第一話 泰山鳴動ネコ一匹
月の光に照らされる街並み。
一見すると美しいが、実際には半ばが崩れ朽ちた状態だ。
ひび割れたアスファルト舗装の隙間には草や苔が生え、道路標識とそこに激突した車両は錆びに覆われる。街路樹は好き勝手に枝葉を伸ばし、足下の枯れ葉は層が厚い。傾いた民家の壁では蔦が這い、雨樋からは雑草が背を伸ばす。
人が居なくなり、かなりの年数が経過したここは、放棄された区画であった。
その中の一つ。
かつて医療施設だったのだろうビルは、その名残を剥げかけた赤十字のマークで辛うじてとどめていた。降雨によって黒ずむ外壁には幾条ものひびが入り、崩れた部分からは鉄筋が何本も突き出てもいる。
今すぐに崩れてもおかしくないその建物へと、何者かが滑るような足取りで近づいていく。
若さよりは落ち着きを備えた顔立ちは引き締まり、目つきは鋭く月明りの織りなす陰影のせいもあって、どこか不機嫌そうにも見える。黒の戦闘服に身を包み、武装は腰の後ろに携帯した長めの刃物が一振りだけ。
耳の後ろを押さえ、
「こちら乃南、目標に到着。センサーに反応なし、どうやら監視装置は存在していないようだ」
その返事は骨伝導イヤホンから返ってきた。
『木を隠すには森の中ってことやろ。下手に機械を置けば目立つもんな、けど中はどうか分かっとらん。死なん程度に行ってこいや』
「了解。ここからは通信を控える」
『寂しうなったら帰っといでな』
骨伝導から聞こえる男の声は、ふざけているのか励ましているのかどうか不明だった。埴泰は小さく息を吐くと、廃ビルへと視線を向けた。
「さてと……頑張りますか」
気合いを入れ直すのは、ここからが本番となるためだ。
聞くところによれば、この内部には隠蔽された施設があるという。その調査と可能であれば研究データの奪取がクライアントからの希望であった。
面倒なのでやりたくはないが、仕事なのでやらねばならない。
「本当、働くってのは大変だ」
小さくぼやくと、埴泰はシール状の通信機を剥がし廃ビルへと足を向けた。
中は暗さが蔓延する上に、埃と黴の臭いが充満し鼻の奥がムズムズするぐらいだ。きっと健康にも良くないだろう。
入った直ぐは『緊急外来受付』の表示が残され、受付カウンターと併設された待合室であった。壁に開いた大穴から差し込む月の光の中にテーブルや椅子の残骸が転がり、床には土埃や細かなゴミが溜まっている。
診察室と書かれた矢印が示す廊下を進めば、少し行って厚い防火戸によって塞がれていた。
緑色の人マークの描かれた小さなくぐり戸だが、タッチパネルには点のように小さな赤ランプが灯っている。
これで、ここが単なる廃墟でない事が確定した。
「ビンゴっと。無駄足にならなくてよかった」
埴泰は取り出した一枚のカードを手に呟いた。
それをタッチパネルへと触れさせた途端、短い電子音と同時にランプが赤から緑へと変わる。裏社会で流通する電子万能鍵だで、一度しか使用できない上に非常に高価な代物だ。おかげで昨今は旧式のシリンダー錠などが再人気らしい。
くぐり戸を押し開けると――そこは光の世界であった。
真新しい施設の照明は明るく、光量の変化に思わず目を瞬かせてしまう。通路は綺麗で美しく、空調設備も作動しており施設が生きている。そして何より人の気配がある。
というよりも、目の前には椅子に座った警備兵がいた。手には情報端末があり、それを暇そうに弄っていたらしい。口を半開きにぽかんとしている。
「あっ……侵入者?」
油断しきっていた警備兵へと、埴泰は一気に踏み込んだ。鳩尾へと拳を叩き込み、悲鳴すらあげさせない。そのまま椅子へ特殊繊維の結束バンドで縛りつけてしまう。動けない事はないが、簡単ではなかろう。
「やれやれ、いきなり見つかるとか幸先が悪すぎだ」
他に警備兵の姿はない。侵入者が来るなど想定すらしていなかったのか、あまりにも無防備すぎる。
「弛んでるな。いやまあ、それは幸いなんだけど」
呟きながら進めば、一本道は右に折れ、直ぐに上へと続く階段になっていた。そこから上がった先も通路で、少し先では白衣姿の者が動き回る様子が見て取れる。
誰かが視線を向ければ即発見されかねない状況に埴泰は慌てた。
「これはいかんな」
