狂乱

 もう日は暮れて、再び夜闇が空を覆っていた。

 その空の下を、一人の少年が、その美しい顔立ちを恐怖で目いっぱい歪ませながら走っていた。その少年こそ、他の誰でもない、三枝家の亀公丸その人である。

 亀公丸はひたすら逃げていた。逃げても逃げても、大蝮おおまむしは蛇行しながら追いかけてくる。

 彼は考え無しに逃げているわけでなかった。このような事態にあっても、彼は知恵を働かせていた。亀公丸の目の前には、真竹まだけの植わった竹林があった。大蝮の図体を見るに、竹林を強引に通り抜けるのは多少なりとも苦労する筈だ、と、彼は考えていた。

 亀公丸は竹林をそのまま真っ直ぐに突っ切った。その後に続いて、大蝮もそこを通ろうとするが、整然と立ち並んだ青竹が体に引っかかって上手く進めない。強引に竹をなぎ倒しながら進んだが、その進みは明らかに鈍っていた。

 竹林を抜けた先には、寺の境内があった。この寺の住職は父の懇意にしている人物であることを亀公丸は知っていたのである。亀公丸は庫裏くりの戸を力任せにばんばんと叩くと、厳めしい顔つきの僧侶が其処から出てきた。

「助けてください!もうすぐ化け物が……化け物が追ってきているんです!」

 亀公丸は必死に訴えた。竹林が時間を稼いではいるが、それも長くは持たない。門の方を見ると、あの化け物が門を壊して迫ってきていた。竹林を抜けてきたのだ。

「すまない……拙僧に出来ることはこれぐらいしかない。」

 そう言って、僧は亀公丸を梵鐘の下まで連れてくると、鐘を下ろし、亀公丸をその内に匿った。

 亀公丸は、中から梵鐘に手を触れた。今の自分の身を守ってくれるものは、この青銅の鐘だけである。手に握った短刀は、こうなっては最早何の用も足さない代物に過ぎない。彼は自分が邪悪な桀王けつおうを倒した湯王とうおうでもなければ、暴虐な紂王ちゅうおうを倒した武王ぶおうでもない、ただの非力な少年に過ぎないことを呪った。

 外から、ぎゃあ!と、男の叫び声が聞こえた。住職が殺されたのだ、と解するまでに、少しの時間も必要なかった。

 亀公丸の心の臓は、その鼓動を甚だしくしていた。外には、あの化け物がいる。この一日で、友を失い、そうして今は自分の身も危険に晒されている。理不尽極まりなかった。何か、助かる道はないのかと焦った。

 暫くすると、何だか、鐘の中が異様に暑くなっていることに気づいた。化生の力で、外から熱せられているのだ、と、亀公丸はすぐに思った。ああ、こうして焼き殺されるのか。

 亀公丸の目からは、自ずと涙が流れてきた。まだ、道半ばの人生であった。古の聖賢の道を学び、ゆくゆくは天下国家の為に奉仕することを夢見てきた。他人より恵まれたこの容姿も、何かの役には立つだろうと思って悪い気はしていなかったが、今ではその容貌が仇となってまさに殺されんとしている。全ては今日で終わって、先に逝った実の父母の所へ行くのか……そう思うと、愈々遣る瀬無くなった。

「ああああああ!!!!!!」

 亀公丸は殆ど半狂乱になりながら、内側から鐘を引っかいたり叩いたりした。けれども、その思いを全て無下にするかのように、鐘はびくとも動かなかった。


 亀公丸が見つかったのは、明くる日の朝であった。梵鐘の方から異様に焦げ臭い臭いがするものだから、寺の修行僧が鐘を上げてそれを見つけたのである。見つかったとは言っても、遺体の肉は焦げ上がって、それが誰であるかは全く分からなくなっていた。折しも三枝家の養子の行方が知れなくなっていて、後にこの焼死体はその養子、つまり亀公丸のものとされたのである。鐘の中に少年がいて、それが焼き殺されたという奇妙な状況に、検分を行った者たちは皆怪訝な顔を隠さなかった。

 その傍らには、胸に穴が空いて血を流していた住職の遺体もあった。左慈助と住職は同じような死に方をしていたから、同一犯ではないかと推測された。けれども、左慈助や住職を殺した犯人も、亀公丸を焼いた犯人も、その目星は、とうとうつかず仕舞いであった。




 多摩川の河原で、二人の少年が、真竹の棒を携え、侍の真似事をしてちゃんばらごっこをしていた。

「……何かこの辺臭くない?」

「確かに……何か変だな。」

 少年の内の一人が、異様な臭いに気づいた。何か、死体の腐ったような嫌な臭いで、二人は顔をしかめた。見ると、少し離れた場所に、蝿がぶんぶんとたくさん飛び回っている所があった。

 二人がそこへ駆け寄ると、そこにあったのは、口を開けて死んでいる、一匹の蝮であった。

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