第21話 天才娘と父の望み

 俺の夏休みが始まっておよそ一か月が過ぎた。つまりはその年の八月の中旬になったころ、俺に作業の指示を出していた四宮のテンションは、以前よりもかなり高くなっているように感じられた。


 その頃になると、研究所にある巨大なタイムマシンも初めて見た時のそれとはだいぶ姿を変えていた。最初はパイプオルガンほどの大きさの巨大な金属部品の集合体という感じだったが、八月中旬のそれは、もともと大きいものがさらに一回り大きくなっており、隣にエレベーターのような箱が増設されていた。その箱の部分に人が入って時間移動するようで、以前からあったタイムマシン本体部分の操作レバーと同じものがその中にもあった。

 実際にタイムマシンに新しい部品を付けたり箱を繋げたりしたのは俺である。いざ遠くから全体を眺めてみると近くで作業をしていた時よりも、より完成に近づいているように見えた。その頃の四宮のテンションが高かったのも、きっとそのせいだったのだろう。


 そして八月が下旬に差し掛かろうとしていたある日の夕方、タイムマシンのいろんな場所を見て確認していた四宮が俺に言った。


「よし、できたよ!」


 ついに、タイムマシンの人を飛ばす部分が完成したようだった。しかし、まだ全部が完成したわけではない。東郷先生によると、このままこれを人に使えば、そのエネルギーを受けたマシン全体が壊れる上に、飛ばす人の安全も保障できないそうだ。

 先生は安全対策を施すにはまだ時間がかかると言っていたのだが、その時の四宮の意見は違った。


「高梨君、予定よりも早く終わったから夏休み中にはやりたがってた時間旅行ができるかもしれないよ」


 彼女は嬉しそうな様子で俺にそう言った。彼女の言ったことが先生が前に言っていたことと違ったので、不思議に思った俺は近くにいた先生に質問した。


「先生、本当に八月中に完成するのか?」


 すると、先生は考えながら答えた。


「うーん、残念だが、当分完成させることはできないな。全てが理想通りに行けば、四宮の言うようにくできるかもしれないが、現実はそううまくいかない。楽しみにしてるお前らには悪いが、いろんな問題があるんだ」


 自分の計画と先生の考えが違うことを知った四宮は、すぐに先生に聞いた。


「問題って何のことですか?もしかしてお金の問題ですか?もしそうなら私が働きますよ。私学校の授業なんて受ける必要ないですから」


 彼女がその提案を聞いて、先生は焦ってそれを否定した。


「馬鹿なことを言うな、四宮。金の問題じゃないんだ。もっとよく考えろ。お前の目標はタイムマシンを作るだけじゃないだろ?」


 先生は四宮になぜ今タイムマシンを完成させないか説明しようとしていたのだろう。だが、彼女はそれを遮って自分の主張を続けた。


「だから早く作りたいって思ってるんです。タイムマシンを完成させても終わりじゃないから、その分急がないといけないんです。作れる状態なのに立ち止まるなんて、時間がもったいない」


 少し苛立ち始めた様子の彼女を落ち着かせるように先生は答えた。


「お前、何でそんな焦ってる?先が短い俺ならともかく、お前たちはこれからも山ほど時間があるだろ。今から焦って作ったところで、良いことは何もないんだ。考えてみろ。もしタイムマシンができたとしてお前の理想のために世間に発表したとしよう。個人経営の塾講師と子供二人が作ったタイムマシンだと発表されて、誰が信じる?きっと誰も信じない。その上、その発表したものを誰かに利用されて終わりだ。理想を語るのはいいが、今のお前じゃ実現不可能だ。だからこれを完成させるのは今じゃないんだよ。分かってくれ」


 先生は丁寧に彼女に説明しているように見えたが、四宮はそれでは納得していないようだった。そして少し怒ったような声で答えた。


「そうですね、先生の言ってること自体は間違ってないかもしれません。でも私はなるべく早く結果を出したい。今ここで先生と口論しても私はきっと冷静に話し合えないから、今日は一旦帰って何をすべきか一人で考えてみます。私も先生も納得できる手段を見つけ出してみせます」