手近な扉を開け覗き込むと物品庫であった。慌てて隣を開けるとレントゲン室、次は血圧測定や注射などを行う処置室。そして次は――。
埴泰は中を見るなり表情を強張らせ、一瞬の硬直の後にするりと入室した。
そこは、ある意味では保管庫であった。
薄暗い室内に円筒形カプセルが幾つも並んでいる。透明なシリンダーのようなそれには液体が満たされ、中には少年少女が標本のように収められていた。
ただし、その身体は様々に変容したものだ。
巨大な爪または触手が生えた者。全身が鱗に覆われた者。腹に目や口がある者。首から下が蛇となった者。いずれも恐怖、絶望、苦痛、苦悶といった顔でカプセル内に浮いていた。
「なんてこった。ここでも、こんな事を……」
呻くように眺める。
「今、助けてやるから」
言って埴泰は手の平を向けた。たったそれだけで――円筒形カプセルの透明シリンダーが触れてもいないが、次々と破裂していく。
満たされていた液体が流れだし、中に納められていた者たちが解放されると強い薬品臭が立ち込めた。同時にどこかでアラームが鳴り響いたようだ。
しかし、埴泰の視線は床にこそある。
辺りに散らばった破片を踏みつけ、液体と共に流れ出した者たちへ近寄った。濡れるのも構わず薬品の水溜まりに膝を突き生死を調べる。
「死んでいたか……」
ほっとした口調となるのは、少なくとも苦しみが終了していたからだ。
『……! ……!』
廊下から焦った声や激しく動き回る音が聞こえた。埴泰はそちらへと視線を向け、しかし室内で咳き込む微かな声に気付く。
はっと振り向いた。
「おい待っていろ、直ぐ助け……」
「ニャー」
「にゃあ、だって?」
予想外の返事に埴泰は思わず間抜けな声を出してしまった。
破片の幾つかを踏みながら数歩も進むと、濡れた床の上で大きく身を震わせる塊を見つけた。四本足に尻尾があり、三角の耳があってヒゲだってある生き物。
つまりネコだ。
強張った手足を伸ばしながら立ち上がると
銀地に黒の渦模様のある姿を片手で持ち上げてやれば、安心するように目を閉じるではないか。
「……こいつ、どうしたもんかな」
差別するわけではないが、ネコなんぞを助けても困るわけで――。
その時であった。
部屋のドアが開き警備兵たちがなだれ込んで来た。
数は五。いずれも青い装甲服を着用し構えて小銃を埴泰に向け取り囲む。背後のドアには、恐々としながら様子を窺う研究員たちの姿もあった。
「おいっ、貴様! その武器を……ネコを置いて
リーダー格らしい者の声は鋭い。
即座に撃たず投降を呼びかけるのは、捕獲し背後関係を確認するためだろう。ネコは腕の中で安心するように動きを止めている。
「どうしたもんかね……まあ、覚悟はしてはいたけどな」
軽く肩をすくめ、腰の後ろから長めの刃物を引き抜きゆっくり立ち上がる。厚みがありがっしりとした刃は、赤色系照明の下で怪しくも光を反射した。片手でネコさえ持っていなければ、なかなかの迫力だろう。
抵抗の意思を確認した事で、警備兵のリーダーは即座に判断を下した。
「撃てっ」
銃声が響いた、まだ止まない。
それから数発、まだ止まない。
さらに十数発、まだ止まない。
「こいつっ、どうなってんだっ!!」
平然とする埴泰の姿に警備兵は悲鳴のような声をあげた。
警備兵たちはガタイの良いタイプばかり。正規兵か軍事会社上がりの実戦経験者である事は間違いない。射撃の仕草も様になっており、まして狙いを外すような距離でもない。
だが、容赦なく撃たれる銃弾のどれ一つとして命中する事はなかった。
異常な状態に警備兵たちは後退るものの、訓練された動きでリロードを開始しだす。だが、空のカートリッジが床に落ちるより早く埴泰は警備兵リーダーへと襲いかかった。
装甲服の隙間を正確に狙い腕を斬り落とす。恐ろしい切れ味だ。
「ああああっ!」
悲鳴をあげた喉首に刃を振るい永遠に黙らせる。
がくがく震え倒れゆく身体の横をすり抜け、次の警備兵へと接近。すでに銃より刃の間合いだ。装甲服の脇から切っ先を突き刺し絶命させ、次はヘルメットを叩き蹌踉めかせ、露わな喉を切り裂く。さらに次を、そして次を――。
それは戦いと呼ぶには鮮やかすぎる動きであり、かつ一方的。
