第七話 笑う門には猫がいた

 その部屋には殆ど物がなかった。

 だが、それは上品さを意味するものではなかった。

 六畳二間の建物はプレハブ造りよりは、多少ましといったものだ。小さな台所はあるが、壁は薄く隙間風が酷い。なお、風呂とトイレは別に建てられていたが、どう見ても仮設だ。

「屋根があるだけマシか」

 学園から貸与された宿舎で埴泰はにやすは軽い伸びをした。

 派遣講師の埴泰だが、その役職を正式に言えば特別非常勤講師である。人事担当には渋られたが、なんとか宿舎の入居を許可して貰えたのだ。ただし正規職員に割り当てられた宿舎と比べ、随分と古びて粗末な場所である。これは間違いなく嫌がらせだろう。

 とはいえ、埴泰は少しも気にしてなかった。

 身近に自分を害する存在がなく、行動に自由があるだけで充分だ。

 それはそれとして、この宿舎の位置が学園の隅で他の宿舎と離れた立地という点は好都合であった。しかも、すぐ裏が森。今もフクロウや何かの鳴き声が聞こえてくる自然豊かな環境で、秘密裏に動くには最適な場所と言えた。

 同居人は隙間から不法侵入してくる虫と、そしてネコだけ。

 もちろん、あの研究所で助け出したネコだ。仕方なく与えたフードを食べて満腹となるや、埴泰の枕に頭をのせグースカ寝ている。それは、こんな無防備でいいのかと心配になるぐらいの姿だ。

 とりあえず貰い手を探しているが、声をかけた古城や桃沢に相談してもニヤニヤしているだけで、誰も引き取ってくれそうにない。

 それは兎も角――。

「さて……」

 ちゃぶ台の上に講師マニュアルと書かれたA4ノートがある。

 軽く目を通したが、要するに講師として守るべき規則が書かれているだけだ。面白い事に禁止事項ばかりが列挙され、逆に許可事項は何一つ書かれていない。

「しっかし講師とか、何をすりゃいいんだ?」

 学園長から言われたのは、『講師の裁量に任せてあり高い自由性を持った指導を行うように』と、よく分からないお言葉だ。コンパス一つ渡され勝手に敵を探して攻撃しろと言われた気分である。

 そもそも本来の役割は、堅香子かたかご九凛くりんの周辺警護なのだ。講師の仕事は適当に手を抜きたいところが本音だ。

「しかもセキュリティの提案が全部却下されるとは……困った」

 伊谷見学園長からは散々に呆れられ、他の教員も誰一人まともに取り合ってくれなかった。いくら予算がないとは言えど、危機意識の足りなさすぎる職場だ。

 学園の保安用品として、サスマタや催涙スプレーといった前時代的なものを見せられたが、あれでは小銃一丁持った相手でも制圧するのは難しかろう。

 こうなれば、最低限のセキュリティは自力で何とかするしかなかった。

「機材は経費で落ちるかな。あまり高いのは無理だろうけど……ん? んんっ!?」

 アクセスしようとした口座に拒否され、情報端末を手に戸惑った。

 画面には口座が存在しない旨が表示され、数度トライするが全くダメ。まさかと思い次の口座を確認してみるが、結果は同じだ。

「落ち着け、まだ慌てる段階じゃない」

 他にも幾つか講座があるのだ。

 多少の焦りを楽観で覆い隠し確認していけば、埴泰の表情は暗くなっていくばかり。やはりどれも口座が消滅しているではないか。

「……えっ、これは何だ。どうなってる」

 数回深呼吸をする。

 情報端末を小テーブルに置き、頭を抱える。ポケットから取り出した財布の中身は支給された十万円と、元からあった三万円と小銭が少々。これが全財産だ。

 犯人が誰かは想像がついた。

 一つ二つならともかくとして、全部の口座を抹消出来るとなれば、心当たりは一人しか存在しない。軽く息を吐き、情報端末を手に取った。

「本人に聞きますかね」

 入力するのは赤嶺伽耶乃かやのへの直通番号。これを知る者は世界でも極僅か、各国の要人ぐらいだと聞いている。

 以前に教えられたが、使うのはこれが初めてだったりする。

 伽耶乃は困った時に助けを求めれば、大抵の事は解決してくれるだろう。でも、だからこそ利用してはいけないと埴泰は考えている。例えるならば、便利な道具があれば頼ってしまい、気付けばそれなしでは生きられなくなってしまう。

