第3話

 今まさに眠りに就こうとしていたというのに、むむ、明日まで待てと言いながら気の早いやつめ。扉についた覗き窓は高く、扉に手を突き背伸びをしても到底届かない。そうじゃわしはちまいのじゃ。眠い目をこすってよっこらしょと呟いて立ち上がり、扉の前に立つ。なんの用か聞いてやるだけ聞いてやろうか…わしえらいなー


「そこにおるのは誰じゃ…」


 受け渡し窓がズズズと少しだけ開いて、ごつい腕が狭そうに窓から這い出てきた。驚いて胃がヒヤッとした。仰け反って距離を取って見ていたら、次いでストローが挿された蓋付きの容器に入った液体が差し出された。「飲め」とつっけんどんに言われ、(ビクビクしてそーっと手を伸ばして指先でツンツンしてから)断る理由もないので受け取り、蓋を取り匂いを嗅ぐ。水ではなかった。いや、水といえば水なのだが爽やかな柑橘系の香りがふわりと香り、舐めてみればほんのり酸味がある。レモン水だこれ。どういう気配りなんじゃ…。あと無言で腕を入れてくるのやめろ。ババアうっかり心臓麻痺で死ぬ。

 

 わしが困惑していると、ごつい腕の持ち主が受け渡し窓から顔を覗かせた。見覚えは…ないというよりわからない。人の子は皆同じ顔に見える。(覚えられないだけじゃ)もし自己紹介を聞いていたとしても覚えられる気がしない。記憶力のなさには自信がある。えっへん。


 人の子は名乗らなかったが、見張りを交代する際に「軍曹、そいつにあんまり情をかけるなよ、自分が辛くなるだけだ」「俺がしたいからするだけだよ」と話をしているのを聞いたので便宜上グンソウと呼ぶ事にする。彼は扉を挟んだ向こう側で腰を下ろしたようだった。物騒な世界でよくもまあ物好きなものだ。「お前のような子供を処分するだなんて、心苦しい」だとか「きっと守ってやるから」なんて、勝手な感情を溢した。人の子のしがらみはわしには理解できないが、出来もしないのに暑苦しいやつだ。戯言だが、暇潰しに付き合ってやってもいい。しかし今は寝かせて欲しい。



 結局、グンソウとやらは一晩、扉の前で見張りをしていて時折わしに話しかけては「すまない」だとか「どうにかするから」だとか無責任なことを言ったり、彼の身の上話をしたりした。身の上話に絡んで、この世界の話をいろいろとした。


 

 具体的にはこの国の話である。それは彗星が異常接近した年のことだった。繁栄を極めた文明、莫大な人口の増加。元は軍事国家だったらしい。内乱が頻発する中、とある軍事研究の一環で生み出されたウィルス兵器が暴発し、爆発的に国民に感染していったのだと。飛沫感染で体液を流す度に感染者が増えて行き、現在では生存者より感染者の数が上回ってしまったのだとか。どこかで聞いた話だ。どこでだって聞く話だ。安っぽいホラー映画のようだ。この世界では初めての、未曾有の災害なのだろうけれど。



 軍曹は語り出す。


「武力による鎮圧作戦が行われたが、研究は極秘。隔離された部屋から飛び出した感染者は一度は武力に鎮圧された。しかし感染がどういうものかも知らされず俺たちは兵士は投入された。それからは感染から感染への地獄だったよ。発症までは個人差があってな、順番に食い殺されて、伝言ゲームがうまくいかないまま、感染は拡大した。返り血を浴びて感染し、任務中に突如発症して近くの仲間に噛み付いては増えて行ったんだ」


なんと手緩いことか…やるならば反撃の隙も与えぬままに焼き払えばよい。



「始めに感染が始まった街は、緑あふれる街だった。だが政府は国を救うため犠牲を払うことにした。ただし犠牲は国民だ。汚物を消毒するように、政府は街ごと焼却することを決断した。周囲一帯を消毒するために、街には炎の飛礫つぶてが降り注ぎ、国民と共に街は炎に包まれた」



「しかし、感染保持者は見た目には生存者と変わらない。このことから、消毒を逃れてを元に、街から街へ、保持者の行く先々で感染者は増加した。それは海辺の港街。海へ逃れた生存者を追いかける感染者に、空中から奇襲をかけた。空から鉛玉が山のように降り注ぎ、生存者ごと撃ち抜いて、海は赤く染められた。海は汚染された」



