第三楽章
翌日。終礼が終わった後、篤哉は零の所に駆け寄った。
「零ー。一緒に部室行こうぜ」
「やだ」
零は素早く荷物をまとめて、スタスタと教室を出て行ってしまう。篤哉は慌てて追いかけた。
「ちょ、待てよ零。もしかしてまだ怒ってんの?」
「当たり前だろ」
零は立ち止まって篤哉の方に向き直った。
「僕が頼んだ時は断ったくせに」
棘のある言い方に篤哉は気が滅入る。
「だって、荒井さんに頼まれたら断れねぇし…」
「だったらその荒井さんと一緒に部室に行けばいいだろ」
零は再び早足で歩き出す。篤哉は本格的に困り果てた。
「そんなこと出来るわけないだろ。俺が悪かった。なあ、機嫌直してくれよ」
零は返事をしない。こうなってしまうと零はとことん頑固だ。
篤哉は眉間を抑え、深い溜息をついた。
「…帰りにパーゲンザッツ抹茶味」
「許す」
部室に入ると既にほとんどの部員が揃っていた。桃花もいつの間にか先に来ていたようだ。
蛍を見つけて篤哉は話し掛ける。
「部長。俺今日どうしたらいいですか」
「ああ、てっしーは第二音楽室のピアノを使って自主練しててくれる?」
「第二音楽室、今日も空いてるんですか」
「軽音部、今活動してないから私達の使い放題よ」
蛍は軽くウインクする。
軽音部の事を訊いてみたがあまり詳しく教えてくれなかったので、篤哉は大人しく第二音楽室に移動した。
相変わらず殺風景な教室だ。紅い夕焼けがさらに物寂しい雰囲気を作っている。
篤哉はピアノ椅子に座って譜面板に楽譜を置く。一つ深呼吸をしてから試しにゆっくりと弾き始めた。
途端に違和感が走る。昨日は夢中で気が付かなかったが、やはり七年間のブランクは存在した。
一通り弾き終って息をつく。予想はしていたが、かなりショックだった。
しばらく目を閉じて精神を集中させる。そして、篤哉はもう一度鍵盤に手を置いた。
練習を始めて数時間たった頃、ドアから桃花がひょっこりと顔を出した。
「練習どう?上手くいってる?」
「んー、まあまあって感じかな…」
篤哉は苦笑を浮かべる。
「そっかー。一度合わせとこうと思ったんだけど、今日は止めておいた方がいいかな」
桃花が戻ろうとしたのを篤哉は慌てて引き留めた。
「いや、大丈夫だよ。ちょっと間違えるかもしれないけど、荒井さんがそれでいいなら…」
「ほんと?良かった」
桃花が楽器と譜面台を持ってこちらにやって来る。篤哉は自然と背筋が伸びた。
ピアノの上で動いていたメトロノームを桃花が止める。
「ソロの部分は形だけ指揮振るから、テンポは私の自由にしていいって顧問の
「分かった」
桃花は大きく息を吸ってソロを吹き始めた。芯があってとても綺麗な音色だ。どの楽器にもない、オーボエ独特のリード音。
篤哉も指を動かした。
一度目の合わせが終わる。何とも言えない、微妙な出来だった。
篤哉がまだ楽譜をさらえていないという事もある。しかし、根本的な理由は他にある気がした。
さらに三回合わせてみたが、どれも同じだった。
桃花は考え込んでしまった。その様子を見て篤哉は申し訳ない気持ちになる。
やっぱり俺がピアノなんて…。
「寺島君はさ、どんなイメージで演奏してる?」
桃花の方を見上げると目が合う。篤哉はすぐに逸らして楽譜を眺めながら考えた。
「曲調からして夜の海かな。神秘的で静かな海の中で遠くから鯨の声が聞こえてくる、そんな感じ」
「なるほどねえ」
桃花はまた思考に戻った。篤哉はおずおずと問いかける。
「荒井さんは…?」
「愛」
桃花はキッパリと答えた。篤哉は目を瞬かせる。
「愛?」
行き過ぎた想像かもしれないけど、と前置きを述べて桃花は楽譜に視線を落とした。
「二楽章、題名は「鯨の歌」だけど、実際に歌ってるのは船乗りの方だと思うんだ。月明かりに照らされた海面から二頭の鯨の親子が姿を現すのを見て、船乗りは遠い故郷にいる家族の事を思い出すの。そして、自分の置かれている状況を振り返る。今自分が立っているのは気紛れな海の上。明日この船は沈むかもしれない。もう二度と家族に会えないかもしれない。そんな不安を胸に、船乗りは遠く離れた家族に対して慈愛に満ちた歌を口ずさむの。…なんて、想像し過ぎだよね」
桃花は照れくさそうに頬を染める。一方、篤哉は驚きが隠せないでいた。
「荒井さん、すごいよ。俺、そんな考え全く思いつかなかった」
気分が高揚している。あの時の感覚に少し似ていると感じた。
「イメージも荒井さんに合わせるよ。もう一度やってみよう」
篤哉は座り直して鍵盤に手を置いた。だが、桃花は動かない。不思議に思って見ると、本人は豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をしていた。
「どうかした?」
「えっ、いや、何でもない」
桃花は急いで楽器を構えた。吹き始める前に小さな声で呟く。
「ありがとう」
その言葉は篤哉には届かなかった。
結局、桃花との合わせは部活終了間際まで続いた。
皆が楽器を片付けているのを眺めていると、後ろから声を掛けられた。
「おっす。練習お疲れー」
振り返ると、まだ顔と名前が一致していない男子部員が二人いた。
「ああお疲れ。えっと…」
「
「どもです」
上履きの色からして、郁人が二年で啓太が一年だ。そう言えばパーカッションにいたな、と篤哉は思い出した。
「んでよ、桃花ちゃんと二人きりの練習はどうだった?」
強調された「二人きり」という言葉で顔に熱が一気に集まる。
「どうって、別に…」
「おいおい照れんなよ〜」
郁人は篤哉の肩に腕を回してきた。やけに馴れ馴れしい奴だな。
「ちょっと郁人さん。篤哉さんが困ってますよ」
啓太は篤哉から郁人を引き剥がす。後輩がいい子で良かったと篤哉は安堵した。
「なんだよ啓太。せっかくの友情の芽生えをお前は無残に摘み取るのか!」
「馬鹿な事言わないで下さい」
どうやら二人はかなり仲がいいらしい。やり取りがとても微笑ましかった。
郁人は篤哉に手を差し出した。
「仲間になってくれた事だし、仲良くしよーぜ。他の男子部員も後で紹介するよ」
「ああ、よろしく」
篤哉は郁人と握手をする。
「俺もよろしくお願いします」
その横で啓太が可愛らしくはにかんだ。
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