第32話 春

 暖かな日差しが降り注ぐ。そこら中で競うように咲き誇り始めた、花々の甘い香りが本格的な春の到来を告げる。


 ソロモ国立書物館の敷地内の花壇にも花が溢れ、中庭に一本だけある木にも薄いピンク色の花が咲き始めた。

 ミクラスが、これはりんごの木だと教えてくれた。

 秋に実が出来たら、アップルパイを作ろうねと。

 そう言うミクラスに、リゼは少しだけ複雑な気持ちで、けれどそれを隠して頷いた。

 ミクラスの言葉は、この先もここにいてもいいというメッセージだ。けれど、リゼはそれが難しい事を理解していた。


 首元にリボンの付いた白いシャツに、紺色のスカートといったよそ行きの服を纏い、リゼはりんごの木の下で花を見上げ、秋に実るのであろう赤い果実に思いを馳せる。

 アップルパイを食べた事はないけれど、ミクラスが作るものだからきっと美味しいに決まっている。


「食べたかったな……」


 手の届くところに咲く花を、そっと指の先にのせてみる。

 柔らかい芝を踏みしめる音がして、リゼは振り返った。


「ここにいたのか。そろそろ行くぞ」


 爽やかな春の風が吹き抜け、黒髪が乱される。煩わしそうに軽く乱れた髪を掻き上げ、シイナは促すようにリゼを見た後、踵を返した。


 今日、王宮へ行く。

 シイナは何も言わないが、きっとこのまま国の保護という名の監視下で暮らすことになるのだろうとリゼは考えていた。

 それはそうだろう。

 人を癒す力と、それに相反する力まであると分かったからには。

 奪おうと思えば、人の命を奪うこともできる。ただ触れるだけで。


 ――奪う気なんてないけれど。


 たとえリゼにその気がなくとも、その力の存在が知られれば、力を手に入れ、利用したいと考える者は今まで以上に増えるはずだ。

 力を使う気がなくとも、国としては野放しには出来ないだろう。


 リゼはりんごの木の下で、短い期間を過ごした書物館を見上げる。

 もう戻ってこられないかもしれないこの場所を、目に焼き付けておきたかった。

 生まれ育った場所ではないけれど、もうこの場所はリゼにとって心安らぐ場所だった。


「リゼ?」


 なかなかやって来ないリゼを見かね、シイナが戻ってくる。

 そう思うのはきっとこの人がいるからだと、戻ってきたシイナを見つめた。


「……なんでもない」


 断ち切るようにぎゅっと目を閉じてから、歩き出す。

 シイナの傍まで行くと、大きな手が無造作にその頭におかれた。


「心配するな」


 リゼの頭をぽんぽんと優しく数回撫でると、シイナはリゼの瞳を見下ろした。

 澄んだ青い空を映したような瞳が、不思議そうに揺れた。


「シイナ……?」


 シイナがふっと笑って、またくるりと向きを変え歩き出す。

 遠くでミクラスが大きく手を振り、何かを叫んでいる。


「早く行かないと怒られるぞ」


 ん、と頷き、リゼはシイナの後を追う。




 孤児失踪事件という名の、天使の力をめぐる事件は収束した。

 正確には、旧王国派の反乱事件だったのだろう。

 王宮の執務室で、キナ王女は身を屈めてリゼの手を取り謝罪した。


「ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって」


 今回の事件で、件の製薬会社本社と研究所の旧王国派のメンバーはほぼ全員が捕らえられた。一部混乱に乗じて逃げた者達は、今も軍が追っている。

 現王になってから追放された彼等は、社会の闇に隠れ、長い年月をかけ独自のネットワークを築き資金を調達し、武器を作り研究を重ね、反旗を翻す機会を窺っていた。

 その中で天使の存在に気付き、その力を得ようとした事が今回の事件に繋がった。


「旧王国派にも派閥があります。今回の事件を起こした彼等は、大部分を占める大きな派閥でした。けれど小さな派閥はまだ残っています」


 また同じような事件が起きるかもしれない。


「どんなにいい王が国を治めても、全ての人にとっていい王とは限らない」


 シイナの言葉に、キナは「ええ」と小さく頷く。

「その通りです。国民一人一人の声は大事にしたい。けれど、全て反映出来るわけではない。

 しかし彼等がここまで力を持ってしまったのは、間違いなく国の責任です」


 リゼはシイナの陰からキナをそっと見上げた。

 若く見えるが、清廉な空気を纏い、強い意志を持って動く美しい女性。

 常に張り詰めて仕事をこなしているのだろう。隠せない疲れが見えた。

 どこかで気を抜かなければ、折れてしまうのではないか。

