第一楽章

昨日の大雨が嘘のように晴れている。画面の中の天気予報士が、例年より異常に早い梅雨明けを伝えていた。

これから鬱陶しい夏が来るのかと思うと、早くも夏バテになりそうな気分である。

「篤哉、早く食べないと学校遅れるわよ」

「んー」

食パンを牛乳で無理やり流し込み、のろのろと学校に行く準備をする。ハンガーに掛けてあった長袖のシャツに腕を通そうとした時、先程の天気予報士が今日の最高気温は30度を超えると言っていた事を思い出した。

夏服どこにしまったっけな…などと考えていると8時を差す時計が目に入った。

「やっべ!もうこんな時間かよ!」

慌てて長袖に腕を通し、玄関に向かう。

「じゃ、いってくるー!」

電車が最寄り駅に着くまであと6分。朝に似つかわしい日差しを浴びながら、篤哉は全速力で走った。


「おはよ、篤哉」

「おう、零」

ほぼ滑り込みで乗った車両に親友の風見零かざみれいがいた。

「なんでそんな汗かいてんの」

「駅まで走ってきたんだよ。こんな暑い日に最悪だぜ」

そう言って篤哉はシャツを掴んでパタパタと扇ぐ。それを横目に零はイヤホンを耳に掛けた。

「何聴くんだよ?」

「今年のコンクールで演奏する曲」

「ああ、吹奏楽部の。本番はいつ?」

「分からない。まだ六月だし」

零は目を閉じる。曲に聴き入っている時によくする癖だ。

邪魔をしたら悪いと思って、篤哉もポケットから携帯を取り出した。その時、零のイヤホンから漏れた音が耳に入る。

ピアノの音だ。

ちらっと零の方を見る。零はまだ目を閉じていた。

取り出した携帯を仕舞い、篤哉は車両の窓から空を眺めた。目が眩むような高くて青い、夏の空だった。


教室に入るなり、冷房の涼しい風を感じて火照った体が冷やされる。これぞ天国。篤哉は技術の進歩に感謝した。

「よお、寺島に風見。今日はやけに遅かったじゃねぇか」

クラスメイトの新田信夫にいだしのぶ蒲原優馬かんばらゆうまが話し掛けてきた。

「寺島はともかくよ、風見が遅いって珍しくね?」

「ともかくってなんだよ」

篤哉は信夫の首に腕を回し力を入れる。信夫は苦しそうにもがいた。

「ちょ、まっ、ギブギブっ!」

「参ったかコノヤロー!」

「もう、二人共やめろってー。暑苦しいなあ…おい、見ろよ」

呆れていた優馬が顔色を変えて教室のドアの方を指差す。そこには荒井桃花あらいとうかの姿があった。

「俺らのマドンナの登場だぜ」

「っかー!今日も荒井さん可愛いなあ」

優馬と信夫が盛り上がる中、篤哉も桃花に見とれてしまう。

艶のある黒髪のセミロングに白い肌とパッチリとした大きな目、笑うと小さな笑窪ができる桃花は全校男子の高嶺の花だ。

「でもいいよなあ、風見は。あの荒井さんと部活が一緒なんだもんなあ」

溜息をつきながら信夫は零の方を向く。

「別に。部活一緒でもそんな話さないし」

「またまたあ!ぶっちゃけ言って、お前ら結構お似合いだぜ?美男美女同士で」

確かに、零も桃花に劣らず端正な顔立ちをしている。実際女子にもかなりモテるし、零なら桃花の隣に並んでも申し分ないだろう。でも、なんと言うか…。

「風見の女顔じゃ、一歩間違えたら百合だな!」

篤哉が考えていた事を優馬が笑いを堪えながら言う。

おいおいそれはまずいだろ…と篤哉が思った瞬間、優馬のケツに零の強烈なキックが入った。


昼休み、篤哉達が購買に行く途中、なんだか廊下が騒がしかった。優馬が通りすがりの生徒に理由を聞いてみると、どうやら三階の第一音楽室前で三年の男子生徒が暴力沙汰を起こしたらしい。それを聞いた零が血相を変えてどこかに行ってしまった。

