第3話 ヒゲと牛乳
「なあ、お前さ。中学の時のアダ名なんだった?」
カズヤが突然そんなことを言い出した。
「え?なんで?」
家のソファでテレビを見ていた時だったが、別にそういう内容を放送してたわけじゃない。
「なんとなく」
「…ふうん」
どうも今日はテレビに向かって文句が少ないと思ったらそんなことを考えていたのか。
しかしなんでアダ名?しかもピンポイントで中学。
「なんて呼ばれてた?教えろよ」
妙に食い下がってくるカズヤが面倒くさくて、あたしはかなり居心地が悪かった。
「ええっと…普通だよ」
「は?何それ?」
「だからさ、よっちゃんとか、なーちゃんとか呼ばれてたんだって」
嘘じゃない。実際友達からはそう呼ばれていた。
しかしカズヤはいきなりブチキレた。
「違う!そうじゃねえ!そういうお前らクソつまんねえ女同士が呼び合ってた薄ら寒いやつじゃねえ!」
「ええ!?なにそれ?どういうこと?」
「だからそんなクソどうでもいいアダ名なんか聞いてねえ!もっとこう、クラスの男で、笑いのセンスがある奴がつけたのがあんだろ!」
確かにクラスの男子にやたら男ウケのいい森川卓也って奴がいた。
ちなみにあたしはその森川が死ぬほど嫌いだった。
「えーいないよーそんなのー」
とは口で言ったものの、頭では森川の顔を思い浮かべてたのがどうしてかカズヤにはバレていたらしい。
「ウソつくな!教えろ!言え!思い出詐欺師!青春ゾンビババア!」
「なにそれ!酷い!またババアって言った!それに、女の子に昔のアダ名聞くなんてマナー違反だよ!」
「うるせえ!いいから教えろ!そういう時だけ女をかざすな!ご都合フェミ野郎!モンゴル嘘800!」
「意味わかんない!」
その日のカズヤは異様にしつこかった。
もういっそ正直に言ってしまった方が楽だと思えるくらいにウザかった。
だからあたしもつい、口を滑らせた。
だけど、それがいけなかった。
「ヒゲミルク…」
「え!?」
あたしがそう言った瞬間、カズヤはオモチャを買ってもらった五歳児みたいな顔をしやがった。
「だから…ヒゲミルクだって」
「なんで!?なんでそんなアダ名!?」
「…中一の時、給食の牛乳飲んだら、口の周りのうぶ毛を剃り忘れてて真っ白になった…それをクラスのバカな男子に見られてて…」
「それで!?それでヒゲミルク!?」
なんでそれで喜んでんだよ、って思うくらいカズヤはテンションが高かった。
「夏休み始まるくらいまでそのアダ名で呼ばれ
てたんだけど。まあその後は言い出しっぺのバカな森川って男子をあたしが…」
あたしの大事な説明を最後まで聞かずにカズヤが声を上げて笑いだした。
「プシュプシュプシュううう、ヒゲ、、ヒゲミルクだってwwwプシュプシュプシュw」
「あ?」
カズヤは心底面白い時とか愉快な時にだけ、このすかしっ屁みたいな笑い方をする。
で、これが他人にとっては極めて不愉快。
「あ、ゴメンゴメン。いやでもさプシュ、そのアダ名つけた男子さプシュシュシュ、サイコーだよねプシュン、いいセンスしてるわあw」
「え?そうかな?あたしは全然面白くなかったし。女子からも嫌われてたよ」
「そうなん?プシュプシュプシュ、でもさ俺は面白いと思うなあプシュ、その森川くんプシュプシュケいやあ面白いよヒゲミルクてw」
「…」
あたしは自分の中に眠っていた休火山みたいな感情がふつふつと煮えたぎってくるのを感じていた。
忘れてた怒りを思い出せるほどカズヤの顔にはムカついていた。
「あれぇ?怒ったぁ?プシュ、ゴメンゴメン、怒らないでよプシュ、軽い冗談なんだからさ、ねえ?ヒゲミちゃん」
「なにそれ?」
「いや、ヒゲミルクちゃんだから略してヒゲミちゃんだろ?プシュプシュ!ウケない?ねえウケない?」
「…ねえカズくん。あたしね。そのアダ名が死ぬほど嫌いなんだ。もう言わないでくれる」
