第9話 強欲

 灼熱の太陽がアスファルトを激しく照らしつけている。温暖化などの環境問題が日常的に取り上げられているこの頃、どこへ行っても誰もが省エネの話を口にする。そしてビジネスの界隈ではこの季節になるとネクタイをする人が消えていく。

 しかし、東京都の下町を走る1台のメルゼデスベンツの中は、世間の傾向に逆向するようにエアコンをガンガンかけている。その車は運転手兼ボディーガードの木村と助手席に村上が乗り、後部座席に今木戸を乗せていた。

 車は環状7号線を右折して小道に入った。そして数百メートル走ったところでまた曲がった。それから数分の間、小道を縫うように走ったところで車が止まった。その左手にとても大きな豪邸が建っている。表札には“進藤興業株式会社”と書かれてあった。ここは関東最大の勢力を誇る暴力団、江戸川会直系進藤組の事務所である。進藤組は極道の世界では武闘派としておそれられている。


「木村、お前はここで待っとれ!」


 今木戸は木村に指示してから村上とともに車を降りた。


「ご苦労様です!!」


 門の前に数人の組員が出迎えに来ていた。


「佐藤!お前久しぶりじゃねぇか!調子はどうだい?」


 今木戸は出迎えに来ていた進藤組若頭の佐藤に笑顔で話しかけた。


「いやぁ、相変わらず不景気ですよ」


 佐藤も笑顔で応対する。


「そうか。たまにはウチに遊びに来いや!」


「ありがとうございます。親父がお待ちしておりますのでどうぞ」


 佐藤は今木戸と村上を事務所内へ案内した。玄関を上がって、長くて広い廊下の突き当たりのところに客間があった。佐藤はその前で立ち止まるとドアをノックした。


「こちらでお待ちになってます」


 そう言ってドアを開ける。今木戸と村上は佐藤の後ろに付いて部屋に入っていった。そのとき、部屋に充満していた異臭が今木戸と村上の鼻を襲った。異臭には煙草の臭いに混じって、人の血や汗、そして糞尿の臭いが熱を帯びて充満していた。


「うぅっぷ!!」


 村上はその異臭からとてつもない吐き気に襲われた。そして思わず持っていたアタッシュケースを放り投げて、両手で口を塞ぐと、玄関の方に走って行ってしまった。


「おい兄弟、あいつは大丈夫なんか?」


 ソファーに座っている進藤組組長、進藤光安が言った。進藤は短髪の白髪で痩せ型だが、声にはこれまで数々の修羅場を経験した男が持つ独特の迫力がある。進藤は大阪の部落地域から15歳のときに上京して、身ひとつでのし上がってきた伝説の男だった。今木戸とは上京してから間もなく出会った。いわば幼馴染のような存在である。


「すまねぇな。あいつはまだこっちの世界に馴染めていないようだ」


 今木戸が進藤に詫びを入れた。


「かまわんって!それよかよう来てくれたな」


 進藤は久しぶりに会う幼馴染に満面の笑みを浮かべていた。

 村上は両手で口を塞いだ状態で玄関を裸足で駆け下りて、事務所の外へ出るや否や跪いて勢いよく嘔吐した。


「げっ!?あんた何やってんだよ!!」


 木村が慌てて車から降りて、村上の背中を摩る。そして間もなく進藤組の組員も外へ出てきて、今しがた村上がぶちまけた吐瀉物を片付けはじめた。


「す、すみません・・・」


 村上はハンカチで口元をふさぎながら謝った。佐藤も村上を心配して外へ出てきた。


「村上さん大丈夫ですか?今木戸社長が車の中で待っているようにとおっしゃっておりました。ここは私どもが片付けをしますから、口でもゆすいで車でお待ちください」


「本当に・・・申し訳ありません」


「気にしないでください」


 佐藤は笑って言った。そして組員に指示をしてから事務所の中へ戻っていった。


「あんた親父にえらい恥をかかせちまったな。まあでも、ゲロッたところが敷地の外で良かったよ。もし看板にゲロッたら親父でもあんたを救うことなんて出来んぞ!」


 木村は笑いながら村上に嫌味を言った。


「う、うるさい!!」


 村上は木村に怒鳴ったが、内心では恐怖と不安でいっぱいだった。そして落ち着かせるために腕組みをして足をカタカタと貧乏ゆすりしていたが、心臓の鼓動が激しく打ち付けていてなかなかおさまらない。

 今木戸は進藤の前にどっかりと座ると後ろを振り向いて、パンツ一枚でうずくまっている男の方へ目をやった。歳は40半ばといったところだろうか。両腕を後ろで縛られて身体中にいくつもの新しい傷を浮かべている。


