プロローグ 嵐を越えてきたりしもの 中


「あな……た……は?」

 少女の問いに、幼い顔が振り向いた。

「僕は君に呼ばれたのか。僕はネイト。……そこにいて、下手に動かれると守れない」

 その言葉は、ネイトがこれから何をするつもりなのかを少女に理解させるには十分だった。

 なにより、その言葉を最後に、風を切る音を残して少年の姿は眼前から消えた。

「え――だ、ダメです! それは、人の身で殺せる相手では……!」

 銀色の髪が空に踊る。一つの跳躍で竜の頭上に舞ったネイトの右腕は、竜種の頭に振り下ろさんと構えられていた。

 ただの拳で竜の頭を穿てるはずがない。しかし――竜は素早く翼を広げ、その場から後退した。まるで、逃げるように。

 空振りした右腕が石畳に打ち付けられる。猛烈な振動が少女の足下を駆け抜ける。

 人の拳が起こしたとは思えぬ、歴とした地震であった。

「……あいつ……」

 空を一睨みしたあと、ネイトの身体が再び空へ。竜は翼を使い、一気に高高度へ離脱しており、その姿は再び紅い雲間に消えていたが、躊躇わず、その矮躯は雲の隙間へ突進していた。

 その飛翔する姿で、少女は理解した。

 彼は、真っ当な人間ではない。


 雲の隙間から蒼い光が迸る。人間を容赦なく焼き殺してきた熱線が、ネイト目がけて放たれる、人を一人容易く飲み干しそうな火炎の巨塊が眼前に迫ってなお、ネイトは全く回避の構えを見せない。

 それどころか笑みを浮かべ、コートの袖から伸びる、細い、白い腕を鞭打つように振るった。

 その動きに呼応するように、金色の弧が空を断つ。火球は半分に裂かれ、そのまま金色の弧が縦横無尽に空を踊り、粉微塵に切り裂いた。

「いけ――!」

 短いかけ声と共に、空に鎖が伸びる。程なくして、竜種のうめき声が空に響いた。

 鎖が下弦の弧を描き、雲の隙間から舞い戻る。その先には、竜の首を絡め取っていた。

 とてもあの巨躯を振り回せるとは思えないような細い鎖は、そのまま重力に従い、竜の身体を地に打ち付けた。街の中央付近の大地に沈む竜の元へ、ネイトが飛来する。大地を目指す流星のように、最高速のまま白い身体は、竜の身体を撃った。