「あぁ、そうすればいい。お前がちゃんと焦らず冷静に考えれば、今はタイムマシンを完成するべきじゃないって結論は出るだろう」


 二人の言葉遣いはいつも通りだったが、言い方はどちらも相手に怒っているようだった。頭が良い人が静かに怒っている様子がこんなに怖いものなのかと思いながら、どちらの味方にもなれない俺は、研究所のドアを開けて帰っていく四宮の様子をただ見ているだけだった。



 四宮が帰った後、研究所に残された重い空気に気まずさを感じたので、俺はそれを紛らわすために先生に話しかけた。


「珍しいな、二人が喧嘩するなんて」


 先生はまだイラついた様子だったが、答えてくれた。


「そうだな。あいつは焦りすぎなんだ。もっと冷静に考えないと夢をかなえられないどころか、せっかくの才能を無駄にすることになるかもしれん。あいつはまだ何も分かっちゃいないんだ」


 先生は四宮が帰ってからもイライラし続けていたため、俺は話題を変えるため別の話を振った。


「四宮のことはさておき、本当にお金の問題は大丈夫なのか?何なら俺が働いてもいいぞ。中学生の四宮よりは、出来るバイトの幅も広いだろうし」


「お前まで馬鹿なことを言い始めるな。金に余裕があるわけじゃないが、金があってどうにかなる問題でもないんだよ」


 俺は先生の不安要素を少しでもなくしてあげようと思って提案したのだが、逆効果だったようだ。先生は俺をしかりつけるように話を続けた。


「お前も四宮もだが、子供が金のことなんて気にするもんじゃないぞ。子供は子供らしく大人に甘えてやりたいことだけやってればいいんだ。そのうち嫌でも金のことで悩んだり、やりたくないことをやらないといけなくなったりするんだからな。それまでは気楽に生きてりゃいい」


 四宮に怒っていたこの状況でも先生の優しい考えは変わっていないことに気付いた俺は、彼の言葉に感謝してお礼の言葉を言った。


「そっか、ありがとう」


 先生はさっきよりも少し穏やかな声で、逆に俺にお礼を返した。


「いや、こっちこそありがとう。お前にこんなことを言ったおかげで、俺がさっき四宮にとった態度があまりに大人げなかったことに気付いた。あいつはその辺の大人以上に賢いからな。つい大人扱いしてしまうが、まだ中学生だ。あの歳であんな才能があるって気づいたら、焦るのも仕方ない。もっと考えるべきだったよ」


「明日謝ればいいじゃないか。多分四宮もそこまで気にしてない。それから、四宮は初めから天才な訳じゃなかったらしいぞ」


 先生は自分が四宮にした態度を反省していたようだ。

 そこまで深刻に悩む必要なんてないと思った俺は、彼が四宮について勘違いしているであろうことを簡単に説明した。四宮から以前聞いた話、彼女が元から天才ではなく、両親に褒められるために勉強し続けた結果として、単純に知識が増えていっただけ、という話だ。

 すると、先生は少し驚いた様子で俺に言ったのだ。


「ほー。四宮が努力してたことに驚きはしないが、あいつがそんなことをお前に話すほど仲良くなってたことに驚いた。それならもし俺がいなくなっても大丈夫そうだな」


「いなくなる予定でもあるのか?」


 俺は先生が急に放ったその言葉が気になり質問したが、先生は否定した。


「いや、そんな予定はないがこれから何が起きるかなんて分からんからな」


 先生はそう答えた直後に、ハッとした声を出して俺に話し始めた。


「そうだ!お前そんなに四宮と仲良いなら、あいつが何であんなに焦ってるか聞いておいてくれないか?それだけ仲良くなってるなら、お前の方が話しやすいかもしれん」


「別にいいよ。言ってくれるかどうかは四宮次第だけど」


 俺はそう言って、先生の頼みを了承した。



 そして次の日。俺が研究所に着いた時、珍しく四宮はまだ来ていなかった。

 タイムマシンの改造が進められない今、俺がここに来てもすることは特に無かった。しかし、毎朝ここに来ることが習慣になっていた俺は真面目に朝早く来て、夏休みの宿題の残りをやりながら彼女を待った。


