抵抗。


 山のように並ぶ料理。

 蝋燭の火がきらめいた。

 何も口にしない俺に、小人のような客人は盛んに料理を勧めた。

 だが俺は全てを断る。


 ひどい空腹。

 俺は歯を食いしばって耐えた。

 世界が一転し、気がつけばそこは寝室。

 

 ベッドの上に手紙が置いてあった。


《食事をお召しにならなかったようですね?

 お身体を壊します。

 どうかお食べください。

        あなたを心から心配するメイドより》


 心配するなら。

 直接口で言えばいいのに。


 俺が着替えもせずに佇んでいると、寝室は縦長に伸びていき、やがてそこは薄暗い廊下となった。

 足元からにじみ出るように本が現れる。

 どうやら屋敷は意地でも俺に料理を食べさせたいらしい。


 目の前に観音開きの扉が現れる。

 しかし、開いた先は食堂ではなかった。


 薄ぼけたアパート。

 目の前には一人の女性と小さな少女が背を向けてたたずんでいた。


「あ」


 俺が声を出すと女性が振り返る。

 最愛の妻だった。


「あなた––––––」


 彼女が発した言葉は俺に届く前にかき消えた。

 目の前を走り過ぎるトラック。


 そうだった。

 俺は妙に冷静に思い出していた。


 トラックが去った後に残ったのは少女のみだった。

 少女は呆然とした顔をしている。

 その目から涙がこぼれた。


 俺は若くして妻を失ったんだった。

 そして残った忘形見わすれがたみは…。


 佇む少女が助けを求めるように俺をみる。

 まるでこの世の終わりをみたような表情で。

 たしか、この顔を笑顔にしてやるんだと俺は決意したのだった。


 俺のたった一人の家族。

 娘の––––


「イズミ」


 バタン!と大きな音で俺の背後の扉が閉まった。

 気づけばそこは屋敷の食堂で、目の前には豪勢な料理が並んでいる。


 テーブルは長く長く伸び、端が見えない。

 永遠と並ぶ料理の隙間から異形に歪んだ無数の手が伸び、手招きをした。


「おいしいよ」

「食べなよ」

「うまいぞぉ」


「いや、俺はいらない」


 ひどい空腹だった。

 しかし空腹とは反比例して俺の頭は冴えていった。


「旦那様、お召し上がりください」


 暗闇からメイドが現れた。

 奇妙にも目元を隠すようにハーフマスクをつけている。


「これ以上食べなければ本当に倒れてしまいます!」


「俺は、食べない」


 彼女の顔には妙に見覚えがあった。

 仮面をかぶったって俺にはわかる。

 それは毎日見てきた、慣れ親しんだ顔だった。


「おまえ、イズミだろ」


 ドガン!と大きな音がなる。

 見ると天井に穴が開き、そこから巨大なツルハシの先が覗いていた。

 巨大なツルハシが屋敷を破壊していく。


「お父さん…」


 小さな少女だったイズミ。

 コマ送りのようにイズミはみるみる成長していく。


 俺の料理をまずそうに食べるイズミ。

 洗濯ものが色移りして泣いて怒るイズミ。

 大学に進学するイズミ。

 少し寂しそうな顔。


 大学では登山のサークルに入ったらしい。

 写真が送られてくる。

 友人たちと笑顔でうつるイズミ。

 かなり急な山らしく、しっかりとしたコート。

 手にはロープと小さなピッケル。


 ビュウビュウと雪が吹雪き、写真を吹き飛ばす。


 笑顔、笑顔、笑顔。

 俺は笑顔のイズミに囲まれていた。


 しかし、電話がなり、搔き消える。


「イズミさんのお父様ですか?

 あの、落ち着いて聞いてください。

 イ、イズミさんが、山で、


 ––––––––遭難しました。」








 もう屋敷など存在しなかった。


 俺はぼろアパートの一室で座り込んでいる。


「お父さん」


 イズミの声がした。


「ご飯食べないと、死んじゃうよ?」


「死んでもいい。お前がいないんじゃあ、生きている意味なんて、ないんだ」


 俺はイズミの死亡届が届いてからずっと、ずっと、食事をとっていなかった。

 それはイズミの死を認めたくない俺の現実への抵抗だったのかもしれない。

 

 あの時、空腹の中恍惚こうこつとしていると、どこからか声がし、俺はいつの間にか道化の晩餐の主になっていたのだった。


 だが、今や全てを思い出してしまった。




 道化の時間は終わったのだ。

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