#08-1 無能


 睡蓮時鴻が現れた。

 それは勝手に街をパトロールしていた蛍から入った連絡であった。

 突然の報告に本部の面々は驚き、慌てた。だが、彼等の仕事柄、無能力者が出たというのに放置するわけにはいかない。

 まだ彼を捕まえる為の準備すら整っていないというのに無敵保持者の彼に挑むのは無謀すぎる。

 その為、現場に出るのは数人だけ。現在の主力である撫子と葵。そして、何が何でも鴻を捕まえなくてはいけない要だ。

 数でごり押しして勝てる相手ではない。それならば犠牲を最小限にという撫子の判断に異論を唱える者はいなかった。

 結果として、鴻には逃げられたがこちらも死者はいないという最低限の被害で済んだのは彼女の判断のお陰だったのだろう。

 もっとも葵も撫子も怪我をしたが既に回復しており、無能力者は治癒力が上がっているのは本当なのだと要が感心した。

 蛍は本部に帰還するなり、病院に担ぎ込まれたが、命に別状はない。そのことに要は安堵すると同時に改めて鴻の事を思い出す。

 思い出すだけで背筋が寒くなる。本能が近付くなと警鐘を鳴らす相手だった。

 そんな相手を捕まえないと元の時代に戻ることができない。

 その危険さに要は深い溜息をついたのだった。



◇◆



 誰かが泣いていた。

 誰かが何かを叫んでいた。


「――い――お――し――で!」


 声が聞こえない。顔が見えない。

 それでも何故か自分の心には後悔がなかった。

 ただこれで良かったという充足感に満ちていた。

 知らない光景。

 知らない人。

 知らない景色。

 知らない記憶。

 それなのに何故かそれを知っている気がした。

 その感情を知っている気がした。

 全身を襲う痛みなどとっくにない。ただ彼女の無事が嬉しかった。ようやく助けられたと安堵した。

 そして、意識が闇に沈みこむ直前、世界が歪んだ。

 世界の法則が歪んだ。

――世界が壊れた。




「っ!」


 妙な胸騒ぎを感じて桔梗要は目を覚ます。

 心臓が早鐘を打ち、じっとりと汗が浮かんでいる。

 額に張り付いた髪を払いながら、上半身を起こす。未だにバクバクと脈打つ心臓を鎮めるように深く息を吐き出した。


「……夢?」


 ぽつりと呟かれた言葉。それは自分自身に言い聞かせるような響きを纏っていた。

 要はどんな夢を見ていたのかと思い出そうとして、思い出せない事に気付く。

 ひどく不安になる夢だったのは覚えているのだが、詳細は思い出せない。


(夢なんてそんなものか)


 要はもう一度大きく息を吐き出した。

 カーテン越しに漏れる光は朝を知らせている。ふと部屋の時計に視線を移す。時刻は七時過ぎを示していた。

 要はのろのろと起き上がり、ベッドを降りた。

 夢見が悪かったせいで妙に汗をかいている。じっとりとした感覚に気持ち悪くなり、シャワーを浴びようと要は風呂場に向かう。

 熱いシャワーを浴びてすっきりとしたところで、要は鏡に映る自分の姿に違和感を覚える。だが、違和感の正体が掴めず、首を傾げた。

 そこで、要の思考を中断するようにチャイムが鳴り響く。

 一度だけのチャイムではなく、何度も連打されるチャイム音。こんなことをする人は一人しかいない。

 要は苛立ったように大股で扉に近付き、勢いよく扉を開けた。


「うるさい! 何度も鳴らすなって言ってんだろ!」


 開かれた扉の先に立っていたのは要の予想と違わぬ人物――セツが満面の笑みで立っていた。


「おっはよー! カナメン!」

「……はぁ、何の用だ?」

「おいおい、朝から溜息つくとか辛気臭いなぁ。朝からこの俺の麗しい顔を見れたことに涙を浮かべながら感謝するべきだと思うんだ、うん」

「寝言は寝て言え」

「カナメンは相変わらず可愛くねえな。……って、んん?」


 ずいっとセツが顔を近づけてきたことに要は嫌そうに表情を歪めながら、距離を取る。


「近い。なんだよ」


 要の文句にセツは怪訝そうな顔をしたまま、じっと要を見つめている。その視線に居心地の悪さを感じて、要はもう一度文句を言おうと口を開こうとするが、それより早くセツがポンと手を叩く。