 そして小一時間待った後、ようやく彼女がやって来た。

 四宮がドアを開けて入ってくるのを見て、俺は先生に頼まれたことについてどうやって切り出そうかと考えた。だが彼女はそんな俺の横を素通りして、まっすぐ先生の所に向かった。そして頭を下げて言ったのだ。


「先生、昨日は本当にごめんなさい。私は自分のことばかり考えてて先生のことは全く考えてなかったです。一晩考えて分かりました。先生も早く完成させたいはずなのに、私の目標のために遅らせようとしてくれてたんですね。私が間違ってました。確かに今の私じゃ何もできません」


 急に頭を下げられてそう言われた先生はしばらくきょとんとしていた。だが、少し間を置いた後優しく答えた。


「分かってくれたらそれでいい。こっちこそきつく言いすぎて悪かったな。でもお前には俺にはない才能も、時間もたっぷりあるんだ。ゆっくり進んでいけばいい」


「ありがとうございます。でも私は自分にできる全速力で進めていきたいと思います」


 そう言った頑固な四宮に、先生は笑って言った。


「お前も分からん奴だな。でもあまりの無茶をしない限りは止めはしないから、やってみればいい」


「はい、やってみます」



 彼女がそう答えて、彼らの喧嘩はひとまず終わった。頭がいい人同士ならこんなすんなり仲直りするものなのかと俺は見ていて驚いた。



 そんなこともあって、四宮はタイムマシンのこれ以上の改造をいったん中断することにしたようだった。しかし研究所に来た彼女はまた何やら難しそうなことについての本を持ってきて、たまにメモしながらそれを読んでいた。それはタイムマシンに関するような物ではなかったが、中学生が勉強するような内容でもなさそうに見えた。

 丁度先生が近くにいなかったので、俺は彼女に尋ねた。


「また新しい目標でも見つけたのか?」


 彼女は本から目を離さずに淡々と答えた。


「ううん、あくまでも私の目標は前に言ったタイムマシンのことだけ。でも先生の言った通り、今の私の力は世間には認められていないから、まず世間に認められやすいことを勉強して、結果を出さないと」


「今やってるのがそれなのか?」


「そうだよ。早いに越したことは無いからね。私なら今からやればきっと、高校卒業までには結果を出せるはず」


「高校卒業まで?何でそんなに早く結果を出したいんだ?」


 質問に答えた彼女の姿とその回答は、俺の目から見てもやはり焦っているように見えた。なので俺は理由を聞いたのだ。すると彼女は言いにくいのか、少し躊躇ってから答えてくれた。


「うーん、どうしようかな。でも高梨君には前にも言ったからいいか」


「前にも聞いたか?」


 俺はそんなことを聞いた覚えが無かったため、彼女に質問し直した。


「うん。私の家がお金持ちで、お父さんが有名な家庭教師をつけてくれてたって話をしたでしょ?」


「あぁ、それは覚えてる」


「だけど、お父さんは私に学者になってほしいと思ってたわけじゃなくて、一般常識をつけさせようと思って、家庭教師を頼んでたんだよ」


「なるほどな。だからお前が本気で勉強をし始めた時には、家庭教師を断るようになったのか」


 前に話してくれた時よりも詳しい説明を聞いて、俺は四宮の境遇がなんとなく分かってきた。彼女は俺の言葉に補足するように説明を続けた。


「うん。私のお父さんはちょっと古風な考えで、『女性はみんな結婚して家に入るんだから、それに邪魔になる勉強なんて本気でしなくてもいい』って思ってるみたいなんだよね。だから本気で勉強し始めた私に、将来役に立つような他の習い事をさせようとしてきたの。お父さんは私が高校を卒業したら、とりあえず自分の会社で働いてほしいって思ってる。将来は自分の会社の優秀な人と結婚してほしいみたい」


「だから高校卒業までか。でも珍しいな、お前でも父親には反抗しないのか?」


 俺は彼女にそう尋ねた。焦る理由には納得できたが、今の四宮がやっていること対しては疑問が残ったからだ。彼女は首を横に振って答えた。


「ううん、私の目標はお父さんに対する反抗でもある。高校卒業までにお父さんが驚くような結果を出せば、私が本気で勉強してくれることを許してくれるかもしれない」


「随分回りくどいことやろうとしてるんだな。先生にはあんなに直接歯向かってたのに」


「先生の時は、話し合えばきっと先生の考えが理解できると思ってたし、私の方が正しければ先生を説得できる自信もあったんだよ。でもお父さんが私にしようとしてることは、とても私では理解できそうにないから。政略結婚みたいなことなのかな?それとも女性が偉くなることに納得いかなかったりするのかな?」


