第30話 一緒に帰ろう

 リゼの言葉に、アスティが勢いよく立ち上がると、音を立てて小さな丸椅子が転がった。


「――嘘を言うな!!」


「嘘、じゃない」


 声を荒げるアスティの目を真っ直ぐに見つめ、リゼは静かに答えた。

 嘘だ。

 アスティに一歩近づき、再びリゼは口を開いた。


「       」


 やめろ。聞きたくない。

 そう言うように、アスティは両手で耳を塞ぎ、後ろに下がる。

 空いた距離を取り戻すようにリゼがまた一歩近づく。


「――っやめろ」


 上着の裏から銃を取り出し、リゼに向けた。

 近づくのをやめたリゼに、今度はアスティが距離を詰め、小さな額に銃口を突きつけた。

 氷のように冷たくなった鉄の塊を突きつけられても、青い瞳は揺るがなかった。

 引き金に添えた指が微かに震えるのは、この凍える部屋に長くいたせいだ。そう自分に言い聞かせ、アスティは口を開いた。


「力を、使え」


 そう口にしたのと同時に、部屋に駆け込む足音。


「――アスティ!!」


 瞬時にその銃口をアスティに向け、シイナが低く叫んだ。


「撃たないで!」


 それを遮るように、芯のある声が響く。

「大丈夫だから」とアスティを見据えたまま、リゼが言う。

 銃を握る冷たいアスティの手を両手で包み込み、リゼはゆっくりとそれを下ろさせた。


「――っ」


 アスティは、どうしてもリゼに向けて引き金を引くことが出来ない。それを見て、シイナも構えた銃を下ろした。


「いいよ。力を使ってもいい」


 リゼの言葉に、アスティがぱっと顔を上げる。

 迷子の子供のような表情だった。


「でもあなたの望む結果は得られない」


 いつか、黒く焼け焦げた父に、泣きながらこの力を使い続けた事がある。

 けれど父は戻らなかった。

 その時に解ったのだ。


「私の力は、死んだ人には効かない」


 リゼの視界の端で、シイナがピクリと反応したのが見えた。


 ――シイナが悲しむのを見たくはない。


 それでも事実は変えられない。

 アスティが受け入れなかった言葉を、再び口にする。


「彼女はもう、亡くなってる」


 リリーの周りにはもう色がない。それはつまり、もう生きてはいないということ。そして、リゼの力は、死んだ人間を生き返らせるものではない。


「……違う、嘘だ。ここなら姉さんを生かせる技術があると――あいつがそう言ったんだ」


 絞り出すように言うアスティに、リゼが小さく首を振った。


「よく見て。触れて」


 リゼがアスティの手を引き寄せ、その手をリリーの胸の上に置かせた。

 鼓動のない冷たい身体。


『所謂、仮死状態に近い状態にするんだよ』ジルはそう言った。

 身体に付けられたたくさんの管は『細胞を保つ為の栄養剤』だと。


 思えばなぜ、根拠のないあの言葉を信じたのだろうか。


 これはただ、遺体を腐敗させずに保管する為の技術だ。


 いや、本当は気付かないふりをしていた。ずっと、気付きたくはなかった。

 それでも、天使の力――それさえあれば、なんとかなると思っていたのだ。


「そうか。あいつらの正体を分かった上で、お前はそれを選んだんだな」


 いつの間にかリゼの隣に来たシイナが、アスティに向け穏やかに言った。

 鋭い視線がシイナを捕らえる。


「……今更現れて偉そうに言うな。ただ呆然と、撃たれた姉さんを眺めてただけのあんたが!」


 庇うようにシイナの前に立ち、リゼはアスティを見上げ小さく首を振る。

 顔を歪め、アスティは力なくその場に膝を着いた。


「――なんの為に俺は……」


 一筋、その頬に流れた涙をリゼがそっと拭うと、アスティはその手を鷲掴み、床に突っ伏した。


「うあぁぁぁぁぁあああ!!」


 雄叫びのような慟哭がこだまする。

 空いている方の手で、リゼは泣き崩れるアスティの頭を撫で続けた。

 その声を聞きながら、シイナはベッドの横に立ち、眠っているように見えるリリーの頬に触れた。


「……冷たいな」


 白く、氷のような頬。

 その身体に付けられた管を一つずつ丁寧に外していく。最後の一つを外し終え、リリーの細い指を胸の上で組ませた。

 本当にただ眠っているだけで、いまにも目を開き、あの陽だまりのような笑顔を見せてくれるのではないか。そんな気がしてならない。


「リリー……」


 伝えたいことはたくさんあったはずなのに、何も言葉が出なかった。

 柔らかい栗色の髪を撫で整え、シイナは胸の前に組ませたリリーの手にその手を重ねた。


「一緒に帰ろう」


 微かにリリーが笑ったように見え、シイナも少しだけ口元を上げた。

 シイナはアスティの前に来ると、片膝を着いた。


「アスティ、お前も一緒にだ」


 隣でリゼがシイナを見上げる。泣き止み、ただ呆然と座り込んでいたアスティが虚ろな目を向けた。最早、何もかもがどうでもいいというような目。


「お前、死ぬ気だろう。俺はお前を死なせるわけにはいかない。それがリリーの願いでもあるからだ」


 瞬間、虚ろな瞳に力が宿った。


「――どこまでも人を愚弄する。あんたと一緒に行くなら死んだ方がマシだ」


 それを見て、シイナがにやりと笑った。


「そうだ。その目だ。憎めば良い。それでお前に生きる力が湧くのなら、いくらでも俺を憎め。

 俺は、お前を生かす事を諦めない」


 予想外の言葉に、アスティの目には微かに戸惑いの色が浮かんだ。


「なんで――」


 アスティは眼鏡の奥の黒い瞳を見た。初めてきちんとこの男と目を合わせた瞬間かもしれない。

 ただの黒ではない、深い色が見えた気がした。

 この色をよく知っている。

 絶望の中、一人見上げたあの途方のない空の色だ。


「リリーはずっと願っていたよ。俺と出会った頃から最後までずっと。お前が生きて幸せである事を。

 もし自分がいなくなる未来がきても、そうである事を」


「な、にを言って――」


「俺も同じだ。別に俺の傍にいなくてもいい。ただ生きて、光を知って欲しい」

「……なんでだよ。あんたには関係ないだろ」

「あるさ。身内だからな」


「は……?」


「リリーの家族は、俺の家族だ」


 シイナの言葉に、アスティは言葉を失う。なぜか苦しい胸の辺りを掴み、うつむいた。

 リゼはそんなアスティを見つめ、口元を緩めた。

 彼の周りの黒い色は、もう消えかかっている。きっともう大丈夫。


「帰ろう? アスティ。一緒に」


 差し出された小さな手に、アスティは顔を上げた。

 顔を上げた先に、その瞳に映った光景に目を見開く。

 アスティはほとんど無意識に、反射的に差し出されたリゼの手を強く引いた。

 何が起きたか理解する間もなく、リゼの身体は大きく横に飛び、咄嗟にシイナが手を伸ばし抱き留めた。

 リゼがいた場所の直線上にいたアスティの胸に、赤い色がじわりと広がる。


「アス、ティ……?」


 リゼの目の前でズルリと崩れ落ちた身体の先にあったのは、深い闇だった。

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