第18話 絶対世界〈4〉

 姉さんからの手紙を読まなくなった頃から、頻繁に俺を訪ねてくる人物が現れるようになった。

 その人物は、ネロトニア国で脳科学の研究をしているジル・エイミスと名乗った。


「何度来られても、俺はあんた達の研究に協力するつもりはない」


 しつこく訪ねてくる男に、何度も言った言葉をまた告げる。


「あんた脳科学者だろう? 俺の専門は遺伝子生物学だ。

 なんの研究をするつもりか知らないが、わざわざ他国の俺に協力を仰ぐ理由はなんだよ」


 胡散臭い笑顔を貼り付けたまま、ジル・エイミスは椅子の上でゆらゆらと身体を揺らした。

 その仕草が気に食わず、舌打ちをして窓の外へと視線を逸らした。

 研究室の窓の外はどんよりとした厚い雲に覆われていた。


「ボク知ってるよ。君がネロトニア国の生まれだって事。アスティ・ロイス君でしょ?」


 その仕草と同じく、気分が悪くなるような喋り方でジルが言った。


「……だからなんだよ」

 ううんと唸りながらジルが小首を傾げる。

 全然可愛くなくて吐き気がする。

「しょうがないなぁ、君には特別に教えてあげるよ。ボクら、というかボクは天使を作りたいんだ」


 何を言っているんだ、こいつは。


 現実逃避をするように、しばらくその場で目を閉じた。

 目の前の人物が幻で、目を開けたら消えてくれたらいい。それがいい。


 そう思いながら再び目を開けると、目の前に顔があり、反射的に手が出た。


「いったぁ。君が筋肉モリモリの人じゃなくてよかったぁ」


 頬を押さえながらジルはケラケラと笑った。

 結構強めに殴ったはずだが、まったく効いていないように見える。


「だって、目の前で眼を閉じられたらチューして欲しいのかなって思うでしょ」


 その言葉に、これは本物の変態だと思い、警戒するようにじりじりとドア付近へと移動する。

 いつでも逃げ出せるように。


「君は天使はいるって思う?」


 そんなことは気にも留めず、ジルは普通に話を続けた。


「いるわけないだろ」


 殴った方の手をさすりながら、この変態は何を言っているんだと思った。


「ボクね、小さな頃に一度死にかけてるんだよ。鉄のパイプが落ちてきて、ここにこうグサッと――」

 そう言いながら、ジルは自身の胸にパイプが刺さる動作をした。

「ね、死ぬしかないでしょ? 肺に穴が開いて苦しかったなぁ」

 全く苦しそうには聞こえない言い方で、ジルは胸をさすった。

「そしたら天使が現れて、ボクを一瞬で治してくれたんだ」


 そんなファンタジー世界のような事が、起こるわけがない。

 この人物がどこまで本気で話しているのか分からない。

 緊張感のないこの男の話し方が、余計にそう思わせるのだろう。


「綺麗だったなぁ……」


 何かを思い出すかのように、遠くを見つめ、そして急にこちらを向いた。

 その顔は、少なくともさっきまでの緊張感のない顔よりは、嘘のない真剣な顔にも見えた。


「ボクはそれが忘れられなくて、彼女を探しながら天使について調べたんだ。

 そして、何年、何十年、あるいは何百年に一人、天使と呼ばれる人間が存在した事が分かった。

 もちろん公に記録されているものではないから、定かではないのだけど。

 彼等はねぇ、人の傷や病気を一瞬で癒す事が出来るんだよ」


 それは、にわかには信じがたい話だった。

 もし本当に存在するとして、その存在を知れば人々が放ってはおかないだろう。

 いくら隠そうとしても、隠しきれるものではないのではないか。


「残念ながら、天使っていうのは短命らしくてね、ボクの出会った天使は亡くなってしまったようだけど、彼女には娘がいてね」

 そこまで聞いてふと思い至り、思わず口を開いた。


「……遺伝か?」


 ジルが指を鳴らして俺を指さした。

 行動がいちいち鬱陶しい。

 けれど、その存在が人々に認知される前に死んでしまうのであれば、その存在を知る者がほとんどいないことも納得がいく。


「いいね。頭のいい子は大好きだよ。

 そう、まだ確認は取れていないのだけど、たぶん娘にも力がある。でも取り逃がしてしまってね、探しているんだ」

「だから俺に声を掛けたのか」

 そう、とジルは頷いた。

「今までの天使も、ボクが出会ったあの人の血筋である可能性が非常に高い。

 遺伝的な要素が大きく関係する力なら、遺伝子学に秀でた君に協力を仰いだ方がいい。でしょ?」


 大きくため息をつき、俺は近くにあった椅子に腰掛けた。

 その話が本当だとしたら、ジルの話は一理ある。

 だがなんのメリットがあって、俺が協力しなければならないのか。

 大体、すぐに信じられる話ではない。


「信じてないねぇ。そしてなんのメリットがあるんだと思っているね」


 その通りだ。


「そうだね、今の時点でこの話は君になんのメリットもない」

「……分かっているなら帰ってくれないか」


 扉を開け、顎で退出を促すと、意外にもジルはあっさりと部屋を出た。


「別にボクは研究さえ出来れば、あの男のことなんてどうでもいいんだ。

 でも、ボクに研究する場を与えてくれる大事な大事なボクの上司は、あの男をとても憎んでいてね。

 彼が大事にしているものを近々壊す計画をしているみたいだよ。そしてそれは君にも関係している……」


「――は?」


 意味深な言葉を残し、ジルはひらひらと手を振り歩き出す。

「近い内に、自らの意思で君はこちらに来ることになるんじゃないかなぁ」

 誰が行くかよと心の中で呟き、扉を閉めた。



 数日後、姉さんが撃たれたという知らせが俺の元に届いた。

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