第7話 リゼ・クレイン

 リゼ・クレイン。

 自前のスケッチブックに、少女は小さくそう書いた。

 少女の名前だった。


 初めはそれ以上何も語ろうとしなかった。シイナもミクラスも無理に聞き出す事はなかった。

 けれど少しずつ、何日かかけて少しずつ、時折苦しそうに少女リゼは自らの事を紙に書き出していった。

 書こうとしても、書けない日もあった。

 本人のペースに任せるとシイナは言った。そんな日には、ミクラスは温かいシチューを作ってくれる。

「温かくて美味しい物を食べれば、心もあったかくなるでしょ?」そう言って。

 静かに見守ってくれるシイナと、温かく気遣ってくれるミクラスに、リゼの心は少しずつ解れていくのを感じたのだ。


 リビングのソファの上で、リゼは目を覚ました。

 スケッチブックを抱きしめたまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 窓の外は綺麗なオレンジ色だった。


「起きたか」


 声のした方を振り返ると、窓際の定位置にシイナが立っていた。

 リゼはソファから降りてシイナの隣に立つ。


『お仕事は?』


 手にしたスケッチブックに書かれた言葉を読んで、シイナは眉根を少し上げた。


「お前もあいつみたいに、仕事しろと口うるさく言うタイプか?」


 小さな頭が、困ったようにふるふると横に振られると、シイナは冗談だと言って軽く笑った。この人も笑うのだとリゼは思った。


「もう終わりの時間だからな。後はミクラスに任せてきた」


 リゼはオレンジが映り込むシイナの黒い瞳をじっと見た。


「――どうした?」


 何か言いたげな視線に、問いかける。 

 シイナの問いに、少し考えてからリゼはスケッチブックに目を落とした。


『どうして助けてくれるの?』


 今まで信頼できる人間が周りにいなかったのだから、当然の疑問だろう。

 シイナは片膝を床につくと、リゼの目線に合わせた。


「今まで、国に保護してもらおうと思った事はあるか?」


 首は横に振られた。


『兄が、国に知られたら研究や戦争に利用されるからダメだって』

「賢明な判断だ」


 だが――とシイナは澄んだ青い瞳をまっすぐに見た。


「俺達が国側の人間だとしたらどうする? それも、もっとも国の中枢に近い人間だ」


 沈黙が続いた。

 やがて、リゼはおもむろに片手を伸ばすと、目の前のシイナの頬にそっと触れた。

 初めて会った時のように、何かを確かめるようにシイナを見た後、ぎこちなく笑った。


『人の色が見えるの』


 書かれた言葉を読んで、シイナは怪訝な顔をした。


「色?」


 リゼがこくりと頷く。


『生き生きとしてる人ほど眩しく、死が近い人は少しモヤが掛かって見える。悪い事を考える人はどす黒く。それは触れるとよりはっきり見える』


 驚きの表情で、シイナは目の前に綴られていく文字を見つめる。 

 リゼの力は治癒だけではないようだ。


『昔、私を捕らえようとした人も、私達に悪さをしようとした人達も、みんな黒く汚れて見えた。今なら色が持つ意味が分かる。だから――』


 ページがめくられ、そこに書かれた文字は、


『あなたを信じる』だった。


 シイナには、それはどんな言葉よりも説得力のある言葉に思えた。

 その綺麗な青い瞳には、なにが映って見えるのだろうか。


「俺は何色に見える」


 そう尋ねると、うーんと考える仕草をして、『紫に近いとても綺麗な色』とリゼが答える。

『でも、奥に哀しそうな色も見える』とも。


 なるほどこれは、と。


「お前に隠し事は出来なそうだな」


 苦くそう言うと、リゼが首を傾げる。その仕草がリスのようで、シイナは口元だけで笑った。


「子供が姿を消す事件は知っているか?」


 気を取り直し、最初のリゼの問いに対する答えを告げるための質問を投げかける。

 リゼがゆっくりと頷く。


『だから私達は隣の国へ逃げようとした』


 シイナの中で一つ疑問が解けた。だから国境近くの村へ向かうバスに乗っていたのか。


「昔、お前を捕らえようとした奴らと同じ仲間が、この事件を起こしている。お前が持つその力を、人工的に作り出そうとしているんだろう。そして、それに俺の身内が大きく関わっているかもしれない」


 リゼの瞳が大きくなる。


「だから止めたい。これが、俺がお前を助ける理由だ」


 少しの間の後、大きく開かれたままのリゼの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。青い瞳からこぼれる雫が綺麗で、一瞬おいてから、ああ泣いているのかとシイナは思った。


『セラを助けて』


 涙で滲んだスケッチブックに書かれた見知らぬ名前。


「……お前の兄さんの名前か?」


 こくこくと必死に頷くリゼの頬を両手で包むと、堰を切ったように溢れ出てくる涙をぬぐう。初めてリゼが助けを求めた瞬間だった。

 シイナとのやり取りで、助けを求めても大丈夫な大人だと判断したのだろう。


「最初からそのつもりだから、安心しろ」


 シイナの言葉で、リゼの涙は益々止まらなくなった。


「分かった、分かったから――」


 困り果て、リゼの身体を引き寄せると、腕の中で背中をぽんぽんと優しく叩く。

 まるで子供のようだと思い、そういえばまだ子供だったと思い直す。言動が大人びているせいか、忘れそうになる。


 部屋が急に明るくなった。窓の外はいつの間にか夜の帳が下りている。


「……暗い部屋で何してるんですか、シイナさん」


 仕事から戻ったミクラスが、呆れた顔をして立っていた。


「ミクラス、助けてくれ」


 普段無表情のシイナが、心底困り果てた顔をして助けを求めてくる姿に、思わずミクラスは吹き出した。


「馬鹿ミクラス! シイナさんに失礼でしょう!」


 後ろからスパンと頭を叩かれ、ミクラスの身体が前につんのめる。


「やめてよ、シェリア。馬鹿力なんだから」

「はぁ? もう一回言ってみなさいよ」

「ちょ、待って待って。それよりあっちの解決が先でしょ」


 殴られまいと頭を抱え、飛び退ったミクラスの後ろから、赤いショートヘアーが現れる。


「こんばんは、シイナさん。お邪魔致します。それとリゼちゃん?」


 シェリアが歩み寄り、リゼの前で腰をかがめた。


「はじめまして。国家諜報員のシェリア・リオネスといいます」

「本当の名前、名乗っていいの?」


 今さっき本名で呼んだ人が何を言っているのかと内心思ったが、シェリアはぐっと堪えた。


「信じてもらうには、まず自分からさらけ出さないとでしょう」


 鼻をすすりながらリゼが顔を上げる。

 目が合うと、赤い瞳が優しく微笑んだ。

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