「さぁ。俺はお前の父親には会ったこといから分からん」


「だろうね。どちらにせよ、私の実力を見せつければ認めてくれるんじゃないかと思ってる」


「そうだな、まぁ頑張れよ」


 それで俺と彼女の会話は終わり、彼女は勉強を再開した。その後彼女は研究所で夕方まで勉強をして帰っていったのだ。



 塾まで彼女を送った俺は先生に彼女が焦っている理由を伝えるために研究所に戻った。


「先生、四宮のことで話があるんだけど」


 そう言って、俺は四宮が言ってくれた父親との関係についてを先生に話した。彼女が隠していることを言っていいのか迷ったが、俺にはどうすることもできない問題も、先生なら何とかできるかもと思って話した。

 その話を一通り聞いた先生は俺に言った。


「そうか、そんな事情があったのか。ちなみに四宮は何か言ってたか?どうしたいとか」


「先生とは違って、お父さんの考えてることは理解できないって言ってた。だから自分に実力があることを証明して、タイムマシンのことが自由にできるようにしてもらうんだってさ」


 先生はしばらくの間目を瞑って何か考えていたようだった。そして目を開けて俺に再び質問した。


「高梨、お前はどう思う?四宮の父親の考えについて」


 先生のその曖昧な質問に対して、俺は率直な意見を伝えた。


「俺も良く分からないんだ。何で自分の娘が嫌がるようなことをするんだろうかって思う。政略結婚って言うなら自分や自分の会社の利益のためか?でもそれが勉強させない理由になるのか?あいつの父親はあいつのことが嫌いなのか?」


「そうだな。四宮の父親なら多分、四十歳前後くらいか。女は結婚して家に入るのが普通って考えで、大学で勉強するっていう発想が無くてもおかしくは無いな。最近生まれたお前らには分からんかもしれんが」


 先生はそう言った後、また十秒ほど黙った。そして何かを決断したかのように、急に俺に聞いてきたのだ。


「高梨、お前から見て四宮は父親のことが嫌いそうに見えたか?」


 何やら真剣そうに俺にそう聞いてきたので、俺はいつになく真面目に答えた。


「いや、勘だけど多分嫌いじゃない。あいつが父親のことを本当に嫌ってるなら、きっと説得できそうな方法を試すんじゃなくて、家出の計画を立ててるだろうから」


 それを聞いて先生は微笑んで言った。


「確かにそうだな。お前はあいつのことが良く分かってるみたいだ。でもそれならきっと大丈夫。こういうことは苦手だが、俺が何とかしてみよう」


「出来るのか?」


「四宮の父親しだいだ。でもやってみなきゃ何も変わらんからな。じゃあ、話は終わりだ。帰った帰った。俺は明日の準備で忙しいんだ」


「明日何かあるのか?」


「気にするな。お前はいつも通りに来いよ」


 そう言われて俺は急かされながら研究所から出て、家に帰った。



 そして次の日、先生に言われた通りいつものように研究所に行くと、四宮が昨日とほぼ同じ姿勢で本を読んでいた。昨日の先生が言っていたことが気になっていた俺は、何があるんだろうかとそわそわしながら彼女のそばで漫画を読んだ。

 しかし、あまりに何も起きないため四宮に質問した。


「四宮、今日って何かあったかな?」


「何かって?私は聞いてないよ」


 彼女は本から目を離さずに淡々と言った。彼女も何も知らない様子だった。


 しかしその時、突然研究所のドアがノックされた。

 俺はタイムマシンが見られないようにするために、ホワイトボードを出入り口付近に置きに向かった。そして四宮は、それとほぼ同時にドアの向こうの人物の対応に向かったのだ。

