第4話

 夜の帳、砂の丘。時折吹く強い風が砂粒を浚って舞い上げる。風が、半分砂に埋まった脆く崩れた石煉瓦の背を撫で、ボロボロに風化した布切れは今にも崩れ落ちそうになりながら飛んでいる。トカゲが砂に潜るコガネムシを追いかけて砂の上をちょろちょろ走っている。

 突然、砂が大きく揺れ、「腕」が地面から突き上げる。トカゲは驚いてすばしっこく逃げていった。砂にまみれた腕は抜けるように白く幼いものだ。砂から突き出した腕がわきわきと動き、空を切り地を掴みジタバタともがく。



 ぐぬー暑い、なんというか熱いし、そして重いのじゃー。ジタバタするも視界は真っ暗で、息苦しく、もがく、もがく、もがくのじゃー。息ができぬー。ふんぬらばーっ…!バンザイと上げた両腕が、ゾンビよろしくバスンッと地上に飛び出した。わしが人間だったら死んでるぞー!こらー!口は未だ砂の中。声にならぬ言葉と腕でそそくさと印を組み、身の内に巣食う悪魔を召喚する───わしをここから出してくれー


 程なく、両腕を掴まれたわしは、自分の喚び出した異形の悪魔によって、ズバーンと砂の中から勢いよく引きずり出されることになる。



「ぷはーっで死ぬかと思ったー」


───砂まみれだな、ガキンチョ


「砂まみれじゃー!けほっ…!もう少し、丁寧に出さんかー!もー!わし乙女じゃぞ!お・と・め!げほっ」


───悪魔より長生きのババアのくせに何言ってんだ


「こなくそー!」



 目覚めたらまた砂まみれ。罠にかかったウサギのように宙ぶらりんの状態で、に見た景色を思い出そうと考えたら、無意識に眉間に皺が寄った。思い出せるものは、砂だった。記憶の中の風景と照らし合わせて変わったことといえば、今が夜であり、いくらか涼しいということくらいだ。そして人気ひとけが皆無だ。砂の中にいた時も真っ暗だったが、外に出ても暗かった。口の中はじゃりじゃりして苦い。無造作に砂の中に捨てられていたっぽいので、わしはおそらく死んでしまったらしい。そう思いついたところで思い出したように体がズキズキと傷んで、頭痛がした。そういえば頭に銃口を突きつけられたような気がしないでもない。派手に吹っ飛ばされたんじゃろうか。わしは不死っ子じゃが、死んでしまってから再生するまでの間に何が起こったのかは、わからんのじゃ。


 わしの目の前にいるは、どこにいても違和感しかない、人よりも大型のなにかである。頭は立派な巻き角を乗せた赤い目の牡山羊で、体はクマのように大きく、黒く硬く短い毛で覆われている。毛むくじゃらの胴から伸びた脚には偶蹄目のヒヅメが生えている。背中からは飛膜のコウモリ翼が伸びていて、尻にはヒョロリと伸びた矢印のような尻尾がうにょうにょと動いていた。口を開けば人語ではない、穴に吹く風のような、轟々としてまるで言葉とは思えぬ雑音が耳を突き抜ける。この異形のものはゴート。普段はわしの体の中に潜んでいるうちの一匹で、それは悪魔だった。長いこと世界から世界へ旅をし続けているものでな、旅路で気に入ったモノや人や動物や、果てはこのような悪魔なんかを拾ってきては、自分の名前を書いて(ほとんど無理矢理)契約させて、家に置いたり体の中に住まわせたりしているのじゃ。契約をした時点で、そやつらからは自由と命が奪われて、わしの魂と繋がれる。だからわしは大抵、捨てられたり死んだりして生きられなくなったものを拾ってきた。わしの魂が死なない限りはそやつらは生きることができ、宿主を守ることで自分達を守ることになるのであれば、わしも守られるという寸法じゃ。

 そうすれば、仮初かりそめの主従ではあるが、そやつらにもメリットがあり、わしもメリットがある、うぃんうぃんな関係になるのじゃ。


 とはいえ、今は呼んだから出て来はしたが、危機にならねば、自分からは出てこない。ではなぜ、まさに命の危機に出てこなかったのかという話だが、まあそれは第一にわしにとってはあれは危機ではなかったからということに、他ならず悪しからずうまからず…