しばらくして、屋上で昼食を食べている篤哉達の所に零が戻ってきた。

「どうしたんだよ零、急に走って行って」

「…別に。何でもない」

「何でもないって事はないだろ。まさかあの暴力事件、零に関係あるのか?」

零がいない間、篤哉達はその暴力事件について色々と情報を得ていた。かなり激しく揉めたらしく、周りの男子生徒や駆けつけた先生が羽交い締めにして止める程だったそうだ。片方は病院送りになったらしい。

「関係ないよ。急にお腹が痛くなってトイレに行ってただけ」

「なんだ〜そうならそうと素直に言えよな〜!あっ、そういや昨日さ…」

零の顔はどこか元気がなさそうだった。篤哉は心配になったが、信夫が話を変えたので何も言えなかった。


放課後の図書館にはあまり人がいない。いたとしても、そのほとんどが目の前に受験が迫っている三年生だ。

篤哉はいつものように東側の奥の席に座った。部活に入っていない篤哉にとって、放課後の一時間だけ図書館で眠るのは日課になっていた。

腕を枕代わりにし、そこに頭を乗せて目を閉じる。図書館ならではの静寂が心地いい。しばらくその状態でいると、ピアノの音が聞こえてきた。

篤哉の学校は図書館の近くに第二音楽室がある。そこはよく吹奏楽部や軽音部が使うため明らかに設計ミスだと思うが、時々こうやって誰かがピアノを弾いている日がある。その人のピアノの腕はかなりのものだった。

だが、今日はどこかおかしい。簡単なはずのフレーズで詰まってしまっている。

調子が悪いのだろうかと考えていると、午後の体育の疲れが押し寄せて来て、篤哉はいつの間にか眠りについた。


零から電話があったのはその日の夜の事だった。ちょうど風呂上がりだった篤哉はタオルで髪を拭きながら電話に出た。

「なんだよ、急に電話なんかしてきて」

「篤哉って昔ピアノやってたんだよな」

篤哉の動きが止まる。

「…そうだけど、何だよ」

「今年のコンクールの曲、ピアノが重要な場面があってどうしても必要なんだよ。でも、うちの部員ピアノ弾ける奴いなくてさ」

零の声は真剣だった。そこに少し困惑と焦りがあるのも感じられる。

次の言葉を予想するのは簡単だった。

「お前にそのピアノを弾いて欲しい」

篤哉はリビングにあるグランドピアノを見つめた。あの時の記憶が甦ってくる。

「…悪いけど、それはできねぇよ。ピアノ辞めてもう七年も経つし、多分お前の期待には応えられない」

電話越しに沈黙が流れた。しばらくして零が口を開く。

「…そっか。夜遅くにごめん。じゃあまた明日」

「…おう」

電話を切った後も篤哉はずっとピアノを見つめていた。


あれから約一週間。零はいつも通りだったし、篤哉もあの夜の事はそんなに気にしないようにした。

今日もいつものように図書館に行って、いつもの席で寝る体勢になる。図書館には静寂が漂っていた。

「今日も弾いてないのか…」

あの日以来、ピアノの音は全く聞こえてこない。三日に一度おきくらいに吹奏楽部も軽音部も第二音楽室を使わない日がある。今まではその日に必ずピアノの旋律が流れていたのに。

一体どうしたのだろうか。もしかしたら体調不良で学校を休んでいるのかもしれない。何か他の用事があって忙しいのかもしれない。

その時、あの詰まったフレーズが思い浮かぶ。篤哉の頭にある考えがよぎった。

まさか、調子を落としたショックでピアノを辞めてしまったのか?

篤哉は立ち上がって図書館を出た。


第二音楽室にはやはり誰もいなかった。

殺風景な教室にグランドピアノが置かれている。

篤哉はゆっくりとそのピアノに近づいていった。スタンウェイ。ピアノに刻まれた文字に驚く。どうして普通の公立高校にスタンウェイのピアノがあるんだ?

