#07-1 愛の味方
昼間だというのにろくに日の光が届かず薄暗い路地裏。
人気のないその路地裏に一組の男女の姿があった。
男性が女性を壁に押し付け、二人は体を絡め合わせる。女性は自らに迫る男性に抵抗の意を込めて男性を手で押し返そうとしていた。
「ちょっと駄目だってば。誰か来たらどうするの?」
「こんなとこ誰も来ないって」
女性も本気で抵抗する気はなかったのだろう。男性の言葉にあっさりと抵抗を止めた。
女性は男性に身を委ねるように力を抜く。男性は女性の反応に満足そうに笑い、その顔に口付けを落とす。
こうなってしまえば、あとはもう二人の世界だ。彼等は気付かない。縺れ合う自分達を見ている翡翠の双眸に。
「こんにちは」
響いたのはその場に漂う甘い空気を壊すような軽い声。
突然の第三者の声に絡み合っていた男女は驚いたように距離を取り、それから視線を動かす。動かした視線の先に飛び込んできたのは一人の青年の姿。
いつからそこにいたのか。全く気配を感じさせないほど存在感が薄い青年であった。だが、一度彼の存在に気付いてしまえば、何故今まで気付かなかったのかと疑問に思ってしまうほどの存在感を放つ青年だった。
驚くほど整った顔立ちの青年――
二人は突然現れた鴻から目を離す事ができず、目を丸くさせていた。
彼等が驚いていたのは誰もいないと思った場所に鴻が現れたことではない。
彼等の視線が注がれるのは、鴻の髪の色。そして、瞳の色だ。
風に靡いて揺れる亜麻色の髪。何もかもを見透かすようでいて、彼の本心を掴ませない深い翡翠の瞳。
それはこの時代を生きる者ならば誰もが知っている呪いの証。
数拍置いて、ようやく目の前の青年が何者かを理解して、男女は恐怖に顔を引き攣らせる。
そして――。
「む、無能りょぐっう!?」
叫ぼうとした男性は、いつ動いたのか全く分からないほどの速さで動いた鴻によって地面に転がされた。
男性は自分の身に何が起こったのか理解できず、ただ全身を走る痛みに苦悶の表情を浮かべている。
地面に転がって痛みに呻いている男性に鴻は笑顔を崩すことなく、足を振り下ろした。
「がっ!」
「アツシっ!」
勢いよく踏みつけられたことで、呻いた男性の名を女性が呼ぶ。
アツシと呼ばれた男性に駆け寄ろうとした女性を制止させたのは鴻だ。
「おっと、近寄らないでね。彼がどうなってもいいのかい?」
「っ!」
「心配しなくても今すぐ君達を殺す気はない。ただ、ボクの質問に答えてほしいだけなんだ。いいかな?」
疑問形だが、それは決して拒否を許さないものであった。
女性は鴻の足元で蹲っている恋人の姿を見て、ゆっくり頷いた。
鴻は女性が頷くのを見ると満足そうに笑い、アツシの上から足を退ける。
女性はとっさに駆け寄りたくなるのを我慢して、まっすぐ鴻を見据えた。
「それじゃあ、質問だ。君達は恋人同士なんだよね?」
「……そうよ」
一体どんなことを聞かれるのかと身構えていた女性は、鴻の質問に拍子抜けした様子で肯定する。
「うんうん、そうだよね。それじゃあ、次の質問。君はこの地面に蹲っている恋人を愛してるかい?」
「当然よ!」
「うんうん。それじゃあ、彼氏の方はどうなんだい? 君は彼女の事を愛しているかい?」
「あ、当たり前だろ!」
ようやく痛みが引いてきたのがアツシは腹部を押さえながら、ゆっくり立ち上がる。そんな彼を支えるように女性が駆け寄ったが、鴻は邪魔しようとはしなかった。
鴻は二人の様子に満足そうに頷いた。
「うんうん、君達は互いに愛し合ってるんだね。いいね、良い事だよ! 愛は素晴らしいからね。ああ、安心してほしい。ボクはいつだって愛の味方だからね!」
ニコニコと笑いながら、意味不明な発言をする鴻に引きながらアツシ達はどうやってこの場を逃げ出すかを考える。
鴻はニコニコと笑いながら、何度も頷いている。今なら逃げられるのではないかと二人はそっと後退りしようとした。
瞬間、穏やかな笑みを浮かべていた鴻が笑みを消した。細められた翡翠の双眸に射抜かれただけで、腰が抜けそうになった。
「けど、それは君達の愛が本物だった場合だ」
「え?」
「偽物の愛を語っているなら、君達は重罪だ。偽りの愛なんてものは、この世にあってはならないんだよ。そんなものを語る人間は必要ない。そうだろう?」
次の瞬間、二人は駆け出していた。
自分達でも何故駆け出したのかなんて分からない。ただ本能が此処にいては駄目だと、あの青年は危険だと叫んでいた。だが、駆け出した二人の前に先程まで確かに背後にいた筈の鴻が立っている。
そのことに二人が驚くより先に鴻の手が女性を捕まえた。
「逃げたら駄目だよ。ボクはまだ君達の愛が本物か確かめてないからね」
「お、お前! 明美を離せ!」
「心配しなくても君達の愛が本物なら解放してあげるよ」
明美と呼ばれた女性の首にナイフを当てながら、鴻は笑う。その光景にアツシは表情を歪めた。
鴻に自らの命を握られている明美は恐怖に表情を引き攣らせながら、アツシに助けを求めている。
男性の憎しみ。女性の恐怖。そんな負の感情を向けられながらも鴻は穏やかに笑う。