 むむ。なぜわしは裸なのかー!死ぬ前、確かにヒジョーに無造作ではあったが、あれだけぐるんぐるんに巻きつけたはずの布切れがなぜだかどこにもなく、足元の砂を掘れば布切れだっただろうグズグズの繊維と、軍人崩れが着ていたのと同じような柄の上衣が出てきた。なんじゃこれ。なぜこれがこんなところに。それについさっき死んだにしては…ボロすぎやせんか…?うむ…布切れは、ボロの限界点を超えたようだ…。うーむ。仕方ない。とりあえず砂をバッサバッサと払い、かろうじて着れそうな、布切れよりはマシなボロい迷彩の上衣に袖を通した。


 空を仰げば最後に見た空とは異なる静かな夜空だ。満天の星空だ。風に巻かれた砂粒が顔を襲う。暑かろうが寒かろうが、頭が吹き飛ぼうが脳髄が弾け飛ぼうが死にはしない…が、暑いのも寒いのも痛いのも嫌じゃ。それに喉が渇いている。前に大量の体液を流したせいだろうか。肉は戻るが、血は戻らぬ。貧の血で貧血じゃし、体の中に残る鉛玉の感触が見えないくせに主張してきて気持ちが悪い。弾け飛んだ頭の再生は意識が戻る前に済んでいるようだが、散弾だったが故に肉が戻る時に巻き込んでくっついたらしい。体の中がじくじくと痛む、全身が筋肉痛じゃー。



「ゴート!わしを廃屋でも瓦礫の影でも、どこでもいいからとにかく風を避けられるところへ運んでくれ」



 地面に大きな影を落とす毛むくじゃらの獣を見上げて命じれば、影はうんともすんとも言わず、ただ轟々とした風が耳に鳴る。黒くゴワゴワの毛並みの大きな腕に抱えられると、大きな獣は地を蹴った。翼はまるで飾りのように羽ばたく素振りも見せず、大きな毛むくじゃらは質量を持たぬようにふわりと宙に浮いた。そして、瞬間その姿は消えて、空には細く長く棚引いた飛行機雲だけが残った。なんてかっこよく言ってみるが、要は体が黒くて保護色になっているだけじゃよ。



 ───こっちから、お嬢さんの匂いがする


「この世界に落ちて、行った場所と言えば砂漠と廃屋と、あの変な軍隊崩れの施設…か?」



 ゴートの逞しい腕に抱えられ、胸毛に顔まで埋まると、空気抵抗ともおさらば。風の音も遠く、ゴートとの会話は、物理的な声ではないため雑音とも混ざらない。「着いたら起こしてくれ」とずぶずぶと毛並みに埋まる。この大きな獣は、獣の体を装っているくせして獣臭さはつゆほどもなく、強いて言えば冬の夜の匂いがする。星屑が降り注ぐ泥の海に体を投げ出して、沈殿する泥のように眠る。しかし幾許もなく、眠ったか眠らないかわからないくらいに、ゴートに揺り起こされた。


───お嬢さん、お嬢さん


「嫌に早いな…中に入らないのか、?」


───匂いがしたのはここだ


「なんだ…これは」


 わしはあの日、死んだ。わしは眠る度にどこかへ飛ぶ厄介な体質だ。そう、あの日、わしはのだ。大きな獣の腕に抱えられながら空から見下ろした光景は、砂に埋もれた瓦礫の山と人気ひとけのないがらんどうの建物だった。ヤツの鼻にはケチのつけようがない。ヤツはあの時もから、この場所を見たはずなのだ。ゴートがそうだと言うならば、そうなのだ。わしは目隠しをされていてわからなかったが、悪魔は宿主の目を通さなくとも、姿は表さなくとも、常に「そこ」に佇み、物事を視ているのだ。宿主の体は門であり窓だ。悪魔は窓から世界を覗いている。


 装甲車には乾いた血がこびり付き、肉塊が散らばって、カラスがその肉を啄んでいる。門だっただろう白い壁は大きく崩れて、硬く重い鉄の扉は折り紙でも折るようにくしゃりとひしゃげて歪んでいる。かつて、ここで大量の血液が流れたことが分かるほどに、白かった壁は血にまみれて黒ずみ汚れている。擦り付けられた大量の手形や指の跡は黒ずんだ血の色で残り、眠っている間になにごとかが起きたことを物語っていた。



どうやら…わしがしばらく眠っている間に、お話は進んだらしかった。


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