凄まじい量の情報がぼくの脳へと叩き込まれた。読解できない、うごめく文字の、途方もない奔流。ぼくは一瞬も耐えられず、意識を失った。


 あんなものを、総統はいつも見ている。肉体こそ人間のものだけれど、チカラは人間であり得ない。


 総統は普段、チカラを外に漏らすこともなく、ひっそりと常人のふりをしている。たまにチカラの片鱗をのぞかせることがあって、そんなとき、ぼくはどうしても目をそらしてしまう。処理できない情報の怒涛が視界を占領してしまうから、ただただ怖い。


 けれども、その総統を以てしても、未来が少しもわからないときもあるという。

 総統は静かな目をしてぼくを見た。


「まもなく、この一枝は分岐すべきポイントに差し掛かる。四獣珠が互いに呼び合い、預かり手たちを引き会わせ、さる問題に立ち向かわせる。きみたちの勝率は、どうも高くないようだがね」

「不利とわかっている勝負に突っ込むのは、ぼくの主義ではありません。避けられるのなら避けたいものです」


「残念ながら、人生は、残機ゼロの強制スクロールだよ。ステージを進めば勝手にセーブされ、リセットはできない。進める限りに進むしかなく、手にするクレジットはゲームクリアかゲームオーバーか、二者択一だ」


「システムにバグがあったとしても、それが仕様であるとの一点張りで、お詫びのボーナスアイテムも支給されないクソゲーですよね」


「散々な低評価レビューが続けば、その一枝というクソゲーも、さすがに配信と運営をストップせざるを得ない。生長に失敗した一枝たちは淘汰され、より遠い未来へと生長し得る一枝たちが次の世代へと伸びていく」


「淘汰に、世代か。まるで機械学習の物理演算ですね。最近、人工知能の機械学習について書かれた本を読んだんです。人工知能の学習の過程は、遺伝学になぞらえた言葉で表現されるんですよね」


 思いがけず、総統が嬉しそうに微笑んだ。


「私も、ちょうど今、AIの本を読んだり動画を観たりするのにハマっていてね。あれはおもしろいな。ビジネスのどういう分野にAIが導入できるかという視点ではなく、科学技術として純粋におもしろい。もっともっと知りたくなる」


 総統は運命の一枝も人の心も知覚できる一方で、学術を身に付けるためには、ごく当たり前の努力をしなければならないそうだ。国立大学の文系学部を出たという割に、サイエンスの話題に食い付くことが多い。


 ぼくは話のテーマをもとの軌道に戻した。


「この一枝も、淘汰される可能性があるんですね?」

「あるだろう。私には見えないけれども」


「どんな条件を満たすことができれば、適応度の高い解として評価され、この一枝を次の世代につなぐことができるんでしょうか?」

「さて、どうすればいいんだろうね?」


「総統にもおわかりにならないんですか?」

「私は、少し先の未来における最適解を知っている。しかし、一枝たちがディープラーニングをおこなう間、その過程はブラックボックスの中だ。プログラムの設計を知る私にさえ、ブラックボックスを開けることができない」


「具体的に何がおこなわれているのか……いや、ぼくたちがこの一枝の上で何をおこなうべきなのか、わからない」


 総統はうなずいた。そして一つだけ、曖昧な予言をくれた。


「事件が起こるよ。きっと、すぐに」


 それからぼくは部屋に戻って、授業の課題を片付けた。

 理系科目は、途中の計算式を書くのが面倒で仕方ない。問題を見ただけで答えがわかるのに、ひたすら徒労。この面倒があるから、理系科目は案外嫌いかもしれない。


 全国模試の順位はいつも一桁だ。中学時代からずっと、学校の定期試験で一番以外を取ったことがない。


 理系科目は言うまでもなく、絶大なアドバンテージがある。文系科目はそれなりにきちんと勉強している。でも、普段から膨大な情報量に接しているぼくは、現代日本語だろうが古語だろうが英語だろうが、読んで理解するスピードが速い。


 文字を読めるようになるのは、実はけっこう遅かった。紙に書かれた文字が情報を持つことを、なかなか理解できなかった。素材である紙やインクの情報にばかりに目が行っていた。


 どうやって文字というものを理解したんだっけ? たぶん、母の手作りクッキーが最初だ。真ん中にひらがなが一文字浮き出る、タイル状の型抜きクッキーだった。


 美人だけれど気が弱くておとなしい母は、知恵の付き方がとてつもなくアンバランスなぼくを持て余していた。しょっちゅう泣きながら、毎日のように、ひらがなのクッキーを焼いて、ぼくに文字を教えた。