「こいつか?」


「ああ、このクソガキが俺の女に手を出しやがったんだ。知らなかったことだから許してくれの一点張りなんだが・・・俺は裏切られることと奪われることが死ぬほど嫌いなんじゃ!じゃから死んでもらおうと思っとるんじゃ!!」


 進藤の腹は決まっているようだった。


「こいつの免許証はあるか?」


「はい」


 佐藤は今木戸に男の免許証を渡した。今木戸はそれを丁寧に確認した。免許証には“今井隆一”と書いてあった。


「間違いないな・・・」


 今木戸はゆっくりと立ち上がると今井のところに向かった。そして今井の前でしゃがむと、汗でビショビショになっている髪の毛を鷲掴みにして頭を持ち上げた。今井は組員たちに散々顔を殴られたようで、瞼が大きく腫れて青ざめている。そして激しい痛みのせいか、ヨダレを垂らして笑っている。今井は今木戸にかすれた声で


「ゆ・・・るして、く、くだ・・・さい」と繰り返し言っている。


 今木戸は少しの間、今井の顔を表情一つ変えずに眺めていた。そして今井の頭を床に置くと進藤に向かって言った。


「シンちゃん、こいつを俺に譲ってくれねぇか?」


「何を言ってるんだ兄弟!?こいつは俺の女を奪ったんだぞ!俺を裏切った女にはけじめをとらせた。だからこいつにもけじめをつけてもらうのは当然じゃろ?」


「それはようわかってる!そのうえ頼んどるんじゃよ。どうだい?シンちゃんが受けた裏切りによる心の傷を1,000万、奪われたことによる心の傷を1,000万であとは俺からの見舞金500万で癒してくれんかいのう?」


「・・・・・・」


 進藤はしばらくの間、目を閉じて考えているようだった。


「兄弟!お前さんのワシへの思いやりが痛いほど伝わってくるよ!・・・わかった!そいつをお前さんに預ける。それからワシは金輪際そいつには手を出さない。だからもう兄弟の好きなようにしてくれ」


「ありがとうな!」


「いいか、たった今からそいつには一切手を出すんじゃねぇ!わかったか!!」


「はい」


 組員たちは一斉に返事をした。


「悪いんだが、この男を事務所に連れて帰るから、綺麗にしてやってくれねぇか?」


 今木戸は側で立っている組員に指示を出した。


「わかりました」


今井は2人の組員にかかえられて客間を出た。今木戸は今井を見送ると再びソファーに戻ってアタッシュケースをテーブルの上に置いて鍵を開けた。そして中から現金が入った封筒を取り出して進藤の前に置いた。


「シンちゃん手間をかけたね」


「ええって!コンちゃんの頼みなら断るわけにはいかんじゃろ!それにしても破格やな!普通ならこんなもんに500万もとらんぞ!」


 進藤は封筒の中身を確認しながら言った。


「これ単なるハニー・トラップじゃないんだ。企業買収なんだから、儲けはちゃんとシンちゃんに払わなきゃ不義理やろ?」


「さすが兄弟!俺らの間に隠し事をつくらんところは昔と何ら変わらんのう。どうじゃ、あの男を綺麗にしとる間は時間あるやろ?一杯やらんか?」


「ええねぇ!じゃあ、ウチの者に言っとくわ」


 そう言って財布から1万円を取り出して側にいる組員に声をかけた。


「おい、これを車にいる2人に渡してくれねぇか?それから2時間したら戻るように伝えてくれ」


 組員は今木戸からお金を受け取ると村上たちのところへ向かった。


「じゃあ、お前らも飯を喰って来い」


「はい」


 進藤に言われて組員たちは部屋を出ようとした。


「佐藤!ちょい待てや!」


 佐藤が部屋を出ようとしていたところ今木戸に呼び止められた。


「何でしょう?」


 佐藤は今木戸の前に立った。今木戸は背広の内ポケットからブランド物の長財布を取り出した。


「これでみんなに美味いモンでも喰って来い」


 今木戸から受け取った財布は札束でパンパンに膨れていて、重みがあった。


「こ、こんなに・・・ですか?」


 佐藤は驚きを隠せない。


「おい兄弟、あんまりウチの奴らを甘やかさんといてくれよ!」


「何言ってんだ兄弟!俺はあんたから充分にご馳走になるんだから、それであいこや!」


 そう言って今木戸は大きな声で笑った。


「そりゃ大変じゃな!おい、食い倒れんじゃねぇぞ!」


 進藤も大声で笑った。そして若衆に特上寿司と蕎麦を注文して、酒を買いに行かせた。

 

 それから2人は3階にある組長室へ向かった

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る