「カナメン、髪薄くなったか?」

「喧嘩売ってんのか?」

「あだだだだっ! 痛い痛い! 顔掴むとかあり得ねえんだけど!?」


 いきなり禿げた宣言されたら誰だって怒るだろう。そう思いながらもセツの顔面から手を離す。

 セツは暫く顔面を押さえながら悶絶していたが、やがて復活して肩を竦めた。


「カナメンは乱暴なんだからもう! ちょっと言い間違えただけじゃん!」

「随分と悪意のある言い間違いだな」

「気のせいだって。そうやってなんでも疑ってかかると良い事ないぜ? って、そうじゃなくて、カナメンさ、鏡見た?」

「は? さっき見たけど……」

「なんで鏡見て気付かないのさ。カナメンって鈍いよなぁ」


 やれやれだぜと溜息をつくセツに要が無言で手を上げるとセツは慌てて距離を取った。


「暴力反対!」

「はぁ、で? なに?」

「だーかーらー、カナメンの髪の色が薄くなってるってことだよ」

「は?」


 一瞬、セツの言葉を理解できずに要は目を見張る。そして、洗面所に戻り、もう一度鏡に映る自分の姿を見る。

 鏡に映るのは普段と何ら変わらない自分の姿。だが、要は先程感じた違和感の正体に気付く。

 セツの言う通り、要の髪の色が薄くなっているのだ。

 少なくとも昨日までは、要の髪の色は暗い灰色だった。それがいまはどうだ。明るい灰色……否、銀髪と言った方が正しいだろう。


「……なんで?」


 茫然と鏡に映る自分の姿を見つめる要。

 要を追いかけて部屋に入ってきたセツが困ったように頬を掻いた。


「んー、前に説明したろ。無能力者を見分ける方法」

「髪と目の色だろ?」

「そう。無能力者は髪と目の色が変色する。それは、新たな言葉に憑かれた時も同様だ」


 鈍器で頭を殴られたような衝撃が要を襲う。

 くらりと視界が歪み、倒れたくなるのを堪えて、要はセツを見る。


「つまり、『無効』以外の言葉に憑かれたと?」

「そういうことだな。……んー、しょうがない。芹ちゃんに報告だなぁ」


 そう言いながらセツはバングルを操作して、どこかに連絡する。

 要は頭が痛くなるのを感じながら、自分に憑いたもう一つの言葉を考えるが、何も分からなかった。

 そして、数十分後。

 所長室に集まったのは、要とセツ。そして、撫子と葵の四人であった。


「ありゃ? ほたるんは?」

「まだ入院中よ。あの馬鹿、すぐに抜け出そうとするから、スタッフに押さえつけられてたわ」

「ほたるんは相変わらずだなぁ」

「御託は良いわ。セツ、本題に」


 緩んだ空気を壊すように響いた牡丹の声に場の空気が張りつめる。

 セツは困ったように軽く笑い、それから要に視線を向けた。


「まあ報告通り、カナメンに新たな言葉が憑いた」

「言葉の目星はついてるの?」

「それがさっぱり。カナメンも何の自覚もないしさぁ。そう簡単に絞れないって」


 全員の視線が自分に向けられたことに要は気まずそうに視線を逸らす。


「要さん。何か変わったことはありませんか?」

「何もない」


 要の言葉に沈黙が落ちる。

 重苦しい空気を壊すように動いたのは牡丹であった。

 彼女は拳銃を取り出すとそれを躊躇いなく発砲した。


「っ!」


 放たれた銃弾は要に向かい、彼に当たる直前――防がれることなく、彼の肩を掠って、壁にめり込んだ。

 突然撃たれたことに動揺しながらも肩を押さえて、要は牡丹を睨みつける。だが、牡丹は失望したように溜息をつくだけだ。


「所長!? 一体何を!?」

「うるさいわ、葵。無能力者なんだから、あの程度すぐに治るわ。それよりも問題は、『無効』が発動しなかったことよ。彼に憑いた新たな言葉が『無効』を打ち消してるのね。セツ、絞りなさい」

