厭夜
その夜のことであった。
亀公丸は、床に入ったものの中々寝つけずにいた。体は疲労しているのだが、先刻のあの恐怖が頭にじっとり纏わりついて、それが彼の眼を
左慈助と談笑していた時には美しいものとさえ思えた秋の夜闇が、今では自らを取り囲む恐ろしい魔物にしか思えない。眠れば、次に起きた時には朝日が昇って闇はかき消えているはずだ。だからこそ、早く眠りたかった。眠ってしまって、この夜闇から逃れたかった。何度も打った寝返りは、それ自体が眠りに落ちることが出来ない彼の憤懣と焦燥を表していた。
ふと、亀公丸の耳が何かを捉えた。それはよくよく聞けば、か細い人の声としか思えないものであった。亀公丸の肌はぞくぞくっと粟立ち、その背筋は冷水でも浴びせられたように急冷された。
「亀公丸様……」
女の声であった。何処かで聞いたような気はするが、それは思い出せないでいた。
みしり……みしり……と、何かが畳を踏みしめてこちらへ向かってくるのが分かった。その時亀公丸は、寝床に護身用の短刀があるのを思い出した。蒲団を被って震えていては、却って無防備な自分を相手に晒すだけだ。ならば、いざという時には一矢報いられるようにしておいた方が良い。
亀公丸は意を決して蒲団から出て、傍にあった短刀を掴んだ。そして短刀を抜き、その声の主と思われるものと向かい合った。
その目の前に、若く美しい娘の顔がぼんやりと浮かび上がっていた。
「
声を震わせながら、亀公丸は短刀の切っ先を向けて言った。逃げ場のないことを悟ったことで、一歩も引かぬ勇気が彼の中に生じた。
「お忘れになったのですか……薄弱者。」
「何者か分からぬが、人を薄情者呼ばわりとは。其方に
「分かるも何も、契りを結んだ仲ではありませんか。私の
それを聞いて、亀公丸は思い出した。縄で縛られ、無理矢理に
「もしやあの時の……!」
亀公丸の中で、怒りが恐怖を上回った。
「それで此方を追って来たということか。全て分かったぞ。」
とうとう亀公丸は
「其方は
亀公丸は、晋の悪女驪姫と楚の妖婦夏姫の名を使って目の前の女をなじった。
「まぁよく回る口だこと。
その時、娘の瞳が、青く光った。それはまるで炎の燃えるが如きでありながら、同時に
亀公丸の脚を支えていたものが、ふっと切れた。亀公丸は短刀を取り落とし、そのまま床に突っ伏した。
亀公丸が目を覚ました時には、朝になっていた。朝の日差しがこれほどまでに頼もしいものとは、今まで少しも思ったことはなかった。
全ては夢であって欲しかった。けれども、床に転がった抜き身の短刀が、晩の出来事が夢ではないことを物語っていた。もし、再びあれがやってきたらどうしよう、と、亀公丸は甚だ
なぜ、自分が恐ろしい目に遭わねばならないのか、考えてみたが分からなかった。あれは、例の一晩の事で子を孕んだと言っていたが、よしんばそれは真実だとして、己に非はない筈であった。無理矢理辱められたのはこちらなのだから。
事が起こったのは、その日の夕刻のことであった。
家に、左慈助が駆け込んできた。駆け込んできたとは言っても、その足取りは力ないもので、今にも死にそうな様子に見えた。見ると、左慈助の腹には大きな穴が空いていて、そこから溢れんばかりに血が流れていた。
亀公丸はそれを見て顔面蒼白になった。自分の身ばかりを気にして、彼の安否をすっかり忘れてしまっていた。まさか、左慈助が狙われるとは……
「早く……逃げろ……奴はお前を……」
それだけ言い残して、左慈助は事切れた。今ここに、一つの命が失われた。
付き合いは短かったが、亀公丸にとって、左慈助は無二の親友であった。ここに来た当初は陰鬱な気分で過ごしていた自分が、彼にどれほど救われたかは計り知れない。
彼は
「亀公丸様……」
声が聞こえた。外を見ると、そこには怒れる龍の如くに青く光った目をした例の娘が、じっとこちらを見ていた。
突然、娘の体が泡に包まれ、溶けて消えてしまった。その泡がやがて固まり、一匹の大きな
化け物だ!亀公丸は例の短刀を引っ掴むと、急いで外に飛び出した。
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