あたしなりに、結構落ち着いた口調で頼んだつもりだった。
怒りも苛立ちも、全部抑えて、精一杯頑張ったつもり。
でも、カズヤはそれを踏みにじった。
「オッケーww分かったよプシュプシュ、もう言わないよプシュ、ヒゲミちゃん」
ブワアッ
とあたしの中で何かが溢れ出る音がした。
あたしのコップはもう限界を超えた。
気がつくとあたしはカズヤの髪の毛をひっ掴んで鼻の柔らかいとこにヒザ蹴りをいれていた。
「ぼおうっ」
カズヤの鼻からはドリンクバーの機械みたいに鼻血がドバドバ出てきていた。
見た目の割に大したことない怪我だけどカズヤみたいな口だけ男はこの時点で戦意を喪失する。
「ぱああああ!とがあ(血があ)!!!!!」
あたしは跪いてるカズヤの髪の毛を掴んだままぐいっと持ち上げる。
「いだああ」
「おいおい落ち着けよ。お前が煽ってきたんだからさ。鼻血くらいで喚くんじゃねえよ。隣の吉村さんに迷惑だろうが」
「ぴぃい」
あたしが右手に力を込めるほどカズヤの往生際の悪い髪の毛がブチブチと音を立てて抜けていく。
あたしの大好きな彼ピッピことカズヤくんは泣きながら鼻血を抑えている。
「お前がヒトの話を最後まで聞かねえからこうなるんだろ。さっき言いかけただろ」
「ふぇ?」
あたしは自分の目をカズヤの怯えた目に近づけ威圧する。
「あたしをヒゲミルク呼ばわりした森川だけどな。あんまりしつこくバカにしてきてよ。んであたしもムシの居所が悪かったんかなあ。気がついたらボコボコにしててさw」
「ひぃぃい」
カズヤは逃げようとしたがあたしは手を離さない。
決して。
「そのせいで森川しばらく入院するハメになっちゃってさ。で、あたしもあわや処分されそうになったんだけどクラスの友達やら他の女の子がかばってくれたんだよね。森川がいかにキモくてウザいかを親とPTAに言ってくれてさ。おかげで厳重注意で済んだんだわ」
「あわわわわわわ」
「まあそんなわけであたしのことをヒゲミルク呼ばわりする奴は地元じゃいなくなったわけ。森川も夏休み明けに転校してったし。だけど久しぶりに言われてカチンときちゃったなー」
「ゴメンなヒャい!ゴメンなひゃい!」
あたしはジタバタするカズヤの髪の毛を掴んだまま冷蔵庫の方に歩いていく。
冷蔵庫から牛乳を取り出す。
「久しぶりにカチンときたんでぇー、カズくんには森川と同じことをしたいと思いまーす」
「ひぃぃぃいぃ」
「オラ、飲めよ」
あたしが無理矢理牛乳パックを顔に押し付けるもんだからカズヤは目を見開いて懇願する。
「ほねがいでふ、かんべんしてふださい」
あたしは一歩も引く気は無い。
「早くしろよ。終わんねえぞ?」
あたしの勢いに気圧されてカズヤは恐る恐る牛乳を飲む。
「オラもっと早く。ちんたら飲むな」
あたしは牛乳を傾ける。
「おーし結構飲んだな。そら、よっと!」
あたしは右手を髪の毛から離して力一杯のパンチをカズヤのみぞおちに叩き込む。
「オヴェエエエエエエ」
「うひゃー!全部出たねえ!」
カズヤは嗚咽しながら泣いている。
実に愉快な光景だった。
「あはははは。ウケるーカズくん面白いー。あー鼻からミルク出てんじゃんウケるー!」
「え?…あは…あはは」
「じゃあ今日からカズくんのアダ名、鼻ミルクね」
「え?」
「え?じゃねえよ。分かったか?」
「はい」
あれ以来、カズヤはあたしに対してしばらくよそよそしかった。
自分でも少々やり過ぎたかなと思ったが、その後の生活を考えるとここでせき止めておいて良かったとも思う。
カズヤは牛乳を飲めなくなったがそれ以外は悪いことはない。
何より、あんなにボコボコにされてもいまだにあたし同棲してるところをみると、カズヤも相当好きなんだな、と思えてくる。
カズヤもあたしが好きなのだ。
続ける
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