 すると来客の対応に向かった四宮の方から、彼女の大きな声が聞こえた。


「お父さん!何でですか?」


 その四宮の声が聞こえた後、彼女の父親らしき低い声が彼女の問いに答えた。


「先生に呼ばれたんだ。しかし、塾に行くと言ってこんなところに来てたのか。香、話は家に帰ってから聞くから、先に車に乗ってなさい」


 その言葉が聞こえて少しの沈黙が流れた後、今度はそれに答える四宮の声が聞こえた。


「嫌です。夏休みの間、私がここで作ってたものがあるんです。私はそれを完成させて、もっと勉強して未来に役立てたいと思ってます。家じゃお父さんたちが邪魔をして勉強できないから、まだ帰りたくありません」


「わがままを言うな。前にも言っただろ。お前はもう勉強しなくていいんだ。だから早く車に行きなさい」


 親子喧嘩のその声を聞いていた俺は、出て行くかどうかずっと迷っていた。親子の会話に無関係の俺が口出ししていいものかと。

 だが、その父親の『もう勉強しなくていい』という言葉を聞いて、思わず出て行かずにはいられなかった。

 俺はこの夏休みの間、嫌というほど彼女が勉強してきて得た知識やうんちくを聞いてきた。俺が文句を言いながらも彼女の言葉を聞き続けられた理由は、それを話す彼女があまりにも楽しそうに見えて、止めるのももったいない、もっと見ていたいと感じたからだ。その楽しそうな声や活き活きとした表情を生み出した勉強を、彼女の父親であるこの男がしなくていいと言うなんて絶対おかしい。

 そう感じた俺は、気付いた時にはもう、その父親から見える位置まで出てきていた。

 彼女の父親は先生の言っていたとおり四十前後に見えたが、その見た目は世の四十代のオッサンよりもはるかにスマートで、俳優かと思うぐらいかっこよかった。『ザ・仕事ができる男』という感じでかっこいい男だったのだが、その時の俺は彼の言葉に怒っていたため、そんな彼の見た目を気にしている余裕などは無かった。

 俺はその時の思うままの言葉をその男にぶつけたのだ。


「この馬鹿オヤジィ!」


 明らかに彼女の父親に変なものを見るような目で見られたが、俺は続けた。


「子どもの好きなものを取り上げるなんて親失格だ!お前は娘が勉強したことについて語る時の顔を見たことないのか?無いなら見てみるといい。きっと考えが変わる。彼女にはこれが必要なんだってきっと分かる。もし見たうえでこいつには勉強なんて必要ないなんて思ったんなら、お前は親以前に人間として終わってるよ!」


 俺が思いの丈を四宮の父親にぶつけ終えると、彼女は慌てて父親に謝り始めた。


「ごめんなさい、お父さん。彼は同じ塾の生徒で悪い人ではないんですけど、いろいろ誤解しているといいますか。」


 彼女は父親に俺をかばうような説明をしてくれていたが、それを言い終える前に俺の後ろから東郷先生の声が聞こえた。


「馬鹿なのはお前だ、高梨」


 振り返ると先生が部屋から出てきていた。だが、その風貌はいつもとはまったく違っていた。塾で授業している時とは違うきれいなスーツに、パキッとしたワイシャツを着ており、髪にも寝癖一つついておらずしっかり整っていた。もちろん髭もそっており、こんなにちゃんとした先生を俺は初めて見た。

 先生は俺と四宮にジェスチャーでどくように指示した後、彼女の父親の目の前に無言で立った。いつもは乱暴な言動をする先生なので、四宮の行動を制限するような父親をぶん殴るんじゃないかと心配もしたが、俺の心配は杞憂に終わった。


「申し訳ございませんでした。私がお嬢さんが今やっていること、やろうとしていることについて先に説明していなかったばかりに、お父様に心配をかけることになってしまいました」


 先生は深く頭を下げて、彼女の父親に言った。その姿勢のまま先生は続けた。


「その件に関してはすべて私の落ち度です。しかし、娘さんの勉強に関しては彼女の意見を通させていただきたい。お嬢さんには確かな才能があって明確な目標もある。きっとこのまま成長すれば歴史に名を残すような科学者になれると私は思っています。しかしそうなるには、大学に行くことが必要です。どうか、彼女が大学に行って勉強することを許してあげてはいただけませんか」