「増加していく感染者に反して生存者の人口は目に見えて減少していった。文明は次第に崩壊の一途を辿る。産業が動かなくなり、物の製造は滞り、物資が足らなくなり、人々は不安に苛まれて余裕がなくなった。僅かな物資は店や家から奪い奪われ、治安がどんどん悪化した。人々は不安に逃げ惑い、病院では集団感染が起こった。多くの人々が生ける屍と化した。そして何もかもが足らなくなった」



「燃える彗星が空に輝いた日、湖の近くの教会で、救いを求めて集団自殺が起こった。『神よ、どうしてこのような試練をお与えになるのです』『あの彗星は神の裁き』『これは終末への始まりに過ぎない』彼らは祈りながら、教会に火を放って焼け死んだ。悲鳴は渦を巻いて響き渡り、黒炎が天高く登って雨を呼んだ。ほうき星は地上に落ちる前に燃え尽きたが、その灰が湖に流れ込んで、水源は汚染された」



はたして、この世界に神はいたのじゃろうか。塵が舞ったところで神はなんにも気にしはせんかったのじゃろうか。



「政治家や権力者は国を捨てて国外へ亡命した。大量の難民が周辺国に流れたが、受け入れを拒否されたり動けなかったものたちなど、多くの国民が取り残された。軍は解体され指導者がいなくなり脱走者もいた。俺や一部の残った軍人たち…まあ元軍人だけどな、命ある限り、感染者と戦い続けるんだって決めたんだ」



「なぜ逃げないんだ」とわしが聞くと、グンソウは「ここが俺の国だから」と言った。わしにはわからないが、それは彼にとって大事なことなのだろう。生きるとは、死ぬとは、どちらもわしにはわからない。なぜここに来たのだろう。誰に呼ばれたのか、何がゴールなのか未だ不明のまま、おそらく朝が来れば処刑されるのだろう。

 夜明けを迎え朝が来る頃、彼は最後に、受け渡し窓から腕を伸ばしてわしの頭を粗雑にガシガシと撫ぜた。



 早朝、わしは拘束を解かれた。今度は目隠しもなく屋内を移動し、アジトを出て元来た道を車に乗せられて運ばれた。車には狐目とグンソウと他数名が同乗した。砂の丘に立たされて、狐目が言った。


「判決が下された」


「この場で始末する」


「我々はお前を処刑する」



狐目の言葉に次いで、背後の男が言葉を続ける。



「身寄りのない怪しい子供、それならば誰も悲しまないだろう」


「最期に言い残したい言葉があるなら、それを慈悲として与えよう」



わしには、狐目たちの言葉がひどく滑稽に感じて、笑ってしまった。自らを神と誤る愚か者ども。この世界にも神はいるだろう。きっとお空の上で嘲り笑っていることだろう。神はちっぽけな人の子に気まぐれで慈悲を与えるのだろうか、それとも



「殺せるものなら、殺してみせろ。さあ、殺せ」



わしは、狐目にハグを求めるように腕を広げた。お前が神と言うならば、さあ早く、わしを悪夢から救ってくれ。狐目は、わしに散弾銃を突きつけた。古臭い使い込まれたようなポンプアクション式散弾銃。散弾銃の鉛玉はさぞ痛かろうな。



 狐目はまずわしの足を撃った。わしは砂に膝を突いた。燃えるように熱い。それから腹を撃った。腹に穴が開いて肉がえぐれて骨が露出した。目が霞む。腹からぼたぼたと大きな血の塊が落ちて、ごぷりと大きく吐血してから口からだらだらとよだれと血の混じった液体が出た。わしは命乞いはせず、笑ってやった



「ほれ、まだ、生きて、るぞ」



そして頭に突きつけた銃身から放たれた散弾は、わしの頭を吹き飛ばし、わしの意識は暗転する。



 小さな頭はまるでスイカのように弾けて、骨が脳髄が、体液と共に飛び散った。首を失い、腹にぽっかりと穴が空いた体躯は糸の切れた人形のように、ゆっくりと砂の上に崩れ落ちた。破れた肉袋からは大量の血液が砂を巻き込んで流れていき、あたたかい濃密な血の匂いと生臭い血肉と臓物の匂いは、砂の風が浚っていった。感染者はこの付近には未だ現れてはいないが、鳥が匂いを嗅ぎ付ける前に死体は埋めてしまわねば。狐目は眉を顰め「気味の悪い子供だ」と言い、少女の死体に唾を吐き、それからその場に落ちた薬莢を隠すように砂に埋めた。「我々は止まるわけには行かない」と吐き捨て、車に戻っていく。



 は、脱いだ上衣をそっと、少女の亡骸に被せて、「すまない」と呟いた。風に舞い上げられた砂粒が、少女の体を隠すまで時間はそうかからなかった。

その日、少女は死んだ。


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