第2話 酒井の昇進の謎
「酒井君、堅苦しい挨拶は勘弁してくれ」
男は苦笑しながら、ネクタイを緩めソファーに座った。
「酒井さん、お座りになって。奥さんもどうぞ。今日はここを自分の家だと思ってくつろいでくださいね」
「家内の言うとおりだ。リラックスしてくれよ」
男は、酒井夫婦に早く座れと言わんばかりにソファーを指さした。
酒井達は身を縮めるようにゆっくりとソファーに腰を沈めた。
どこからともなく心地いい鈴の音が鳴った。エレベーターの開閉の音だ。青い漆で塗られたドアが開いた。
中から現れたのは蝶ネクタイをした黒スーツの男だった。
男はキャスター付きのワゴンを押しながら、ユックリと落ち着き払ったしぐさで、酒井夫婦の前に進み出た。
男は、ワゴンの上に揃えてあるカップをテーブルに置き、コーヒーを注いだ。
「さあ、飲もう。酒井君はコーヒーよりウィスキーの方がよかったかな」
男は笑みを浮かべ尋ねた。
「いえ、そんな滅相もない」
「欲しければ遠慮なくこの男に告げたまえ。彼は君たちの面倒を見てくれる執事の角田と言う男だ」
角田と呼ばれた赤い蝶ネクタイの男は酒井夫婦に一礼した。
「角田君、食事の用意は?」
「はい、あと一時間ほどで」
「僕たちの分はいいから、酒井君たちを宜しく頼むよ。我々はもうそろそろ出発する」
「明日の朝食は八時ごろでよろしいかしら」
スーツの女性は酒井の妻に尋ねた。
「は、はい。何時でも」
恭子は恐縮そうに畏まって答えた。
「恭子さん、自分の家と思って自由に使ってくださいね。この家の中で分からないことがあれば角田に何でも尋ねて。遠慮はいらないから」
女性はそう言いながらコーヒーを一口含んだ。
「ありがとうございます」酒井夫婦は揃って深々と頭を下げた。
「あの、社長、一つ質問してもよろしいでしょうか?」
酒井は白スーツの男に尋ねた。
社長と呼ばれた男の名は神部浩二。年齢は六十二才。同じく白スーツの女性は神部昭子、五十八歳。神部浩二の妻だ。
神部は一代で巨大企業、神部コンツェルンを築き上げた。
一介の不動産屋からメキメキと頭角をあらわし,三十代で不動産会社を一部上場に押上げたやり手の起業家だった,
他にもコンビニエンスストアのチェーン店を全国に展開し、宅急便会社を設立し,引越し業界にも名乗りを上げ、悉く成功を納めた。
もちろん先端産業のIT業界にもいち早く進出し、いつも時代を先取りする経済界の風雲児と言われつづける男だった。
酒井はその神部の部下だ。
今年の春の人事移動で酒井は人事部長に昇格したのだった。
「なんだい?質問ってのは。ヘリを待たしてあるから手っ取り早く言ってくれよ」
「は、はい。あの、何故このように私みたいな社員に眼をかけてくれるのでしょうか。それに何故、社長の御住いであるこの素晴らしいお部屋を私共夫婦だけに使わせていただけるのか…」
酒井は引きつったような恐縮顔で神部に尋ねた。
ゴルフ焼けの神部は鋭い大きな目でしばらくの間、酒井を見つめた。
「君はこの会社の設立、発展に多大な貢献をしてくれたからだよ」
「私が…ですか」酒井はそう言いながら額から噴き出る汗をハンカチで拭った。
「そうさ」
「はあ?」
酒井は困ったような情けないような顔で首を傾げた。
「君は自分を過小評価しているよ。会社も君の能力をあまり認めていない。君がいなければ我々の会社はこのような発展はしなかった。もっと自信を持ち給え」
「私がいなければこの会社は発展しなかった…のですか?」
酒井は信じられない顔で神部の言葉を復唱した。
酒井がこの会社に入社したのは昭和四十九年。
四十年以上この会社で働いてきた。
そこそこの仕事はできるが取り分けて何か会社に際立った貢献をしたという実績はない。
ただ、ずば抜けた記憶力を持っていた。が、企画力はほとんどゼロだった。つまり創造性が乏しい。
与えられた仕事を愚直に黙々と地道に推し進めていく社員だが、自ら企画発案して社の発展に貢献するような男ではなかった。
どちらかと言えば出世街道から遠く外れた社員と言ってもいいだろう。
他の企業ならよく出世して課長補佐がいいところだ。
その事は酒井自身も承知していた。
それが人事部長という役職に抜擢されたのだ。
推薦したのは社長である神部だ、と直属の上司から聞かされた。
周りの幹部連は,酒井の部長昇進に首を傾げた。
会社に貢献した優秀な社員は他にも大勢いるのに、なぜ、よりによって酒井なのか?
だが、誰も押し黙ったままだ。ワンマン社長である神部の言うことは絶対だ。
その決定に口を挟む者はいない。
確かに酒井は、入社当初から神部の覚えがいい。
酒井夫婦の仲人を買って出たのは神部、そしてその相手恭子を紹介したのは妻の昭子。
家族ぐるみの付き合いも始まった。
何のとりえもない酒井が社長に目を掛けられているのはなぜか?と、周りは不思議に思った。
そのうち酒井は、社長の遠い親類縁者の一人なのだろうと影で言われるようになり、その噂は定着した。
酒井は噂を否定したが、神部自身が他の部下に「そんなところだ」と伝えたものだから親戚関係が信ぴょう性を増した。
もちろん、それは事実ではない。
それを一番知っているのは酒井だ。
なぜ、神部がその噂を否定しないのかも疑問に思った。
自分を贔屓にする本当の理由が分からない。だから、すこし、不気味にも感じるのだ。
その本当の理由は神部夫婦しか知らない。
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