 先生は頭を下げたまま、俺が今までその口から聞いたことが無い敬語で彼女の父親に頼んでいた。その間の彼女の父親は何も言わず先生をただじっと見ていた。そして先生はさらに言葉を続けた。


「お父様、私も娘を持ったことのある人間ですからあなたの意見も分かります。安定した職業の立派な人と結婚して、何不自由のない暮らしをさせてやりたい。私が生まれた時代は女性は結婚して家事をするのが当たり前だったので、私もそう思っていましたし、おそらくあなたもそうなのでしょう。しかし、お嬢さんを見ていて私の考えは変わりました」


 先生はそう言うと、少し俺の方を見た後続けた。


「彼の言うとおり、あなたのお嬢さんが自分の知識を話すときは本当にいい顔をするんです。まるでその時が何よりも楽しいみたいに。それを見ているときっとお嬢さんの幸せは、立派な人と結婚して不自由なく暮らすことじゃなくて、こんな風に自由に好きなことを勉強して暮らすことなんじゃないかと思えてきたんです。どうかお嬢さんに、私たち大人が押し付けないような、好きなことができる道を歩ませてあげてはもらえないでしょうか」


 四宮の父親は先生の話が終わってからも、しばらく黙ったままだった。少し経って彼女の父親は静かに口を開いた。


「先生、あなたの言いたいことは分かりました。しかし私が聞きたいのは、あなたの考えではない」


 彼はそう言うと、四宮の方を向き彼女に話しかけた。


「香はどうしたい?今まで父さんが言ってきたように、これから研究をやめて高校を卒業した後父さんの会社で働けば、香に苦労はかけさせないと約束できる。だが、これからも本気で勉強を続けていくなら、きっと苦労するぞ。父さんも今までいろんな辛い思いをしてここまで来たが、学者も厳しい世界だ。もし香がその道に進むと言うなら、父さんはもう香のことを守ってやれないぞ。それでもいいのか?お前はどうしたい?」


 優しくて静かな口調で父親にそう聞かれた四宮は、嬉しそうな笑顔を浮かべて答えた。


「お父さん、ありがとう。今まで私のことを考えてくれて。でも私には今叶えたい夢があるんです。将来は私みたいな子を手助けできたらいいと思ってます。今はそのために勉強して力をつけていきたい。何不自由ない暮らしよりも、たとえすごい苦労をすることになっても、その夢を叶えたいって思っています。ごめんなさい、お父さん。でもありがとう」


 彼女の本音をおそらく初めて聞いたであろう父親もまた、微笑んで答えた。


「そうか。香にもそんなに強く思ってる夢があったのか。ならやってみればいい」


 父親の許しの言葉を聞いた四宮は嬉しそうに聞き返した。


「本当ですか?」


「もちろん本当だ。父さんが力になれることはもう少ないが、出来る限り応援する。大学にも行っていい。ただし簡単に諦めるなよ」


「もちろんです。言われなくてもそうします」


 彼女は父親や先生にいっそうのやる気を見せたが、そんな彼女に父親は言った。


「でも今日は一旦帰るんだ。父さんは先生と話があるから先に車に乗ってなさい」


「何でですか?」


 本気で勉強することを許してもらえたと思っていた彼女は、残念そうに父親に尋ねた。


「勉強はこれからいつでもできるだろう。だから今日は父さんに付き合ってくれないか。香が勉強したことを彼にどんな顔をして話してたのか見たくなくなったんだ。父さんにも話してくれないか?」


 ハンサムパパのそんなかっこいい言葉を聞いた四宮の表情は、さっきとは一転して嬉しそうなり、父親の言葉に答えた。


「はい!いくらでも話しますよ。じゃあ、先に車に乗って待ってますね。先生と高梨君も今日はありがとうございました」


「前に俺にしたリンゴの話をしてあげると良い。きっと三十分でもういいって言われるぞ」


 車に向かおうとする嬉しそうな四宮に俺はそんな冗談を言った。


「言われませんよ!」


 彼女は意地を張った子供のようにそう返して、車に乗った。



 娘を先に行かせて残った父親は先生に頭を下げた。


「先生、今日はありがとうございました。先生のおかげで娘の本音が聞けました」


 先生は頭を掻きながら彼に答えた。


「いや、いいんですよ。元研究者として彼女の才能を枯らすのはもったいないと思っただけです」


「これからも、娘のことをよろしくお願いします」


 真剣にそう言った四宮の父親に、先生も真面目な顔で答えた。


「もちろんそうしたいんですが、私も歳です。ずっと面倒見ていくわけにはいきません。多分これからのお嬢さんの成長を見守っていくのは私じゃない。きっと彼のような存在ですよ」


