第20話  シェリアの仕事

 特別棟と別棟を繋ぐ渡り廊下の入口で、アスティは見知らぬ女とぶつかりそうになった。


「ごっごめんなさい!」


 女はスイッチが入った壊れた人形のように、何度も何度も頭を下げる。

 その度に首に提げた社員証がぶんぶんと振られ、女の顔にベシベシと当たっていた。


「……お前、誰だ?」


 アスティは、目の前で謝罪を続ける滑稽な女を見下ろし、眉をひそめた。


 薄茶色の丸いボブカットの髪に、気が弱そうな顔立ち。

 胸の前に手を持ってくるのは、相手との距離を取りたい内向的な性格の人間の仕草。

 目線は下げられたまま、決してアスティの視線と交わらなかった。


 この場所は限られた人間しか入ることが出来ない特別棟だ。そしてこの渡り廊下の先は、更に限られた数名しか入る事の許されない部屋。

 そんな場所なので、ここへ出入りする人間は皆お互いの顔を知っている。


 その場所にいるこの「見知らぬ女」は誰だ?


 瞬時にアスティは、首に提げられた社員証の名前を確認するが、聞いた事のない名前だった。


「すっすみません! 私、最近入ったばかりで、道に迷って帰り道を聞こうと、前を歩いていた人を追いかけたらこんな所に――」

「……なるほど。確かにこの施設は広い。迷った挙げ句、道を聞こうとした相手がたまたまこの特別棟に入れる人間で、追いかけたら偶然セキュリティをすり抜けてここへ入り、相手を見失ったってところか?」

 アスティの言葉に、薄茶色の丸いボブ頭をぶんぶんと振り、女は「そうです」と言う。


 ――あり得ない。馬鹿か、この女。


 この施設に何者かが入り込み、データや情報を盗み出しているという報告を、所長であるジルが受けていたのを思い出す。

 果たして目の前のこの気の弱そうな女に、そんな大それた事が出来るのか。

 この女の言動を見ていると、ここに至った話もあながち嘘ではなく、そんなあり得ないドジもこの女ならあり得るのではないかと思い始める。


「ちょっと来い」


 どうあれ怪しいことには変わりない。そのままジルに引き渡すつもりで女の腕を掴んで引くと、バランスを崩した女が、手にしていた書類を盛大にぶちまけた。


「すっすみません! すみません!」


 なかなかの枚数が散らばった廊下を見て、アスティは大きくため息をついた。

 掴んでいた女の腕を一旦離すと、アスティは足下の書類を数枚拾い上げる。

 やはりこの女がスパイな訳がないんじゃないか――そう思いながら振り返ると、女の姿はどこにも見当たらなかった。

 近くの窓が不自然に少しだけ開いているだけ。


「は……? まさか」


 窓の下を見るが、女の姿はなかった。そもそもここは四階だ。

「どうかしましたか?」

 近くを通りかかった特別棟の研究員が、床に散乱した書類とアスティを見比べながら訝しんでいる。

「……所長に連絡しろ。ネズミを見つけた。名前は――」


『アン・ラスキン』


 そう書かれた社員証を外し、代わりに『イヴ・カーリン』と書かれた社員証を首に掛けると、女は更衣室を出た。


「ああ、イヴ! 今から?」

 入れ替わりで更衣室へ向かう女性が、親しげに女に声を掛ける。

「ええ、お疲れ様。なんだか騒がしいみたいだけど、何かあったの?」

「そうなのよ! なんでも、特別棟に侵入者がいたらしくて、それがなんと誰だと思う?」

「さあ?」


 女性は辺りを見回し、女の耳元で囁くように言った。


「アン・ラスキンよ。あの万年ドジっ娘のア・ン」

「そうなの? 私はまだ会ったことがないからピンとこないわ」


 ああ! と女性はポンと手を叩いた。


「そっか、あなたいつも午後勤務だから午前勤務のあの子に会ったことがないのね。

 覚えの早いあなたとは正反対で、何をやらせてもダメなのよ……。お茶も汲めないんだから」

 でも、と再び声を潜める。

「人は見かけによらないものね。まさか彼女が研究データを盗む他社のスパイだったなんて。

 普段の姿は油断させる為かしら。窓から逃げ出したんですって。四階からよ! 四階」

「それはすごいわね……」


 そうでしょ? となぜか女性が得意げに言った。


「まあ、関係のない私達の仕事は、いつも通りだけどね。午後頑張ってね、イヴ」


 ひとしきり話し終え満足したのか、女性は手を振り更衣室のドアをくぐった。


 手を振り返し、扉が閉まるのを見届けると、女は歩き出す。

 途中立ち止まり、窓に映る自分の姿を確認する。


 肩まである茶色の髪をサイドアップにして、顔には大きめの黒縁眼鏡。

 少しつり目で気が強そうだが、いかにも仕事の出来そうな女の風貌。


「さすがに窓からは逃げないわ」


 髪を整えながら、女は小さく呟いた。

 すぐ横を慌ただしく白衣の男が走り去っていく。

 彼等にアン・ラスキンという人物を見つけることはもう出来ないだろう。


 リリー・ロイスはきっとアスティ・ロイスが出てきたあの渡り廊下の先にいる。

 セラ・クレインが監禁されていると思われる部屋も割り出すことが出来た。


 ――あともう一仕事ね。


 女は再び歩き出し、いつもの仕事場である事務所へと向かう。

 『アン・ラスキン』でも『イブ・カーリン』でもなく、彼女の本当の名前は『シェリア・リオネス』

 この国の諜報員だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る