「さて、いまボクは君の愛する人の命を握っている。ボクは彼女を簡単に殺すことができる」
「ひっ!」
「や、やめろ! 何が目的だ!?」
「うんうん、言ったよね。ボクは君達の愛が本物か確かめたい。だから、まずは君の愛を見せてほしいんだ」
鴻が何を言いたいのか分からずにアツシは怪訝な顔をする。
愛を見せるなどどうすればいいというのか。形のないものを証明しろとでもいうのか。
困惑したアツシに鴻はニコニコと笑いながら、どこからかもう一本のナイフを取り出し、アツシに差し出す。
「簡単なことだよ。君が自らの命を差し出すなら、彼女は助けよう」
「……は?」
「あれ? 分からないかい? 君は君の愛が本物だと証明する為に死ぬんだ。自分の命と引き換えにでも愛する人を助ける。素晴らしいね! これこそ本物の愛だよ! 君は自分の命で本物の愛が証明できるんだ! 簡単だろう?」
鴻の突飛な提案にアツシは意味が分からないと頬を引き攣らせた。
「な、なんだよ……それ……」
「自分と恋人の命。天秤にかけてみて、自分の命が大事ならそれは偽物の愛。恋人の命なら本物の愛。それだけのことだろう?」
「ふざけんな! そんなの選べるわけないだろ!」
「それなら、自分も恋人も助かる為にボクに襲い掛かってみるといい。絶対に勝てない相手に無謀にも挑む。それも一つの愛の形だからね」
差し出されたナイフをアツシは震える手で受け取る。
「君が選べる選択肢は、三つ。恋人を助ける為に自ら命を絶つか。無謀にもボクに挑むか。恋人を捨てて逃げるか。さて、どれにするかい?」
「お、おれは……」
「ねえ、彼女さん。君はどうしたい? 彼にどうしてほしい?」
「……ひっ、い、いや、たすけ……」
ぺちぺちと軽くナイフを首に当てられて明美は顔を真っ青にしながら、アツシに助けを求める。
アツシは恋人のSOSに表情を強張らせたまま、ナイフと無能力者、明美に何度も視線を彷徨わせる。そして、彼が選んだのは――。
ナイフを放り捨て、脱兎のごとくその場を逃げ出すことだった。
彼は自らの恋人を見捨てたのだ。恋人と自分の命を天秤に掛け、自らの命を選んだ。
そんな恋人の行動に明美は絶望したように表情を消し、同時に彼女を捕まえていた鴻も失望したようにため息をついた。
「なるほど。君は偽りの愛を語っていたんだね。それは良くない。偽りの愛を語る君に生きる価値はないよ」
一瞬の出来事だった。
拘束が外れ、自由になった明美が見たものは、自分を見捨てた恋人が鋭利なナイフで首を切られる姿。
真っ赤な血が噴き出し、アツシの体は人形のように崩れ落ちる。
「い、いやぁあああああああああああああ!」
その光景を目撃した明美の口から紡がれる悲鳴。
鴻は動かなくなったアツシに興味ないようで、まっすぐ明美の元へと歩いてくる。
自らに近付いてくる青年に――化け物に、明美は怯えたように逃げようとする。だが、腰が抜けてしまい立つことすらままならない。
「さて、残るは君だけど……まあ、君も言うまでもないよね」
「え?」
「君は恋人に助けを求めた。それって自分を助ける為に犠牲になれって事でしょ? 君を置いて逃げようとしたあの男と同じさ。恋人よりも自分の命が大事ってことだ」
「や、ち、ちが……」
ゆっくり近づいてくる鴻から少しでも距離を取ろうと後退る明美。
彼が手にしている赤い血が滴るナイフから目が離せなかった。
自分も恋人と同じように首を切り裂かれるのかと恐怖で体が震える。
「お、おねが……たすけて」
顔を真っ青にさせて、涙を浮かべて命乞いをする。だが、無慈悲な化け物は決して心を動かされることはない。
「偽りの愛を語る人間に生きる価値はない。君もあの男もね。それだけの事さ」
一瞬にして明美の傍に近付いた鴻は何の躊躇いもなくナイフを振るう。
それだけのことで、呆気なく明美の命は失われた。力を失い、地面に倒れた明美を鴻はつまらなそうに一瞥して、持っていたナイフを捨てる。
「あーあ、また外れだ。どうしてこの世にはこんなにも偽りの愛が溢れているのかな。いつになったら本物の愛だけが残る世界になるんだろうね」
誰に言うわけでもない独白。
鴻はそのまま去ろうとして、何かに気付いて軽い足取りでその場を飛びのく。
瞬間、彼が立っていた場所を白刃が切り裂く。
軽く避けた鴻は自らに斬りかかってきた人の顔を見るなり、笑みを深めた。
「やあ、ヒーロー君。久しぶりだね」
「またお前は罪のない人を……」
白銀に輝く真剣を構えながら、袋桐蛍は既に事切れた男女を見て表情を歪めた。
鴻は蛍が表情を歪めた理由を察して、肩を竦めてみせる。
「罪がないなんてことはないさ。彼等は偽りの愛を語っていたんだよ? これは重罪だよ。偽りの愛を語る人間は生きる価値がないんだから」
「それはお前の価値観だろ」
「うん、そうだね。けど、ボクの価値観では彼等に生きる価値はない。だから殺した。それだけのことだよ」
まったく反省した様子のない鴻の言い分。蛍は唇を強く噛みしめ、大きく息を吐き出した。
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