 先生は俺の方を見てから言った。


「この子のようなですか?」


 先生の言葉に四宮の父親は目を丸くして俺を見たが、多分俺は彼よりももっと驚いていた。そんな俺を気にせずに先生は話を続けた。


「はい、こいつは私よりずっとお嬢さんのことを分かってる。勉強に対しても真面目だから、きっとお嬢さんの理解者になってあげられると思うんです」


「そうですか」


 四宮の父親は、今度は体ごと俺の方に向けて話しかけてきた。


「高梨君、親失格な上に、人間として終わってる私に言われても嫌かもしれないが」


「ごめんなさい!さっきはあなたのことを誤解してとても失礼なことを言ってしまいました。謝ります」


 四宮の父親はさっき俺が誤解して言った罵倒の言葉をしっかり覚えていたようだ。俺は気を悪くさせたかと思い、慌てて謝罪した。しかし彼はそんな俺の様子を見て笑って答えた。


「ハッハッハ。冗談だ。気にすることは無い。だが私は実際に娘が嫌がることをしていて彼女の気持ちに気付いていなかったのだから、本当に君の言うとおりなのかもしれない。そんな私に言われても嫌かもしれないが、これからも娘と仲良くしてやってくれないか。今まであの子はあまり仲の良い友達ができたことは無かったみたいだが、今はあの子のために本気で怒ってくれる友達がいるんだと分かって、私はとても嬉しかった。ありがとう」


「はい、いいですよ。俺もなんだかんだ言ってあいつと一緒にいるのは楽しいですし」


 俺はそう言って彼女の父親からの頼みを受け入れた。すると先生が口を挟んできたのだ。


「彼とお嬢さんの仲が続くのは良いことなんですが、こいつがさっきあなたに言った悪口は、明らかにこいつの早とちりでした。私からも謝ります。申し訳ありませんでした。あなたは文句なしのいい父親ですよ。その証拠にお嬢さんはどこに出しても恥ずかしくないぐらいの良い子に育ってる。何かをしてもらったらちゃんとお礼も言えるし、自分が悪いと思ったらすぐに謝れる。ご両親のの教育の賜物じゃないかと思います」


「それはまぁ、私の娘ですからね」


 四宮の父親は誇らしげに答えた。その様子があまりにも、自分のことを天才と誇らしげに言う時の彼女の様子に似ていたので、俺はやっぱり親子だなと思った。

 先生は四宮についての話を続けた。


「そして何よりも優しい。お父さん、あなたはお嬢さんが何について研究しているか知ってますか?」


「いいえ、聞いてません」


 俺はその話題を出して大丈夫なのかと心配になったが、先生がいいんなら大丈夫なんだろうと思い、二人の会話を見守り続けた。


「タイムマシンですよ」


「タイムマシン?そんなものが本当にできるんですか?」


「はい。実はもうほとんどできているんです。お嬢さんの努力と才能のおかげですけどね。しかし、私がお嬢さんに驚いたのは、彼女の努力と才能だけじゃなかった。一番驚いたのは彼女がそれを作ろうと思った理由ですよ」


「理由ですか?さっき言っていた自分みたいな子を助けたいというものですか?」


「そうです。彼女は自分のように才能にあふれた人間が、これから発明する技術を悪用されて被害を被らないように、タイムマシンを使って先に法律を作って守りたいって言ったんです。私も長年タイムマシンについての研究をやって来たので、これまでそれを作ろうとした人の理由はいくつか聞いたことがあります。でも、こんな優しい理由でタイムマシンを作ろうなんて人間は聞いたことが無かった。もちろん私も含めてですよ。こんなに優しいことを考えられるお嬢さんを育てたあなたは、立派な父親だと私は思いますよ」


「ありがとうございます。私は今日ここに来て本当に良かった。そのおかげで娘のことを本気で思ってくれてる人を知ることができました。お二人とも、改めて今日はありがとうございました」


