屠竜騎は空よりきませり
風見どり
プロローグ 嵐を越えてきたりしもの 上
地上からあらゆる知性体が消え去った世界に取り残された生命を、なんと呼ぶべきなのだろう。
そも、その命を定義するものはいない。
その命が喰らうものもない。
その命を喰らうものもない。
もはやその命を脅かすものはなく、簒奪に悔恨を覚えることもない。
たった一つの生命になったことで得られたのは、安寧だった。何人にも冒されることのない静謐を、僕は今日も漂っている。
いつからか、視界が漆黒に染まった。風の音も聞こえなくなった。独り言をつぶやくことも、できなくなった。けれど、それは些細なこと。だって、何を見ても、何を聞いても、何に語りかけても、世界はもう何も変わらない。
不変の世界の時間は無為自然に流れていく。
だからこそ……僕は最初の問いに立ち返る。今の僕は、何なのだろう。僕の持つ名も、力も、もはや無意味だ。
この停止した世界において、僕の思考だけは巡り続ける。
ああでも……これも、いつかは止まるのだろうか。もしかしたら、僕の疑問に答えが出るのは、この思考すらも止まった瞬間、なのかもしれない。
だったら、いっそ、もう考えることもやめてしまっていいのかな――。
空が紅い。夕陽で焼けているのではない。空高く立ち上る黒煙が、その要因であった。
「巫女様を早く逃がせ!」
「だめだっ、北門はもうメチャクチャだ……!」
石木の街に、怒号が響いていた。街のあらゆるところで蒼い炎が揺らめいている。
火に巻かれた街の中央、石造りの井戸のあたりに集まった顔中煤だらけの男達の中心には、黒いヴェールを被った、160センチほどの少女がいた。
「……ごめんなさい皆さん、私がもう少し早く来ていれば……」
「巫女様があやまるこたぁねえ、全部あいつが悪いんだ……!」
男の一人が空を睨む。
「だが、どうする、北門が潰れちまったら山に逃げ込めねえぞ!」
「南の平地に一か八か逃げ込むか!?」
「馬鹿野郎、死ににいくようなもんだ! あそこには身を隠す物も何もねえ!」
男達は表情に焦りを滲ませながら討論を交わす。
その時――けたたましい、空を裂くような甲高い雄叫びが響いた。
「ま、また戻ってきた!」
怯えた様子の男を見ながら、討論をリードしていた茶髪の大柄な男が言った。
「……いいか、俺達には間に合わなかったが、巫女様はまだクリシュナ様の羽根をお持ちだ。……ですよね、巫女様」
ヴェールの少女は頷く。彼女の小さな手の中には、金色に輝く1枚の羽根があった。
「あんな化け物が来たら、どんな街でもひとたまりがねえ……。ここはダメでも、他の街に、奴らが来る前に羽根を届けられれば、その街は守られるはずだ……!」
「で、でも……私のお役目はこの街に……!」
「今更お役目も何もないでしょう! ご自分の命を第一に考えてください!」
周りの男達も一様に頷く。
「いいかお前ら、あの化け物の注意を引くんだ。鉄砲でも石でもなんでもいい! 俺は巫女様を東門に案内する!」
「東ってあんた……森じゃねえか! あの化け物は火を吐くんだぞ!?」
「何もない平地に放り出すよりはマシだ、それに……!」
再び、空から咆哮が降り注ぐ。先ほどよりも近いように聞こえ、男は一旦、眉をしかめながら空を見、すぐにその目を見開いた。
一筋の閃光が、男達の頭上に降り注いでいた。
「あ、」
東に逃げることに反対した男の頭部に真っ直ぐ伸びた蒼い光は男を貫き――黒く、爆ぜた。
着ていたものをぶちまけながら、黒い煤が周囲に飛び散る。真っ黒に染まった麻の服だけが、その場には残されていた。
「――いけぇっ!」
巫女を庇った男が叫び、残った人々は方々へ散った。彼らの足跡を辿るように、青い閃光は何度も空から降り注いだ。
男は少女を庇いながら、真っ直ぐ石畳の道を走った。地面には男の顔に付いたのと同じような煤が大量にこびりついている。
街の向こうに響く銃声を聞きながら、男は走った。
それから、ふと左右に視線をやり、少女に語りかけた。
「巫女様……街を見てみろ、燃えてない木や家の方が多いだろう? ありゃたぶん、炎が直撃したところしか燃やせねえんだ。それに、あの化け物は人間を狙ってはいるみたいだが、ありゃ直接目で確認してる。森の木の中に入り込めばそうそう見つかることはないはずだ」
「……人間の天敵……」