「うぇーい、いまやってまーす」


 セツがパソコンを操作している間、重い沈黙が周囲を満たす。

 葵が心配そうに要に駆け寄ったが、要は大丈夫だと彼女の手を振り払う。


「んー、『無効』の効果を打ち消す言葉は幾つかあるけど、『無力』も『無害』も既に確認されてるし……」

「それなら残りの言葉は……」


 再び全員の視線が要に向かう。

 セツは同情するように瞳を曇らせ、ゆっくりと口を開いた。


「……『無能』だな」


 告げられた言葉は要の心を抉るのに充分すぎる程の威力を持っていた。

 何も言えずに黙り込む要の耳に大きな溜息が届いた。


「よりによって『無能』とはね。これじゃあ、この桔梗要はもう使えないわね」


 牡丹の言葉はあまりにも冷酷なものであった。

 彼女は冷え切った瞳でもう一度要に銃を向ける。

 先程の発砲は要の命を狙うものではなかった。だが、今度は本気で要の命を奪おうとしている。

 要が逃げようと身を捩り、牡丹はなんの躊躇もなく引き金を引こうとして――彼女を止めたのは葵だった。

 彼女は要を庇うように彼の前に立ち、牡丹を真っ向から見据えた。


「葵、どういうつもりかしら?」

「……要さんが殺されるのを黙って見過ごせません」

「一度だけ忠告するわ。どきなさい」

「どきません。絶対に」

「これは命令よ」

「私が此処にいるのは要さんがいたからです。貴女の下についたつもりはありません」

「葵!? あなた何言って――」


 撫子が慌てて声を上げたが、それより早く牡丹が溜息をついた。


「本当に厄介ね。あの子が残した信者達は……まあいいわ。それなら、貴女もろとも処分すればいいだけだわ」

「わー待った待った! 芹ちゃん待った!」

「何かしら? 役立たずには用がないのだけれど」

「だからって勝手に連れてきて、一方的に切り捨てるのはどうかと思うぞ!」


 セツが牡丹を引き留めているのがチャンスとばかりに葵が要に顔を近づけて、小声で囁く。


「……要さん。今のうちに逃げてください」

「は? け、けど……」

「私が所長の足止めをします。大丈夫です。絶対に要さんを殺させません」


 ふわっと葵が笑う。それは無表情に憑かれた筈の彼女が初めて見せた無表情以外の表情だった。

 あまりにも綺麗なその笑みに要は目を奪われる。

 それは一瞬のことだけで、彼女はすぐに無表情に戻ってしまう。おそらく一瞬だけ要の無効が作動したのだろう。


「……なんで、そこまで……」


 意味が分からなかった。理解できなかった。

 牡丹は本気だ。本気で要を殺す気だ。そして、邪魔をするなら葵を殺す事も躊躇しない。

 葵は要を見捨てれば、自分だけは助かるのだ。それなのに何故要を助けようとするのか。

 要には理解できなかった。何故彼女がそこまで要を助けようとするのか。


「要さんがいたから、私はここにいるんです。いまの私がいるんです。……私の命は要さんの為に使うと決めたんです。要さんが私を助けてくれたあの時から」


 理解できない。意味が分からない。

 たとえ彼女が桔梗要に忠誠を誓っていようと、いまここにいる要は彼女の知る桔梗要ではない。彼女を助けた桔梗要でない。彼女が忠誠を誓った桔梗要ではない。それなのに何故――。


「……外に逃げて秋良君達と合流してください。彼等なら要さんに危害を加えたりしません。さあ早く」


 背中を押されて、要は振り返る。

 やはり葵は笑っていた。だけど、その顔はどこか泣き出してしまいそうで、要の背中を押した手も小さく震えていた。

 それはそうだろう。死ぬのが怖くない人などいない。それなのに自分は逃げるのか。自分が助かる為に自分を慕ってくれる人を見捨てて、逃げるのか。

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