消えてしまった惑星のこと
『地球』の記憶の始まりは、なにもかもを覆いつくす青でした。美しくて、目を奪われて、わたしはページをめくる手をなかなか次へ進めることができませんでした。
史書に記録する時、記憶の時間は止まっています。史書を繰ることで、時間はふさわしいぶんだけ、進むのです。その速度は、惑星史の尺度により決まります。この惑星は、他の惑星よりすこし、短い生を、他の惑星より激しく、生き抜いたようでした。
青にすこしずつ緑が挿し、それは雄大さを持って惑星を塗り替えていきました。点々と、生が芽生えていきます。わたしたち天使は、全知全能のかみさまなどではないので、惑星の記憶を視ることはできても、惑星の言葉はわかりません。その青も、緑も、生にもなまえがあるはずなのに、わたしにはひとつもわかりません。……すこし、悲しいことです。
それからは、白や橙、赤、黒、灰、さまざまに色が生まれ、消え、その繰り返しでした。空に奇妙な形の雲が生まれ、消え、背の高い灰色が積まれていき、崩れ、消え、また生まれて、その繰り返しでした。
最後はまた、青。なにもかもを埋め尽くす、青。『地球』は、自分が始まった頃の記憶に苛まれ、戻りたくなったみたいでした。けれど、戻ったら最後。記憶はそこで、おしまいでした。
「お、エンジェ、お帰り」
「ただいま帰りました、アンジェロ。お元気でしたか?」
史書の管理に支障をきたすほどの惑星の終わりを見届けたら、わたしは記録課に戻ります。史書を納め、空へ戻るまで、すこしの休息です。今回は六千年というすこし短い期間の旅でしたが、あの青い惑星のことが、わたしにかろうじて残った心に引っかかり、わたしはだれかと話をしたくなったのです。
「アンジェロ、いまお時間ありますか?」
「……? なんだその質問。変なやつだな、時間は、あるだろう、いつでも」
「あ、はい、そうですね……」
感覚が、すこしだけ歪んでしまったことを、自覚したのはこの時でした。あの惑星の、「生」に満ち溢れた記憶に、気づかないうちにひどく大きな影響を受けていたようでした。
「時間に追われて生きる者たちを視た? へえ、よくわからないが、恐ろしいな」
「……わたしもすこし、怖くなりましたよ」
「怖い、か。その感情、俺のはもうすっかり褪せているからなあ。もしおまえが天使でなかったら、その惑星で暮らせたかもな」
「やめてくださいよ、天使でなかったら、なんて。存在が揺らいでしまいます」
「……ほら、その感覚。存在意義がどうこう、なんて、天使が考えることじゃないだろ」
アンジェロは、記録課の責任者。いろいろなことを̪知っています。存在意義、という、そういう発音をする言葉は、青い惑星の生たちが、喘ぐように叫んでいたことでした。
「その、存在意義、って、どういう意味なんですか?」
「自分がなぜ、存在しているのか、存在していたいのか、ということの答えを求めるものたちが、叫ぶ言葉だよ。おれ、先代から一度だけ、聴いたことがあるんだよな。おそらくだが、先代はその惑星の近くへ行ったことがあるんだよ。帰ってきた先代は、おまえみたいに、すこしだけ天使らしくないことを口走っていたな」
「……そう、ですか。なんだか、気持ち悪いです。やめますね、もう、この話」
「それがいい。ほら、これ、新しい史書」
「ありがとうございます。それじゃあ」
「おう、またな」
消えてしまった惑星のことに、あまりこだわってはいけない。気にしてはいけない。史者の義務です。史者は、惑星の記憶を「記録する」。それだけで、いいのです。それだけでいいのだと片付けてしまうことを、寂しく思ったりすることは、いけないことなのです。
わたしはまた、空を旅します。もう二度と、あの惑星のように、心に嵐をもたらす出会いがないよう––––––––––そんなことを、初めて、考えながら。
Fin.
記憶の記録者 藍雨 @haru_unknown
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