第35話 最終話

 ミクラスに連れられ、賑やかな王都の大通りを歩いていく。

 生まれ育った田舎町や、転々と暮らしたスラム街では見たことのない物が、次々と目に飛び込んでくる。

 リゼは目をキラキラさせながら、それらを見逃さないようにせわしなく視線を動かす。

 行きにも通った道だが、朝早くに来たからか、どこもまだ開いてはいなかったのだ。


「リゼ、はぐれるといけないから」


 笑いを含んだ声で、ミクラスが手を差し出した。

 確かに、こんなに人通りの多い場所できょろきょろしていたら、あっという間にミクラスを見失ってしまう。

 小さな子供のようで気が引けたが、リゼは素直にその手を取った。


「シイナは、どこにいるの?」


 気が付いた時には、すでに王宮にその姿はなかった。

 リゼが訪ねると、前を向いたままミクラスは静かに微笑んだ。


「もう少し歩いた先」


 その顔がやけに寂しげだったので、それ以上リゼは何も聞かなかった。


 ミクラスに手を引かれ、大通りからつながる横道へと入っていく。

 少し進んだだけで、先程までの賑やかさが嘘のように、ひっそりと静かな空気がただよっていた。

 途中すれ違う人と会釈をしながら、狭い道を縫うように進んでいくと、急に視界がひらける。

 そこだけぽっかりと穴が開いたようにひらけたその場所に、小さな教会が建っていた。

 その教会の前に来ると、ミクラスはリゼの手を離し、その背中をそっと押した。


「そこの門をくぐった先に、シイナさんがいるから、呼んできてくれる?」


 教会の横に鉄の門扉があり、その先に草花で出来たアーチが続き、それが教会の裏へと繋がっているようだった。

 一緒に行かないのかと訊こうとして、ミクラスの顔を見て言葉をのんだ。


 ああ、そうか。


 教会を見上げ、リゼはその理由に思い当たる。

 そっとミクラスから離れ、一人で草花のアーチの中を進んで行く。これはきっと違う世界へ繋がっているのだ。そんな風に思いながら。


 アーチが途切れた先に青い空がひろがり、空の下の揺れる緑の中にシイナはいた。

 王宮にあったものと同じような、それよりももっと小さな十字架が並ぶ。

 その中のひとつの十字架の前に、白く綺麗なユリの花が無造作に置かれているのを見て、


「リリー……」


 思わず小さく呟くと、うつむいていたシイナがゆっくりとこちらを向いた。

 緑の中を進み、シイナの隣に立つ。


「あいつは、この場所が好きだったから、眠らせるならここがいいと思ったんだ」


 リゼが隣に来ると、シイナが言った。

 そのシイナの瞳を見た瞬間、リゼの胸が何かに掴まれたように、ぎゅうっとひどく痛んだ。

 それはいつもの深い夜空の色ではなくて、憂いを帯びた空虚な穴のようで。


 なくしてしまったのだ。大事な、シイナを埋めていたとても大事なものを。

 もしかしたらと、きっと期待をしたはずなのに、それは叶わなかった。

 叶えてあげることが出来なかった。


 リゼがそっとシイナへ手を伸ばすと、シイナはゆっくりと腰を下ろした。


「なんで、そんな顔をしている?」


 伸ばされた手を取り、シイナが苦笑する。目線が近くなったことで、よりはっきりとその哀しい色を見ることができた。

 知らずに自身も苦しげな表情をしていた事に気付き、リゼはそのままの顔でシイナの首にきつく抱きついた。


「……ごめんなさい」


 耳元で小さく呟かれた言葉に、はっとする。シイナはひとつ息を吐き、その華奢な身体を抱き寄せた。

 こんなにも細く壊れそうな少女に、その言葉を言わせてしまった自分に、憤りを感じながら。

 そう思わせるつもりではなかったのに、やはり隠し切れないのだ。この少女には。


「違う。お前がリリーを治せても、治せなくても、どのみちこうする事を選ぶつもりだった」


 シェリアから、この事件の真相を聞き、リリーが生きていて、回復するかもしれないと知った時から決めていた。それはきっとリリーの望むものではないと。

