第二楽章

「本当にありがとう〜!君は私達の救世主だよ!」

手厚い歓迎に篤哉は呆気にとられる。先程から両手で握られた右手を、上下に激しく揺らされて痛い。

桃花の迫力のある申入れについ二つ返事で承諾してしまった篤哉は、半ば強引に第一音楽室前まで連れてこられていた。ちょっと待ってて、と言って音楽室の中に入っていった桃花は、少しして一人の三年生と一緒に出てきた。

それが、今篤哉の目の前で涙目になっているこの人だ。

「嬉し過ぎて涙出てきちゃった〜。あ、自己紹介まだだったね。私は三年七組の白河蛍しらかわけい。アルトサックス担当で、吹奏楽部の部長よ。あなたは?」

「二年九組の寺島篤哉です」

「九組ってことは荒井ちゃんと風見っちと同じクラスか!」

風見っち…。零がそう呼ばれる場面を想像すると笑いが込み上げてきた。あの無愛想な零にあだ名を付けるとは、たいした人だと感心する。

第一印象からもそうだが、蛍はフレンドリーで陽気な性格の持ち主のようだ。部長というのも納得がいった。

「早速皆に紹介しなくちゃ。さあ、入って入って」

背中を押されて音楽室に入ると、蛍は二回手拍子を打った。全員が各々で練習していた手を止め、こちらに注目する。その中に目を丸くしている零を見つけて、篤哉は気まずそうに笑いかけた。

「自由曲のピアノを担当してくれる、寺島篤哉君です。皆拍手〜!」

盛大な拍手に包まれる中で篤哉は後悔した。もう今更、やっぱりやめますと言える雰囲気では無い。篤哉は流れを遮る機会を失ってしまった。

「はい、やめ〜。ってことで寺島君、これからよろしくね♪」

「えっ、ええと…」

蛍の横に並んでいた桃花と目が合う。桃花はにっこりと微笑んだ。が、目は笑っていない。

篤哉はごくりと唾を呑み込んだ。

「よろしくお願いします…」

再び教室に拍手が起こった。

「じゃあ、メンバーを紹介していくね。まずは三年生から…」

一人ずつ紹介された人が篤哉に向かって会釈する。篤哉は仰天した。

「三年生ってこれだけですか?」

「そうよ。私達四人だけ。最初はもっといたんだけど、皆辞めちゃった」

蛍はあまり気にする素振りも見せず、紹介を続けていく。二年生十一人、一年生八人、合計二十三人。全体的にも人数が少ない。生徒が二千人以上いるマンモス校にしては、意外だった。

「これで全員ね。よし、じゃあ寺島君。はい」

蛍は篤哉に紙を渡した。ピアノの楽譜だ。

「『海の男達の歌』…」

「それが私達が今年演奏する曲よ」

テーマは「海」か。篤哉は楽譜に目を通す。譜面上はあまり難しく無さそうだ。

「音源聴いてもらうから、寺島くんは隣の準備室に来て。皆は練習再開ー」

返事と共に音楽室が騒がしくなる。篤哉は蛍と一緒に準備室に移動する。

「あ、私も行きます」

桃花もそれについて来た。


準備室はやけに埃っぽかった。棚には楽器ケースやファイルが乱雑に並んでいる。奥には洗面台があり、その近くにはハーブが何台か置いてあった。

最後に入ってきた桃花が音が入らないように扉を閉める。

「汚い所でごめんねー」

蛍は側にあった椅子を持って来て座る。篤哉と桃花も隅に重ねられていた椅子を取り出して座った。

「それじゃ、早速」

二人を確認した後、蛍は携帯で曲を流し始める。篤哉は一点を見つめ、集中した。

ロバート・W・スミス作曲の『海の男達の歌』は三部構成となっていた。第一楽章「Sea Chanty(舟歌)」、第二楽章「Whale Song(鯨の歌)」、第三楽章「Racing the Yankee Clipper(ヤンキー・クリッパーの航海)」。どの楽章も船の出航や船乗りの忙しなさ、神秘的な夜や荒れ狂う波をよく表現した曲だった。

曲を聴き終え、篤哉はふうっと息をつく。瞬きを忘れていたのか目が少し乾いていた。

「いい曲ですね」

「でしょー。まさに海って感じの曲よね」

「ピアノが重要な部分って、二楽章のオーボエソロの所ですか」

「当ったりー。んで、そのソロをするのが」

「私よ」

篤哉は桃花の方を見る。その顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。


今日はもう帰って家で譜読みをしてこい、という蛍の言いつけ通り、篤哉は早退して真っ直ぐ家に帰った。

自室のベッドに寝転びながら譜面を開く。そのまましばらくそれを眺め続けた。

譜読みは昔から得意だったので何も問題は無い。後は実践するだけ。だが、篤哉は素朴に思った。本当に自分がピアノを弾いてもいいんだろうか。二千人もの生徒がいる中で、まさかピアノが弾ける人が篤哉一人だけという事は無いだろう。もっと上手い人がいるはずだ。

それなのに、七年もピアノから離れていた自分がどの面を下げて舞台に上がると言うのか。

楽譜から目を離して天井を見つめる。

覚悟は決めた。かと言って、自信があると言う訳でも無かった。

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