スタンウェイは世界三大ピアノメーカーの一つで、濁りのない繊細な音色を持つことから多くのピアニストに愛されている。音大ではこのピアノがよく使われているらしいが、公立、ましてや音楽科等がない高校が使用しているなんて思いもしなかった。

篤哉自身、スタンウェイのピアノを目の前にするのは初めてだった。鍵盤蓋を開き、興味本位で音を鳴らしてみる。

瞬間、きらびやかな音が教室に響き渡る。その余韻が消えた時、篤哉の中で何かが弾け飛んだ。

椅子に座って鍵盤に両手を置く。咄嗟に浮かんだメロディに沿って指を動かした。哀愁感のある旋律に艶やかな音色が融合する。周りの雑音が消えて、ピアノの音だけが響く。穏やかに流れるその音が篤哉の身体に染み込んできた。

なんで俺、ピアノ弾いてるんだろ。

7年前に辞めて以来、一度も触った事が無かったのに。二度と触らないと決めたはずなのに。

それなのに自分は今、ピアノを弾いている。この音を求めている。

よく分からない感情が指に伝わって、音を奏でさせていた。

どうして、俺は…。

その時、ドアが開く音がして篤哉は我に返った。同時に演奏していた手も止まる。

篤哉はドアの方を見て目を見開いた。

「あ、荒井さん!?」

桃花も驚いた様子でこちらを見ていた。

二人の間に少しの間沈黙が漂う。篤哉は焦ったが、学校一の美人を目の前に何を話せばいいのか分からなかった。

「…さっきのって、寺島君…だよね?」

「えっ!?あ、ああ、うん!」

突然の問いかけに大袈裟に反応してしまう。顔と耳が熱くなっている事を意識すると、恥ずかしさで余計に体温が上がった気がした。

「その曲、チャイコフスキーの『アンダンテ・カンタービレ』でしょ」

「あ、うん。よく知ってるね」

「クラシック、よく聞くから」

そう言いながら桃花はピアノの側まで来た。初めてこんな近さで桃花を見て、篤哉の胸の鼓動はさらに速まる。

「寺島君、ピアノ上手だね。風見くんの言ってた事本当だったんだ」

篤哉は慌てて立ち上がり、ピアノから距離をとった。

「いや、さっきのはなんて言うか、無意識と言うか…その、俺もよく分かんなくて…」

「私は分かるよ」

桃花は真っ直ぐに篤哉を見つめる。

「寺島君がすごくピアノが好きだって事が」

「…は?」

篤哉は唖然とした。思考が完全に停止している。

「寺島君、ピアノ好きだよね。さっきの演奏でそれがよく伝わってきた」

「い、いや、別に好きって訳じゃあ…」

「嘘。だって寺島君、いつも図書館でピアノの音聴いてるでしょ」

篤哉は目を見張った。開いた口が塞がらない。

「なんでそれを…」

「私、本好きだから部活行く前によく図書館を利用してるの。その時いつも寺島君の事見かけてたから」

ようやく篤哉は落ち着きを取り戻し始めた。緊張も最初よりしなくなっている。

「図書館にはただ寝に行ってるだけだよ。ピアノは関係ない」

「それも嘘」

桃花は目でしっかりと篤哉を捉えている。瞳が大きい分、目力が半端ない。

篤哉は一歩後ずさった。

「東側の席より西側の席の方が日当たりもいいし、椅子だって柔らかい。それに東側は音楽室に近いから、吹奏楽部とか軽音部の音で寝づらいはずだよ。本当にただ寝に行ってるだけの人が、わざわざそんな場所選ぶ?」

篤哉はたじろいだ。何も言い返せない。為す術もなく下を向いて床を見つめると、再び沈黙の時間が訪れた。

「…どうして寺島君がピアノ辞めちゃったのかは知らないけど、好きって気持ちを隠す必要は無いんじゃないかな」

今までとは違う遠慮がちの言葉に、篤哉ははっとした。顔を上げて桃花を見る。桃花は照れくさそうに微笑んでいた。

「なんかごめん。ちょっと偉そうだったよね」

「いや、全然大丈夫…」

荒井さんと話してると調子狂うな。

篤哉は頭を掻きながら天井を仰ぐ。

桃花はしばらく考える素振りを見せると、やがて篤哉の方に一歩踏み出した。

「ねえ、やっぱり吹奏楽部にピアノの助っ人として来てくれない?」


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