第22話 動く

 リゼは一人部屋に残り、一階の書物館から拝借した本を開いていた。


 テーブルには、器にこんもりと盛られたのど飴と、はちみつ漬レモンの浮かんだホットレモネード。

 別に風邪をひいているわけでもないが、喉を大事に! とミクラスが用意した物だった。


 今朝リゼは、何年振りかに自らの声で言葉を発した。

 長く使われていなかった声帯は、まだ少し掠れて上手く使えないが、リゼが何か喋ろうとする度にシイナは黙って待ってくれた。途切れ途切れに喋り終えると、少しだけ微笑みながら言葉を返してくれる。

 スケッチブックを介さずに、直接言葉を交わせる事が嬉しかった。


 ――何を話そうか。


 書物館の仕事に出掛けた二人が戻った時に話す事を考えながら、リゼの心は穏やかだった。

 長いこと感じる事のなかった、心に血が通う感覚。

 そして、その変化をいちばん伝えたい人物に思いを馳せる。


「セラ――私、変わったよ」


 ちょうど開いた本の中、手を合わせて見つめ合う天使が二人。


 ずっと互いだけを見て、互いだけを信じ生きてきた。

 だけど世界は想像よりきっともっと広い。

 力を利用しようとする人間は確かにいる。けれど同時にシイナ達のような人間もいる。

 あとはもう自分次第なのだ。

 選んでいくのは自分なのだ。


 リゼは本の中の天使をそっと指でなぞった。

「守ってもらってばかりでごめんね。今度は私も強くなる」


 リゼの後ろでカチャリと音がして、この部屋の玄関にあたるドアが静かにゆっくりと開いた。



 イヴ・カーリンこと、シェリア・リオネスは誰もいなくなった更衣室で、自身の小型の機器で最後のデータをキナに送信した。

 あとはシイナ達に任せ、シェリアは後方サポートへ回る。


 深く息を吐き、シェリアは荷物をまとめイヴとして使用していたロッカーを片付けた。

 もうここへ来ることはないだろう。

 電気を消し、暗くなった廊下に出ると、突然背後から声を掛けられる。


「イヴ・カーリンだな」


 ――アスティ。


 背中に緊張が走るが、それを感じさせないよう自然に振り返る。


「はい、そうですけど」

 何かご用ですか? という顔で見上げると、アスティが舌打ちをして一歩近づいた。


「アン・ラスキンを知っているな」


 さりげなくシェリアは、近づかれた分、一歩下がる。


「ええ、同じ事務所内で働いていますから。

 でも、彼女は午前勤務で、私は午後勤務なのでお会いしたことはまだ……」

「それはそうだろう。同一人物なら会えるわけがない」

「……おっしゃっている意味が分かりませんが」


 ふんっとアスティが鼻で笑った。


「わざと印象深い人物を演じアクションを起こし、あの場所から姿を消す――大抵の人間相手ならそれで十分だろう。もうこの場所にはいないという思い込みをさせるには」


「何の、お話でしょうか?」


「残念だったな。ここの所長は普通の思考回路じゃない。変態だからな。

 わざわざそんな事をするのは、潜り込んでいるネズミは一人だからという理由に他ならない、と。

 そしてそれは、まだやり残している仕事を片付ける為、俺達の目を背けるためにやった事だ。

 違うか?」


 シェリアは表情を変えず、気付かれない程度にもう半歩、後ろに下がった。


「アン・ラスキンのばらまいていった書類に残った指紋と、同時期に入社した人物の指紋を照合した結果、イヴ・カーリン――お前と一致した」

「お言葉ですが、彼女と私は同じ事務所で働いています。

 私の指紋が付いた書類を、彼女が持っていてもおかしくないのでは?」


 更にもう半歩後ろに下がった。


「では、なぜ一人の指紋しか残っていない?」


 シェリアの表情が微かに揺れた。

 ちらりとアスティはその表情を確認した後、目の前の人物に問いかける。


「あの場所にいたのがお前だとしたら、こう問いかけるのは二回目だな。

 お前は、誰だ?」


 突然、シェリアが笑い出した。


「何がおかしい」

 イライラとした声音。

「いえ、貴方が私にその問いかけをするのは、三回目だなと思い」

「……なんだと?」


「ですから、私があなたとお会いするのは、これで三回目です」


 アスティの脳裏になぜか一瞬、姉と再会するきっかけとなった、ひどく地味な女の顔がよぎった。


 その瞬間、シェリアの身体がふっと沈み、次の瞬間にはアスティの懐に入り込み、滑らかな動きでその鳩尾に掌底打ちを喰らわせた。


「ぐっ――!」


 一瞬意識を削がれていたアスティは、もろにそれを受け前のめりに体勢を崩す。

 シェリアはそのまま流れるように身体を捻り、体重を乗せた重い蹴りをアスティの横っ腹に撃ち込む。


「ぐはっ―――」


 壁に当たり、アスティが床に倒れ込む。


「あたし、あんたみたいな視野も心も狭い男って大っ嫌いなの! 

 いい歳した男が駄々こねてるんじゃないわよ!

 あんた、今まで一度だってリリーさんの気持ちを考えた事ある?!」


 乱れた上着を直し、アスティを見下ろしながらシェリアは怒りを露わにした。


「お前……国の人間か」


 蹴られた脇腹を押さえながら、容姿は変わらないが、先程までとはまるで別人の女を見上げた。


「国がどうとか関係なく、一度あんたの事思いっきりぶん殴ってやりたいと思ってたのよ」

「……お前に姉さんの何が分かる」

「少なくとも、今のあんたよりは分かっているんじゃない?」


 冷めた目つきでシェリアが言った。


「自分の中で勝手にお姉さんを作り上げて、それ以外を認めないあんたなんかに、彼女が本当に望むことなんて分かるわけがない」


 アスティがゆっくりと立ち上がる。


「……黙れ」


 シェリアは自身の前後左右を目視し、逃げられる可能性のある道を探す。

 探しながら、その思いを口にする。


「彼女はいつも、どんな事でもありのままを受け入れる。

 その上で自分の望む道を進んでいける強い人。

 数える程しか会ったことはないけれど、それでも分かる。彼女はこんな生は望まないって。

 他人のあたしが分かるのに、身内のあんたがなんで分からないのよ!」


「黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れっ!!」


 アスティが白衣の下に手を差し入れた瞬間、シェリアは動いた。

 同時にパンっという乾いた音が響き渡った。

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