第五楽章
今日も第二音楽室で自主練を始める。ここ最近は桃花とずっと合わせをしていたが、今日は一日合奏に参加するらしい。それを少し残念に思いながら篤哉はピアノを弾き始める。
初日よりも大分スムーズに弾けるようになってきていた。桃花との合わせも、共通のイメージのおかげでいい感じに仕上がってきている。
あ、さっきの装飾音符ちょっともつれたな。
気になる所を楽譜に印づける。篤哉の譜面には既にたくさんの書込みがされていた。
そう言えば、初めて荒井さんの楽譜を見た時は驚いたなあ。
濃い鉛筆で余白にぎっしりと書込みがあって、遠くから見ると譜面は真っ黒だった。あれで音符がちゃんと見えるのかと心配になった程だ。
そんな事を考えながら一人思い出し笑いをしていると、教室のドアが勢い良く開いた。
篤哉は突然の事に跳び上がる。
「なんだ、先客が居たのか」
現れたのは制服を派手に着崩した茶髪の三年生だった。おそらく軽音部の人だ。
ガラの悪そうな見た目と先輩である事に篤哉は激しく動揺する。
「お前、名前は?」
先輩は側にあった椅子を乱暴に引きずって来て、椅子とは反対向きに座りながら質問した。
「て、寺島です」
「寺島君、ピアノ出来んの?」
「まあ、少し」
「へー、ちょっと弾いて見せてよ」
突然の無茶振りに篤哉は面食らった。だが、断る勇気も無い。
篤哉はとりあえず一般人でも知っている様な有名な曲を弾いて見せた。途中緊張と恐怖で何回か間違ってしまったが。
教室に小さな拍手が響く。
「おー、上手いじゃん」
どうやら機嫌は損ねなかったようだ。篤哉はほっと息をついた。
「もしかして吹奏楽部の助っ人って、お前?」
「そうですけど…」
「やっぱり!お前、三年の間で結構有名だぜ」
篤哉は目を白黒させた。
「なんでですか!?」
「白河が『救世主が現れた〜』とか言って周りに言いふらしてるからだろ」
篤哉はこめかみを押さえた。そんな呼び方で有名になってもちっとも嬉しくない。
でも部長と知り合いなら、この人はそんなに怖い先輩ではないのかもしれないと思った。
「あの、先輩はどうしてここに?」
「あー!そうだ、忘れるところだった」
先輩は立ち上がって後ろの棚を一つずつ確認していく。
「おっ、あったあったー」
そう言って一番端の棚からスポーツタオルを取り出した。
「これを取りに来たんだよ」
先輩は篤哉に向けてタオルを突き出す。
その時、タオルを掴んだ左手に包帯が巻かれているのに気付いた。
「…ああ、気になる?」
篤哉の視線を察知した先輩はタオルを持ち替えて左手を見せる。
「どうしたんですか、それ」
「二週間くらい前の暴力事件、お前知ってる?」
篤哉は少し記憶を巡らせた。
「あ、片方病院送りになったやつ」
「そうそう、それ」
先輩はにやりと笑った。
「俺、当事者。んでもって病院送りにした方」
篤哉は度肝を抜かされた。こいつほんとにガラ悪い奴じゃねぇか!
篤哉が何も言えずにしどろもどろしているのを見て、先輩は噴き出した。
「ふははっ、なんだよその間抜け面。冗談だって!」
「えっ」
腹を抱えて笑う先輩を呆然と見つめる。
「あーおかし。ただ体育で捻っただけだっての」
まだ少し笑いを零しながら、先輩はドアの方へ向かっていく。
「んじゃ俺帰るわー。また来るぜ」
出来ればもう来ないで欲しいと篤哉は切に思った。
先輩は少し体を捻って振り向く。
「あ、
篤哉に背中を向けて手を振りながら、樹は教室から出て行った。
「寺島君っ」
部活帰り、零が塾で先に帰ってしまったので一人で歩いていると、後ろから呼び止められた。
振り返ると小走りで桃花が自分を追いかけていた。篤哉は鼓動が速くなるのを感じる。
「ごめんね、今日合わせ出来なくて」
篤哉に追いついた桃花は少し息を切らしながら言う。篤哉は大きく頭を振った。
「全然。おかげで微調整する事が出来たし」
そのままの流れで二人は並んで歩く。お互いに今日の合奏の事や普段の生活の事を話したりしていた。
途中、樹の事を話そうかと思ったが、下手に話すと面倒な事になりそうなので止めておいた。
「コンクールまで後二週間だね」
「そうだな」
「うちの学校一度も金取ったこと無いんだけど、私、今年は絶対県大会に行きたい」
篤哉は桃花を見た。桃花は真っ直ぐ前を見据えている。いつだってそうだ。彼女の瞳は決して揺るがず、ただ前だけを見ている。
その瞳に惹かれて、あの時引き受けてしまったんだろうか。
篤哉も前を見た。
「頑張ろうな」
「うん」
駅までの道のりがやけに短く感じた日だった。
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