「……銃声が止んだな」
男は少しだけ歩幅を緩め、背後を見た。少女のつぶやきは聞こえなかったらしい。
「巫女様、ここからはあんた一人で走れ。二人まとまってたら一瞬で焼かれちまう!」
その言葉を裏付けるように、また、空が叫んだ。一瞬身を強張らせた少女だったが、すぐに頷いた。
「ありがとうございます、このご恩は一生忘れません。クリシュナ様にも必ず伝えます……!」
「ああ、それなら安心だ。この街から赤子をお預けした甲斐もあるってもんで――」
雲間から、蒼い光が見えた。一切の容赦なく、光はすぐさま地上へ降り注いだ。
男が光の柱に飲み込まれ、すぐさま黒い塵となる。間近で爆風を受け、少女はその場から吹き飛ばされた。
「あうっ……!」
頭から被っていたヴェールが吹き飛び、栗色の混ざった黒髪が露わになる。衝撃で身体が痛むようではあったが、大きな怪我を負うことはなかったようだ。
打ち付けられた石畳から起き上がり、少女は再び走り出そうとした――が。
「……ないっ!」
手の中に握りしめていたはずの羽根がない。必死に周囲を見回すが、金色の輝きは見当たらない。そこへ、もう何度聞いたか分からない咆哮が響く。
少女は考えた。羽根を探すべきか、このまま脇目も振らず逃げ出すべきか。
――それが、まずかった。空から何かが降ってくる。だがそれは、先ほどまで人々を焼き払っていた蒼い閃光ではない、もっと巨大な、黒い影だった。
それは、少女の眼前にそびえる門との間に降り立った。
ゆうに三人分の人間の大きさはあろうかという直立した二つの足。胴から生えた腕が備える爪は、容易に人を脳天から貫けるであろう。
背から伸びるのは、巨大な翼。銀色の翼膜は、燃える街の色を受けて、紅く輝いていた。
そして、少女を真っ直ぐ見下ろす、紅い瞳。
銀色の鱗の向こう、輝くその瞳は狩人のそれを思わせる。
少女は全く動けなかった。進むことはもちろん、退くことも。
身体全体が恐怖ですくんでいた。何より、一瞬でも動けば、この捕食者に喰らわれる――そんな考えが、彼女を支配していた。
もはや、彼女を守ってくれるものは何もない。
程なくして、彼女の脳は、一つの行動を導き出した。
彼女は足を折り、その場に跪き、顔の前で両手を組む。
その行為は、彼女がかつて本で読んだ、旧時代のならわし。神に捧げる、祈りだった。
「天にまします我らの父よ、願わくば御名をあがめさせたまえ――」
その行為を、紅い瞳はどう受け止めたのだろうか。祈りの祝詞をつぶやく姿を見下ろしながら、しばらくの間静止していた頭部は、ゆっくりと、真っ赤な口内を露わにしていく。
口中に逆巻くは、蒼い炎。少女を真っ直ぐ捕らえ、炎は急速に巨大化していく。
「我らが人に許すが如く、我らの罪を許したまえ。われらを試みに引き給わざれ、われらを、悪より救い給え――」
顔を上げた少女の顔には覚悟があった。死に臨む、覚悟が。
炎の巨塊を瞳の中心に捉え、少女はその瞬間を待った。
長い首が鞭を打ち、炎が放たれる。人々を焼き払ってきた閃光ではなく、正真正銘の火炎が、真っ直ぐ飛来する。放つ熱波は原形を保っていた家々をぐにゃりとねじ曲げ、少女を飲み干さんと迫る。
その瞬間までが、少女には永遠のように感じられた。だからこそ、結果を受け容れることができたとも言えるだろう。
「……結局、僕の前には君達がいるわけか」
聞こえてきた声を、そういうものだと受け容れていた。
「そして、僕の背中には君達がいる」
このあたりから、頭に疑問が浮かび始めた。
「ま……何があったのかはよくわからないけれど」
炎は、少女に到達しない。
「再び栄えた人類に乾杯を」
頬を撫でる冷たい風で、瞳は恐怖ではなく、驚きで見開かれた。
「そして、人類種の天敵――竜種に、殺戮を」
火球は凍り付いていた。周囲を灼くほどの熱気は、それ以上の冷気で以て封じられる。
少年は細い手を凍った火球へ差し出し、握り潰すように手を握ると、一斉に氷に亀裂が走り、そのまま砕けて散った。
火球は消え失せ、蒼い火の粉が舞い散る中、長い銀色の髪をたなびかせながら、白い外套一枚羽織った少女と変わらぬ背格好の人間は、穏やかな口調に、強い決意を滲ませていた。
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