 少しでも疲れが取れればいいのに、そう思いながらリゼは無意識に手を伸ばした。

 自分に向かって伸ばされた手に気づき、綺麗なグリーンの瞳がふっと和らぐ。


「どうしました? リゼ」


 慌てて手を引っ込め、リゼは蚊の鳴くような声で「いいえ……」と言った。


「どうしたの、リゼ。人見知り?」


 その様子を見ていたミクラスが、リゼの耳元に小声で言ってクスリと笑った。

 ミクラスが笑った事で、リゼは少しほっとした。


「緊張させてしまっていましたか? ごめんなさいね」


 申し訳なさそうに、キナが微笑みながら首を傾げた。


「なんにせよ、彼等の想いも知らなければいけませんね。

 現王になり、地位を追われ、この国に彼等の居場所が無くなってしまった事――そういった事が、彼等が旧王国に固執する原因となってしまっているなら、解決策を考えていかなくてはいけない」


「ただ昔の栄華に縋り付いて、甘い蜜を忘れられないだけだろう?」

 眉根を寄せ、シイナはキナに問う。


「そういう人もいるでしょう」

「自分達を陥れた国への、憎しみと復讐の念だけで動いている奴らもいる」

「そういう人もいます」

「全ての人間が納得する方法なんてものはない」

「そうかもしれません。けれど、考えなくてはいけない。

 彼等も国民で、我々は国を治める者なのですから」


 はあっと大きく息を吐き、シイナはキナを見つめた。


「苦労するな」


「ええ。父上が王になると決めた時から、覚悟しています」

その場に真っ直ぐに立ち、キナが微笑んだ。

「たくさんの血を流し、犠牲の上に今のこの国があります。もう二度と戦争など起こしてはいけない。

 けれど、結局また力で抑え込んでしまいましたね……」


 シイナの陰から一歩前に出たリゼが、先程と同じようにキナへ手を伸ばし、今度はそっとその手に触れた。


「ありがとう。助けてくれて」


 少し驚いたようにリゼを見つめ、ふっと微笑むとキナは身を屈めて視線を合わせる。


「そんなあなただからこそ、ついていく人がいる」


 キナの瞳を真っ直ぐに見つめ、心のモヤをはらうようにリゼがはっきりと言った。

 今度は本当に驚いた表情で、キナはその青い瞳を見返した。


「……不思議な子。あなたには何が見えるのですか?」


「こういうやつなんだ、こいつは」


 苦笑しながらシイナが言うと、なぜ笑うのかという顔でリゼが振り返った。


「リゼは本当に天使なのかもしれませんね」


 ミクラスも柔らかく笑い、リゼの頭を撫でた。

 コンコンと扉を叩く音がして、キナが「どうぞ」と言い姿勢を正した。


「キナ様、セラ君の検査全て終わりました」


 扉が開き、赤い髪がのぞいた。シェリアが足を少し引きずりながら部屋へと入ってきた。


「分かりました。では、皆さん、移動しましょう」


 ミクラスがシェリアの傍に寄り「肩をかそうか?」と声をかけるが、視線をそむけたまま「いらない」という素っ気ない返事が返ってきた。

 アスティに撃たれて負傷した脚を、シェリアはリゼに治してもらおうとはしなかった。


「リゼに治してもらわなくていいの?」

「いいのよ。リゼちゃんの負担になるでしょ。

 あまり力は使わない方がいいって、あいつもそう言ってたし」


 心配そうにこちらを見てくるリゼの視線に、大丈夫だと手を振ってみせる。


「そうは言ってもさー」


 そう言いながらミクラスがシェリアの顔を覗き込むと、途端にその顔が赤くなった。


「わお、顔も髪も眼も全部赤いね――いった! 痛い痛い!」


 無言でミクラスの頭をグーで殴り、鼻息荒くシェリアは先頭を切って部屋を出ていってしまった。

 シイナがミクラスの肩に手を置く。


「いまのはお前が悪い」

 ため息まじりに言うと、

「――だって、あの日からシェリアの反応が今までにないものだから、嬉しくてつい……」


 殴られた頭をさすりながら、ミクラスがしょんぼりする。


「ダメですよ、ミクラス。女性はナイーヴなんですから、いくら幼なじみとはいえ、丁寧に接してくださいね」


 特にこういう事柄に関しては、とキナが人差し指を立てて説教するが、どこか楽しそうに見えた。

 リゼがミクラスの手をきゅっと握り見上げる。


「嫌われちゃう、よ?」


「うぅ、リゼに言われると、より心にくる……」


 更にしょんぼりとうなだれたミクラスを見て、三人は顔を見合わせて笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る