警備兵たちが血の海に倒れていく。その様子を研究員たちは自失しながら見つめ続ける。
最後に残った警備兵へと刃が水平に振るわれると、斬り飛ばされた物体がドア脇の壁へと激突。血の跡を残し床に転がった。同僚だった顔に床から見上げられ、研究員たちは次が自分たちの番だとようやく気づく。
「逃げろっ!」
一斉に逃げ出した白衣の後を、埴泰は早足で追いかける。
とりあえず全滅させるつもりだ。
もちろん埴泰とて好んで、そうしたいわけではない。それでもやらねばならぬのは、カプセル内に収められていた者たちに申し訳が立たないからだ。
片手にネコを抱き、血に塗れた刃物を引っ提げ次なる部屋へ移動する。
そこは恐らくビルの半分はあるような広い場所で、天井も高かった。中心部には手術台のような設備が設置され、あの円筒形カプセルが幾つかとコンソールや大小様々なモニターなど機材類が置かれている。
そうした機材の陰に白衣がちらちらと見えるのだが、どうやら隠れているつもりらしい。ここで散々に人の命を弄んできたくせに、なんと往生際の悪い事か。
呆れた息を吐きつつ、埴泰はコンソールの一つに持って来た道具を接続した。機械には詳しくないが、これで自動でデータ抜き出しが開始されるらしい。
後は始末をして帰るだけ――その時、そいつが現れた。
「なっ!」
天井付近で響いた重い音に埴泰のみならず研究員たちも上を振り仰ぐ。ドスンドスンとコンクリート片が落下し床へと激突。巻き込まれた機材と研究員が潰された。
そして、その破壊された壁から顔を覗かせるのがトカゲのような顔であった。
黒い岩のような体表。
模様のような赤熱したオレンジ色の線。
口から漏れ出る炎。
「まさか火竜サラマンドラだと……」
呟く間にも、それはするりと入り込む。
ほぼ垂直の壁面を張り付くように這い降り、最後は身軽に飛び降りるのだが、その衝撃で床にヒビが入る。床は赤熱しだし、付近にあるものが燃えだした。
「どうしてここに」
こうした類の『生物』が出現するようになって半世紀ほど。
それだけに監視体制は整ってきた。特に放棄区画はこうした『生物』の出現頻度が高いため、監視も充分に行われている。もちろん完璧ではないが、こんな大物を見逃す事は考えにくい。
やや平たい丸みを帯びた頭がゆらりと振られ、紅玉のような目が周囲を見る。突如として床を蹴り、予想以上の勢いで突進。その先にいるのは、隠れていた研究者だ。
一撃で潰された者はまだマシ。押しのけられた機器に挟まれ動けない者はサラマンドラの放つ高熱によって生きたまま炙られていく。腹の底からあげる悲鳴が室内に響いた。
「逃げたいけど……出口の方にいらっしゃる」
機器類やその配線、さらには壁面の化粧ボードや床に使用された断熱素材などが燃えだし黒煙が広がりだしつつあった。一酸化炭素だけでなく有毒な物質が含まれているだろう。
あまりにも場所が悪い――埴泰は身を屈め壁面へと走った。
そして設置された消火設備に飛びつく。真ん中のボタンを押し、扉を開けるなりホースを掻き出す。ノズルを持つと開閉弁を開く。
「これでどうだ!」
勢いよく水が放たれた。
火には水との単純な発想だが、サラマンドラは水の届かぬ場所へと四本足で跳び退く。赤熱した岩石のような口中から威嚇の唸りをあげると、壁面を素早くかけあがっていく。そのまま壁の穴の向こうへと姿を消してしまう。
明るい室内から外は闇にしか見えなかった。
「逃げた? バカな……」
唖然とする埴泰だが、小さく咳き込むネコの声に直ぐ気を取り直した。
そこから次の行動は早い。
ホースを投げ捨てると、データ抜き出し中の機器を無理矢理回収。中腰のまま廊下へ飛び出し、炎と有害な煙から逃げだした。
外で待ち構えているに違いないサラマンドラから逃げる方法を考え――しかし、その姿はどこにも見当たらない。夜闇の中に目立つはずの姿は、不思議な事に影も形もなかった。
「助かった……とは言えないか」
ここであった出来事を上司とクライアントにどう説明したものか。項垂れた埴泰はネコを片手に月下を歩きだす。
炎は廃ビル全体へと広がりつつあった。
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