 嬉しそうに行った彼の言葉に先生が大人の対応で答えた。


「いえいえ、こちらこそ。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。気を付けて帰ってください。それと帰ったらお嬢さんともっと話してみてください。勉強も人付き合いも、聞いただけで終わりではなくて理解することが大事だと私は思いますから、もっと理解できるように話し合ってみてください」


「分かりました。では、失礼します」


 四宮の父親はそう言って、娘と運転手が待つ車へと向かった。彼が乗るとその車は走りだし、四宮と彼女の父親が窓から俺たちの方へ軽く会釈したのが見えた。その後すぐに車は角を曲がって見えなくなった。



 彼らを見送った俺は、研究所に入るとすぐに先生に話しかけた。


「ちゃんとした格好も敬語もできるんだな」


 先生は呆れたように答えた。


「当たり前だろ。何歳だと思ってるんだ。普段しないのは単に苦手だからだ。お前こそ四宮の父親には少し丁寧な話し方ができてたじゃないか」


「当たり前だろ。俺が普段ため口なのは、先生がそうしろって言ったからだ。」


 先生からの誉め言葉を受け取った俺は、続けて四宮の父親の感想を彼に伝えた。


「でも四宮のお父さんが娘想いのいい人で良かった。俺はもっと自分のことばかり考えて、子供の嫌がることを進んでしてるようなひどい人かと思ってた」


 先生は椅子に座りながら堂々と答えた。


「俺は分かってたけどな。そんなひどい父親の元であんなに良い娘は育たない。そもそも自分の子供の嫌がることを進んでする親なんて、ほとんどいないさ」


「それもそうだな」


 俺が先生の言葉に納得してそう言うと、先生は座ったままため息をついて言った。


「だが、これで四宮についての心配事も解決だ。もう思い残すことは無い」


 先生は少し前から、こんな風に今生の別れのような言葉をしばしば言うようになっていた。俺はそれについて改めて聞いた。


「この前も言ったけど、何かあるのか?死にかけの老人みたいなこと言ってるけど」


「そういうことはお前がいつも俺に言ってるだろ」


「俺が冗談で言うのと、本人が言うのじゃ意味が完全に違うだろ。何かあるなら、気になるから言ってくれよ」


「だから何もないんだ。強いて言うなら、もうすぐお前らの夏休みが終わるからかな。宿題は終わったか?」


「まぁ、何もないって言うならいいけど。宿題は一昨日終わったよ。四宮のおかげで今年は早く終わった」


「そりゃ良かった。それじゃ今年の夏休みはどうだった?」


 俺は唐突に聞かれたその質問に少し戸惑ったが、無難に答えた。


「そうだな。先生と四宮に振り回されてた思い出がほとんどだけど、楽しかったかな」


「あぁ、俺も楽しかったよ。何よりタイムマシン研究が一気に進んだし、お前らがいたおかげでここ数十年で一番楽しい夏だったかもしれないと思う」


 いつもは乱暴な口調の先生が少し穏やかに言うその様子を見て、俺はかなりの違和感を覚えた。


「それは言いすぎだろ。それになんだよ?この雰囲気。夏休みの最終日ならともかく、今する話か?」


 先生は軽く微笑んで答えた。


「そうだな。歳をとると感傷的になるもんなんだ。悪かったな」


 すると、彼は思い出したように話を続けた。


「あ、そうだ。明日から三日間、俺は一人でやりたい実験があるんだ。だからここには来ないでくれないか。昼から塾なら開けるから、用があったらそっちで言ってくれ。四宮には俺から後で電話しとく」


「あぁ、分かった」


「それじゃ、その準備があるからお前ももう帰れ。気を付けてな」


 そう言われ俺はまっすぐ家に帰った。

 先生がその時俺たちに隠していた事実を俺は少しも分かっていなかった。だがたとえ分かっていたとしても、俺には止められなかっただろうと、今でも思う。


 そうして先生と四宮の喧嘩から始まった、彼女の父親との問題は無事解決したのだった。


 それから数日後、俺と四宮と東郷先生の運命を大きく変えることになる夏休み最終日。八月三十一日がやってきた。


つづく

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