第37話 通学

 家で待つこと十五分。

 柚梨がやってくる。

 それを知らせてくれたのはチャイムではなく、スマホのメッセージアプリ。

 びびびと端末が振動し、スリープモードの画面が明るくなり柚梨から、『着いた』と一言だけ送られてきていた。


「さて、行くか」


 俺は忘れ物がないか確認して、部屋の電気を消し戸締りを行い、外で待っている彼女の元へ向かう。

 柚梨はサングラスを掛け、運転席の窓を開けて待っていた。

 おおよそ大学生には見えない風貌だ。

因みに車種はマツダ、デミオ。色はマシーングレープレミアムメタリック。

彼女が高校の時からバイトをして卒業と同時に購入した物で、傷一つない柚梨の愛車である。


「ちゃんと来たね。よしよし」


「子供じゃないんだが?」


「私からしたら大きな子供とそう変わりないよ」


「なんでもいいけどな」


「さて、行こうか。乗って乗って。ああ、そっちじゃない。こっち、助手席に座って」


 俺が後部座席側の扉を開き、乗り込もうとしていると、柚梨からなぜか助手席に座るように指示された。

 彼女は頬を膨らませており、ご立腹の様子。


「後ろはダメなのか?」


「前に座って」


「分かった」


 どういう理由かわからないが、黙って指示に従い助手席に乗り込んだ。

 車が好きな人は愛車を運転する時に、土足のまま乗ってほしくないとか飲食禁止とか、そういうルールを設けている場合がある。

 俺も愛車を運転するときは車内で煙草を吸うなと言うから、彼女の車に乗るからには指示には絶対服従するつもりだ。

しかし、柚梨もたばこ以外は特に何もなかったはずなので助手席に座れというのは不思議だった。


「ちゃんとシートベルトしたね?」


「もちろん」


「じゃあ、しゅっぱつしんこーう!」


 柚梨は先ほどまで怒っていたように見えたが、俺が助手席に乗った途端、大層ご機嫌である。


「そういえば、今日の授業ってなんだっけ?」


「浅波教授のマクロ経済だったと思う」


「あー、しょっぱなからめんどくさい授業だな」


「確かにそうだけど、あの人は授業聞いてたら単位くれるからいいと思うけど?」


「でもなぁ、何言ってるかわかんねぇんだよ。今年で七八だろ? 年寄ってなんであんなに活舌悪いのか」


「原因は筋肉の低下らしいよ」


「今のうちからガムでも食って鍛えるか」


「車に常備してるからここにあるよ。食べる?」


 柚梨はダッシュボードを開けるとボトルタイプのガムを取り出して、渡してくる。

 入れ物の側面には『最強! 眠気スッキリ 五〇〇倍濃縮ミント配合!』と書いてあった。

 ゼロが一つ多い気がする。

 食べて大丈夫だろうか?


「ありがたく貰うよ」


 口に入れただけでものすごくスース―する。

 噛むのが怖いくらいだ。


「それ、新作なんだよね。美味しい?」


「てか、なんで常備してんだ? 真夏に車内に置いてると腐るぞ?」


「私が車を運転していると、眠くなるから。実は今も寝落ちしそう」


 柚梨は出発する前までは元気そうだったのに、彼女の瞼はとろんとしていて今にも寝てしまいそうだ。


「お、おまっ! 寝るなよ⁉ 早くこれ食べろ!」


「食べさせて」


 柚梨はこちらを向いてそう言った。


「ほら!」


 慌てていた俺はボトルからガムを一つ取り出すのではなく、彼女に直接、ボトルガムをあおって十個ほどガバっと流し込む。


「ごほっ! おええ! な、なんへ《なんで》! しょんふぁふぉふぉ《そんなこと》、ふんふぉ《するの》⁉」 


 当然の如く、柚梨はむせて何度も咳き込んでいる。

 しかし、吐き出すことはしない。

 恨むような目つきで抗議してきた。


「わ、悪い!」


「ぬほう《ぬほう》! ふぁかはほう《ばかやろう》!」


「あ、前! 前見ろっ!」


「おおお! ひぬぅ《しぬぅ》!」


 注意散漫。よそ見していた彼女は車を車線から半分以上はみ出させており、対向車の大型トラックがクラクションを鳴らしながら迫ってきている。

 俺の注意を受けた柚梨は口からハンドルを切って、まるでアクション映画みたく何とかトラックを回避した。


「はぁ、まじで死ぬかと思った」


「ほんとだよ! あんな大型トラックにぶつかったら死んじゃうよ⁉ 湊君、私と心中したかったの⁉」


 一度、落ち着くために路肩へ車を停止させた柚梨は、冷や汗をかきまくった顔で俺の胸倉を掴んで激しく揺さぶる。

 ガムを十個も口に入れているせいで頬が膨れており、めちゃ可愛い。

 リスみたいだ。

 だが、目は鬼そのものだった。


「そうだと言ったらどうするんだ?」


「まぁ、それはそれでありかなって」


「ありなのかよ!」


 柚梨は顔を赤くして怒っていたが一転、今度は頬を主に染めていた。


「いやぁ、トラックだし異世界転生できるかと」


「それはラノベ《なろう》の話だからな⁉」


「そんなことより、口の中が大変なことになってたんだからね!」


「お、お味はどうでしたか?」


「どうでしたか? じゃないよ! スースーするどころか、口に穴が空きそうだったよ! そんなことになったらギャグボールを使う時にもう一ついるじゃん!」


「そ、そうか、悪いことをした」


 柚梨は真っ当なのかそうでないのか意味の分からないことを言い放つ。

 一体、あなたはなんでギャグボールのことを気にするんでしょうか?


「気を取り直して、大学に行こう。今度は私も眠気を覚まして運転するから」


「ああ、頼む。帰りは俺が運転するよ」


 柚梨はアクセルを踏んでハンドルを操作し、道路へ戻って車を発進させた。


「そうなると、湊君はウチから自分の家までどうするの?」


「月曜日の夕方なら家に久他里さんと棗ちゃんがいるし、呼ぶよ」


「え? あの二人いるの?」


「あ、いや。つい、いつもの感覚で…………」


 俺は気を緩めていたのか最近までの感覚のまま口走ってしまう。


「そ、そっか。そういうことあるよね」


「ああ」


 当然、あの日の顛末は柚梨も知っている。

 俺のせいで空気を重くしてしまった。

 しばらく俺達は沈黙したまま大学へ向かった。

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