 あるとき唐突に、ぼくは、自分の名前を並べることができたんだ。何度も何度も目にしてきた形の並びが「かいが」を表す記号であると、いきなりわかった。


 文字から構成される世界、文章によって表現される世界を知ると、少し楽になった。その世界に没頭している間は、情報量が制限される。他人と同じ情報量を仮想的に体験できる。


 だから、理系なのにと言われるけれど、読書は好きだ。漫画よりも、文字だけの小説のほうが集中できる。あらが気になるSFよりは、違う世界を描いたファンタジーがいい。


 文字の世界より楽なのは、当然ながら、視界をゼロにすることだ。目を閉じているときは、多すぎる情報を見ずに済む。


 でもまあ、何だかんだ言っても、情報量の多さはメリットのほうが大きい。例えば、今日、リアさんを数値的に精密に見て記憶しておいたから、かなり確度の高い脳内再現が可能だ。


 逆に不思議に思うのだけれど、ぼくのような正確な視覚を持たない普通の人々は、どんな基準で以て「美人だ」「スタイル抜群だ」と判断するんだろう? ずいぶん曖昧な評価しかできないはずだ。


「そうだ、リアさんに連絡」


 ぼくは椅子から立って、ベッドに腰掛けた。かわいくないイヌワシは、枕の上に転がしてあった。懐に突っ込んだままの紙片を開く。「ナガエ リア」とカタカナ書きの名前の下に、電話番号。メールアドレスと、トークアプリの検索IDも添えてある。


 ぼくは、いちばん手頃なトークにメッセージを打ち込んだ。


〈こんばんは、午後にお会いした阿里海牙です〉


 すぐに既読になった。同じタイミングでスマホをいじっているんだな、と思うと、妙に嬉しい。


〈こんばんは、連絡ありがとう!〉

〈リアさんが起きていてよかったです〉

〈まだ寝ないよ〉


 リアさんは、仕事に必要な調べ物の最中だったらしい。


〈お仕事ですか?〉

〈美容師。つい昨日、友達のサロンで働くことになったの〉

〈調べ物が必要なんですか?〉

〈トレンドの調査とか〉

〈なるほど〉


 住む世界が違う人だな、と感じた。


 オシャレとかトレンドとか、どちらかというと、面倒くさい。自分の容姿はそれなりに気にするけれど、ワンシーズンで賞味期限の切れる流行を追い続けるなんて時間がもったいない。もっと普遍的に通用する美しさや格好よさがあるだろう、と思う。


〈海牙くん、カットモデルやらない?〉

〈夕方に「髪を切れ」と言われたばかりです〉

〈賛成。わたしが切ってあげる〉

〈本当ですか?〉


〈本当です。きみの髪、天然パーマ?〉

〈天然パーマです。見えないでしょう?〉

〈見えない。ちょっと形を変えるだけで、すごく垢抜けるはずよ。そういうの、自分で研究するのは面倒くさいって思ってるでしょ。素材そのままで十分カッコいいからって〉


〈読心術ですか? 全部バレてる〉

〈きみみたいな人のために、わたしみたいなプロがいるの。髪も服も、自分で決めるのが面倒だと思うなら、全部相談して〉


 画面を見ながら一人で笑っている自分に、ふと気付いた。

 今日初めて会った人と、画面越しに、文字だけの会話をしている。その他愛ないやり取りが、心地いい。


〈じゃあ今度、髪のカット、よろしくお願いします〉

〈ついでに写真も撮らせてもらっていい?〉

〈撮ってどうするんですか?〉

〈サロンに飾って客引きするの〉


 リアという名前は、琳安と表記すること。でも、当て字っぽいから嫌いだということ。カタカナで書かれるほうが気に入っていること。


 そんな雑談をして、トークを終えた。髪は、サロンが休みの月曜の夕方に切ってもらうことになった。


「おやすみ、また明日、か」


 スタンプのメッセージを読み上げてみる。

 リアさんの年齢、いくつなんだろう? 十歳近く離れていると思う。リアさんの弟の理仁くんは、ぼくと同い年だ。十七歳なんて、かなり子どもに見えるだろう。ちょっとへこむ。


 目を閉じてみる。処理すべき情報が遮断されて、静かだ。

 ああ、そうか。電話すればよかった。目を閉じて声だけを聞いたら、ぼくは鮮やかに彼女を思い描けたのに。


「明日、そうしようかな」


 セリフを考えておこう。からかうような、生意気なセリフを。

 リアさんを驚かせたり慌てさせたりしてみたい。この手で何気なく彼女のピアスに触れた、あのときみたいに。

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