 たくさんの子供達を苦しめた末の命を、彼女はきっと嫌悪する。


 決めていた。けれど――


「それでも、どんな形でも生きていて欲しかった――そう思ってしまう自分がいる」


 リゼを抱きしめる力が、苦しいくらいに強くなる。


「……うん。……うん」


 短い相槌を繰り返しながら、シイナの首に回した腕を解き、その頭を包むように撫でる。

 さらさらとした黒髪が、指の間をこぼれた。

 聞こえるのは風に揺れる草木が擦れる音だけで、静かな時間が流れた。

 それ以上、何を言うでもなく、ただそうしているだけで、シイナの内にあるものが段々とやわらいでいくのを感じた。


 どのくらいの時間が経っただろうか、やがてシイナは腕の中のリゼをそっと離す。

 その瞳にはいつも通りの色が戻り、穏やかな表情にリゼはほっとする。


「悪い……」


 シイナの呟きに、リゼがふるふると首を振る。

 こちらを見つめる青く澄んだ瞳に向かって、シイナは口を開いた。


「キナと話をした。リゼ、お前を王宮に閉じ込めたくはない、と」


 個人で保護するには、彼女の力は大きすぎる。そう言って、キナは反対した。

 けれど、王宮ではなく、スラム街でもなく、普通の町で普通に近い暮らしをさせてやりたい。

 そう願っての事だが、ただ単に手放したくないだけなのかもしれない。

 人の心にそっと寄り添う、本物の天使のようなこの少女を。


「でも、これ以上迷惑は……」

「俺は、軍に戻る予定だ」


 シイナの言葉に、青い瞳が大きくなる。


「とは言っても、普通の兵ではなく、専属の護衛兵としてな」

「それって――」


 シイナの口元が緩やかに上がる。


「お前専属の護衛兵。その形であればそばに置いてもいいと」


 今までの場所で、今まで通りの仕事をしながら暮らしてもいいと。

 ただし、武器を所持し、常にリゼのそばでその身を護ること。それがキナの出した条件だった。


「あいにく、この二択しか与えてやれないが、あとはお前次第だ」

 セラと同じ言葉。

「……いいの? 選んでも」


 戸惑いがちにそう言うと、シイナが目を細める。


「なんで泣く?」


 そう言われて、自分が泣いている事に気付いたリゼは、慌ててその目をこする。


「違う、違うの」


 服の袖で涙を拭いながら、笑う。

 悲しいわけではないのだ。ただほっとしただけなのだ。


「シイナ」


 呼びかけて、もう一度涙を拭い、息を吸う。

 頬を伝って落ちた一粒が、足下の草に落ちて跳ねた。


「私の命はきっと短い」


 今はまだ、自覚はないけれど、この力を持つ限り、きっと長くは生きられない。

 ゆっくりと頷き、シイナが手を伸ばす。悲しいわけではないのに、なぜか止まらないリゼの涙をその手で拭った。


「選んでいいのなら、わがままを言っていいのなら、残りは全部あなたのそばがいい。

 シイナのそばで生きていきたい」


 しゃくり上げるようにそう言うと、シイナはもう片方の手も伸ばし、いつかしてくれたのと同じように、両手でリゼの頬を包み込み、何度も何度も涙を拭ってくれる。

 あの時と違うのは、その顔が困った顔ではなく、柔らかく笑っているという事だ。


「好きなだけ、いればいい」


 穏やかに、優しく返されたその言葉に、泣きながらリゼが笑う。

 そばで白いリリーの花が、また風に揺れた。




 この夜空の下ならば、どこへ行っても生きていける。

 そう思い、見上げたあの日の空を思い出す。


 今は少し違う。

 生きていきたいのだ。

 あの日の夜空の色と同じ瞳を持つ、この人と共に。

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片隅の天使 mizuho @mizuho_iriko

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