秋風

 亀公丸は、左慈助に連れられて岡の上まで来ていた。もう、とうに日は暮れて、夜闇が空の下を覆っている。辺りからは、蟋蟀こおろぎや鈴虫のに混じって、何かの夜鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。

「ほら、上を見て。」

 左慈助は夜空に指差した。空には雲一つなく、指の先には丸い月が掛かっていた。

「秋風に たなびく雲の 絶え間より 漏れ出づる月の 影のさやけさ……って歌があったよな。」

 言って、左慈助は歯を見せて笑った。

「ええっと確か……藤原の何某なにがしって奴の歌だったっけな。」

顕輔あきすけだよ左慈助。藤原顕輔ふじわらのあきすけね。」

「ああ、そうそう。そんな名前だったな。」

 左慈助は頭を掻きながら言った。

「じゃあこっちも……」

 亀公丸は、一息吸った。

牀前しょうぜん明月めいげつの光

疑うらくはこれ地上の霜

こうべを挙げて山月を望み

頭をこうべれて 故鄕を思う」

 亀公丸はお返しに、詩仙李白の静夜思せいやしを朗詠した。

「これは李白が月を眺めながら故郷に思いを馳せた望郷の詩なのさ。」

「ああ、李白、覚えてるぜ。酒好きのおっさんだろ。」

「酒好きのおっさんって……まぁそうだけど。」

 清風が、びゅう、と、二人の間を吹いた。月明かりに照らされた芒が、その長い穂を揺らし、木々の枝葉が、風に煽られ擦れてざわざわと歌っている。

「それにしてもさ、」

「ん?どうした?」

「こうして見てると亀公丸って美人だよな。」

「えっ……。」

 その言葉自体に驚いたことはない。眉目秀麗な美少年であるからして、亀公丸自身、他者にそういう目で見られるのは慣れていたから。寧ろ驚いたのは、その言葉が左慈助の口から出たことだった。

「あっ……いや、今のは忘れてくれよ。」

 左慈助の物言いは、至極慌てたようなものであった。亀公丸はどう返り事したら良いものか分からなかった。きっと、夜闇がなければ、左慈助の真っ赤な頬を見ていたかも知れない。

「でも顔が良いってのは本当だからな。それは自信持って良いと思うぜ。」

 言いながら、左慈助は亀公丸の方に腕を乗せてきた。それが何だか可笑しくて、亀公丸はくすりと笑いそうになった。

 その時、ざざっ……と、何かの動く音がした。

 ざざっ……

 ざざっ……

 よく耳を澄まして聞いてみると、その音は少しずつ、二人に近づいてきているようである。亀公丸は、思わずぞくっと背筋を震わせた。夜の闇に紛れて見えないが、何かがこちらへ接近してきている。それが狸か穴熊の偶然の動きであれば良いが、その正体不明の何かが、意思を持ってこちらへ来ているとしたら……

「……何かまずい!逃げよう!」

 何か、ただならぬ気配を感じた左慈助は、亀公丸の手を引いて脱兎の如く走り出した。それに引かれた亀公丸も、脚をもつれさせながら何とか走った。

 二人は暗闇の中をひたすら走った。その音の主は二人が走り出したことに気づいたのか、速度を上げて二人の方にざっざっざっざっ、と勢いよく近づいてきた。二人は全速力で走っているが、全然遠ざかる気配がない。

 どれぐらい走ったか分からなかった。亀公丸は、いつの間にか一人になっていたことに気づいた。左慈助を探さなくてはと、ちらと考えたが、音は亀公丸の背を相も変わらず追ってきていた。自分が追われているということは左慈助はきっと無事であろう、と思って安堵したが、同時にそれは、追われているのは自分自身であったことを証していた。そのことが、亀公丸の恐怖を更に煽り立てた。最早立ち止まることは叶わなかった。

 ざっざっざっざっざっ……

 ざっざっざっざっざっ……

 もう一生分は走っただろう、というぐらいに、亀公丸は走った。普段はすぐに疲れてしまう体に、よくぞこんなに力が眠っていたものだ、と、平時であれば我ながら感心していただろう程に、亀公丸は走った。走って、走って、走り続けた。その走ることはまるで漆黒の風のようであった。

 ようやく、目の前に見慣れたものが見えた。それこそが、亀公丸の帰るべき三枝の家であった。

 当初は夜も遅くに帰って来たことに憤懣ふんまん顔をしていた養父母は、その秀麗な顔を恐怖でくしゃくしゃにしている亀公丸を見て、これはただ事ではないと察し、何があったのか聞き出した。亀公丸は、何か得体の知れないものに追いかけられたことを必死に話した。正十郎は彼に対し、暫く外に出ないように、と言いつけた。亀公丸とて、そのつもりであった。

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