 天からの一撃を咥えてから、ネイトは器用に片手でバク転し、竜の側から離脱する。

 打ち付けられたままの竜は未だに息をしているようではあったが、首に絡みついた鎖は未だ竜を捕らえたまま離していない。

 鎖から抜け出そうと竜は腕を使って必死にもがいているが、鎖は食い込むばかりだ。

「……やはり知性がない。獣と変わらないな」

 涼しい顔をしながら、ネイトは首に絡みついた鎖を引く。

 鎖は竜の首を締め付け、その口元から赤い血が滲む。

「いくつか尋ねたいことがあるんだけど……対話は無理そうだね。何も聞こえない。――なら、長々と生かす価値もない」

 鎖の食い込む力が一気に強まる。鱗は裂け、中の肉が露わになり、巻き付いた鎖の内側から、血が滲み出す。

「せめて安らかに」

 弔いの言葉と共に、鎖は竜の首を、ねじ切った。

 内側から猛烈な勢いの血飛沫が爆ぜ、ネイトの身体に降りかかる。白い髪や外套は一瞬で赤く染め抜かれた。

 首をねじ切った鎖はそのまま空中を回った後、溶けるように消える。

「それにしても酷い有様。生きているものがいるだけマシだなんてとてもじゃないけど言えないね……」

 火に沈む街に、ネイトは憂いの視線を向けた。

 もはやそこに動くものは一つとしてなく、木の焦げた匂いと猛烈な血の臭気が混ざり、まさしく地獄の様相というべき有様であった。

「とりあえず、一段落はしたし、あの子に聞いて状況を確認しようか――」

 振り返り、歩き出そうとした瞬間、ぎし、と大地が軋んだ。

 今のネイトはただ歩いているだけだ。それで血が軋もうはずがない。

 とすれば何か――原因はすぐに知れた。首なしの竜の翼が、揺れている。

 それはさながら、羽ばたこうとしているように。地面に伸びた尾は、何度も地を叩いている。軋んだ原因はそれだ。

「……まさか」

 あり得ない、と思考する前に、それは、未だ赤い血がこぼれ落ちる首の断面から、熱線を放射した。


 間一髪、横っ飛びで躱したネイトは、さすがに表情を歪めながら、首無しの竜を見つめた。

「それはちょっとどうかと思うよ。首落ちたなら大人しく死んでくれないかな」

「ね、ネイト様……!」

「動くなって言っただろうに!」

 駆け込んできた少女の姿を認め、ネイトは舌打ちしながらその場を飛んだ。

 再び、熱線が放射される。首が落ちたため予備の動作は一切なく、ただ無機質な砲撃を行う、もはやその姿に生物らしさは一切感じられなかった。

 血がしたたる断面が少女の方を向く。その間に割り込んだネイトは、幾重にも折り重ねた金色の鎖で熱線を真っ向から受け止める。

「あと様付けやめて! で?」

 逸れた熱線が家屋を貫く。鎖を手元にたぐり寄せ、すぐさま死体目がけて放った。

 鎖が深く肉を抉る――しかし、熱線は止まらない。

「えっ、で、って言われましても……」

「首突っ込みに来ただけじゃないでしょ! あれは何!? どういう竜なの!」

 無数に現れ出た鎖が一斉に竜の肉体へ飛来する。胴、翼、腕、鎖が突き刺さった部位からは赤い血が滲む。既に肉体に与えたダメージは致命打を遙かに超えている。

「さっき死なないって言ったよね? それがあいつの権能!?」

 また放たれた熱線を、せり上がった氷柱が防ぎきる。

「け、権能……ああ、えっと、竜の嵐から現れた竜は何をどうしても死なないのです! 翼を落としても、首を落としても、彼らは最後を迎えることなく動き続ける――。我らに与えられた旧時代からの災厄、その落とし子がかの竜です!」

 少女の言うことの半分以上をネイトは理解できなかったが、あの竜が「死なない」ということは確認できた。とすれば、これ以上いくら死体を刻んだところで意味がない。

「……なるほど、死なないんだね。けれど、見たところ再生するわけじゃない……」

 そう、落とした部位が再び蘇ることはない。

 もっとも、切り落とした部位が新たな熱線の砲塔となり、ネイト達を標的として砲撃しているという問題はあったが、廻る鎖が完全に熱線を防ぎきっていた。

「なら、消し去ってしまえばいい」

 忌むべき標的を紅い瞳で真っ直ぐ捉え、ネイトは廻る鎖の中央で膝を突いた。

「ネイト様……?」

「紅き雷土よ来たれ。竜の盟主が名において命ず――」

 雷光が爆ぜ、空気が揺れた。

 紅い光が周囲を巡り、火花と共に、小さな破裂音を奏でる。

 雷光は円を描く。ネイトの周囲と、竜だったものの足下に。

 雷撃が迸り、天を撃つ。今や、雷撃は雷火となって空を裂き、二人の周囲に降り落ちる。

「紅い……雷……」

 少女はネイトに縋る。ネイトは真っ直ぐ、敵を見据えたまま見向きもしない。

「我が負いし名は紅黒の災翼(ダーインスレイヴ)! 汝が名の元に、雷火で以て仇なすものを滅殺せよ!」

 空気が、一閃と共に裂けた。

 ネイトの周囲に展開した円から雷火の槍が次々と撃ち出される。皮膚を貫き肉を焦がし、槍の針山が出来上がる。だが、それだけでは何も変わらない――。

「対象固定、捕捉完了――。天より来たれ、粛清の紅雷よ!」

 竜の足下の円が、猛烈な光を発した瞬間――空から、極太の光の柱が、一直線に降り注いだ。

 空気を焼き、爆ぜる雷撃音から、それは雷と呼称するべきなのだろうが、この様を見たものは誰一人として、これを雷とは認識しないだろう。

 これはまさしく粛清の光。天の裁きと、呼ぶものもいただろう。

 光が収まり、紅い光が小さな光球となって散っていく。弾ける音も鳴り止み、二人の周囲を廻っていた鎖は、溶けるように消えていった。

 彼らを狙う熱線はもうない。死してなお、殺戮のために動き続けた竜は、天からの一撃でもって、完全に消滅した。

 竜がいたところには、黒く焦げた半球状のクレーターが出来上がっていた。肉の一片さえも残っていない。

「調べてみたかったところだけど……あの様子じゃ無理か」

 ネイトは腕を下ろし、楽な姿勢で少女に振り返った。

「これでようやく、落ち着いて話せるね」

 柔和に微笑むその顔を見て、少女は救い主が、自分とさほど変わらない……いや、それどころか、年少としか思えない顔の造作であることを認識した。



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