 つまりは、そういう事だ。

 何度か間違えたところで、ようやく電話に成功。コール音が鳴ると同時に相手が出た。

『どうしたの。珍しいわね、あなたから連絡をしてくるなんて』

「じつは……何かご機嫌を損ねるような事をしましたでしょうか」

 埴泰は実際に平身低頭しながら尋ねた。床では寝ていたはずのネコが呆れた様子で見上げている。

『あら? 何の事かしら』

「口座が全部消えているのだが」

『ああ、その件ね。どうだったかしら、完全に消えてるでしょ』

 何やら嬉しそうな声だが、口座を抹消された方としては少しも嬉しくない。腹立ちと不満を抑えつつ、しかし埴泰は下手に出る。

「そういうの困りますが。と、いうより何? 何か気に入らない点でもあります?」

『別にそうではないわ、今回の件でよ』

「講師として潜入する事でしょうか……いや、潜入する事でか」

 どうやら機嫌を損ねたわけではないらしい。

 そうと分かって言葉遣いを改めるのだが、声しか届かない相手が嬉しげな顔をしたと何故だか分かった。それが間違いでない事は、次からの声の調子や感じで分かる。

『そうよ。だってそうでしょ、あなたは普通の軍事会社からの出向なのよ。それなのに、あまりにも貯金が多すぎるもの』

「何かあった時のために貯めていたのですがね」

 裏の仕事を引き受けて、その報酬を散財する事なく貯め込んでいたのだ。

『それにしても多すぎよ。万一に何かあって本格的調べられた時のために、全て消させておいたわ。もちろん後で全額戻すけれど』

 やり過ぎだ、との言葉はぐっと堪えておく。

「万一って、そんな危険性がある内容なのか? ただの護衛だろ」

『ええ、まあそうよ。それよりどうかしら。ほら体調の方はどうなの、例の症状は出ていない?』

 唐突に話を変えた様子に僅かな不審を抱く。

 だが、それを問いただすほど、埴泰は愚かではない。隠し事があるにしても、何か理由があるのは間違いない。で、あれば気づかないフリをしておく事が信頼や信用というものだろう。

「今のところは大丈夫な感じかな」

『少しでも体調が悪ければ薬を飲みなさいよ』

「分かってるさ」

 心配されると、やはり嬉しかった。

 埴泰には持病のようなものがあるのだ。頭痛や目眩、吐き気など、時には行動不能になるほど酷い事もあるため、それを抑える薬を服用する必要があった。

 特殊な薬であるため伽耶乃経由で入手するしかなく、これも逆らえない理由の一つだったりする。一応は闇市で売られていたりもするが、とにかく馬鹿みたいに高い。

『食事はちゃんと取れてるかしら。栄養バランスを考えて食べなさいよ』

 細々とした事を言ってくる。

 貯金口座を全部消しておいて何を言うかと思うが、やはりそこは財閥のお嬢様なのだろう。生活する事とお金とが結びついていないらしい。

 手元にあったつまみを幾つか口に放り込む。

「うん、美味い」

『あら、何を食べているのかしら』

「キャットフード」

『えっ……』

「これだけは買い込んであったからな。金もないし、当分はこれで食いつなぐしかないな。うん、なかなか美味い。今度持って行ってやろうか」

『そ、そう。来てくれると嬉しいけど……キャットフードはいらないわ』

 こんなに美味しいのに何故遠慮するのか。大喜びで寄ってくるネコを見ながら首を捻る。

 なんにせよ伽耶乃はようやく、お金の大事さに気づいたらしい。申し訳なさそうな声となった。

『ええっと、そうね。必要なら貯金を戻しておこうかしら』

「いいさ、近くの山は自然豊かなんでな。適当に獲って食料にするから」

『……なんだか、ごめんなさい』

「何故謝るのか分からんが。ああそうだ、今日はさっそく堅香子九凛と遭遇した」

『そうなの!?』

「門の辺りで迷っていたら道案内をしてくれた。あと、助けた礼を言われた」

『護衛任務としては幸先が良いわね。どんな感じの子だったかしら』

「明るくて元気が良いな。少々お節介な感じもあるけど、なかなか良い子だよ」

『そうなの』

 言った伽耶乃の声に弾むようなものが含まれており、意外さを感じた。どうして護衛対象の話でそんな反応をするのだろうか。やはり何か隠している。

 それから二つ三つと情報交換を行う。

『――というわけなのよ。また何かあったら連絡を頂戴、いつでも雑談でも構わないから』

「そうさせて貰うよ。それでは」

 通話を終えると、埴泰は情報端末を傍らに置いた。

 急に独りぼっちになった気分だ。会話が終わった直後の、他者との繋がりが切れたような感覚。世界に自分が一人だけのような気分。

 空っぽの部屋の虚無感を妙に感じてしまう。

「ふうっ……んっ?」

 不意にネコが大きな伸びをした。そのままどうするかと思えば、やって来て埴泰の足に寄り添い棒になって寝だす。ちらりと薄目を開け、大欠伸をしたかと思うと寝てしまう。

「…………」

 なんと気楽な生物だろうか。

 腹を撫でると、前足がぴくぴくと動くものの起きる気配は全くない。ふと思うが、どうやらこの小さな生き物は、この瞬間にこの自分だけを頼りにし安心しきっているようだ。

 埴泰は小さく笑った。

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