▼6▲ ‐残り一日‐
成一は桃園にふたたび足を運んでいた。正午過ぎ、日は高く雲はない。
今は壊れた自室ではなくて素直にみらいの屋敷で厄介になっている身ではあったが、一人でここにやって来た。木霊がうるさく声かける。
『いらっしゃーい!』
『またひとりですっ』
『さみしくなーい?』
「いやちっとも。心残りを消しに来ただけだから」
「心残りというと……これでしょうか?」
先日も出てきた姿ある木霊が花霞のなかから現れて、それを手に持っていた。
雛子に渡して、消えずに残されたマフラーを。
「きれいなものだ、汚れもない、ずっと放置していたのに」
「ここはおかしなところです、気にすることではありません」
「……おかしいってことは、認めるのか」
木霊はしかし表情は笑みのまま。以前に「満たされている」と言ったときもそうだった。
安らぎに包まれた心には、きっと全てが優しく映るのだろう。
成一は差し出されたマフラーを受け取って、
「ありがとう。そしてもう一つ、心残りがここにある」
「なんでしょう」
「前はきみに言いくるめられただろう、だからまた話をしたかったんだ」
成一は地面に腰を落としていく。あぐらをかき、花の舞う天を見て。
「……きれいだよな、本当に」
「そうでしょう。花は心を和ませますものね」
「俺もその価値を認めるよ。ここは正しく天仙が住まう桃源郷だ」
「ではあなたも?」
「そうじゃない。ここは人間の住めない場所だって、気付いたから」
傍らに立つ木霊に向けて視線をやる。
木霊はにこりと目を細めて隣に座る。
「ここには生き物が存在しない。鳥がいない。虫がいない。こんなに花が美しいはずなのに」
「いないわけではありません。あなたがいるからいないのです」
「だろうな。俺がここに入るといなくなる。理屈は分かる。サーペントは言っていた、ここはヒロインとプレーヤーが気兼ねなく二人きりになるために用意された場所だとな」
「ええそうです。邪魔するものが何もない」
「つまりは完全に閉じきった空間だ。端的に言えば……逃げ場だよ」
そのとき風が強く吹き、花が乱れて宙に散る。成一はそれに手を差し伸べて、掴んだが。
「逃げ場はいい。疲れを癒し、活力をみなぎらせてくれる。前に進むためには必要だ」
「はい。静けさは喧噪を、香しさは醜い浮き世を、それぞれ忘れさせる薬となり」
「そしてやがては生きる意味さえ麻痺させる、猛毒だ」
掴んだ花は手のひらから既に消えていた。木霊はなおも表情をやわらかく。
成一もまた声を荒げず、淡々と。
「水がなければ花は枯れる。だがあげすぎても腐ってしまう。この花には何が満ちている?」
「尽きることなき幸福が」
「なるほど悪魔が誘いたがる。魂を惹きつけるこれ以上ない楽園だ」
「私は悪魔ではありませんよ?」
「もちろんだ。誘いに乗った哀しきプレーヤー……そう責めることも俺はしない。俺だって、将来の夢も希望も具体的なビジョンも持ててはいない。先の見えない暗闇が怖いのは当然だ。いつか終わってしまうのなら、いつ終わっても構わない――そんな覚悟で生きていけるほど、達観だってしちゃいない。ここが万人の渇望する地平であることに違いはない。だから」
立ち上がる。そして座る木霊を振り返り、
「俺もいつか、ここの木になる日が来るだろう。でもそれは生きるのをやめていいと許された時だ、報われるかどうかは分からないけど、約束しちまったからな、死ぬまで努力してやると。最後の瞬間まで一緒にいられるように」
「つまりあなたは――逃げないと?」
「ときどきは振り返って思い出すよ、それくらいならいいはずだ。何事も付き合いかた次第、毒だって薬になるし、薬だって毒になる。きれいなものは尊いけど、汚いものも尊いさ」
「……。過ぎたるは及ばざるがごとし、ですか。私にはもう縁のない理ですね」
「だけどそれも、早いか遅いかでしかない。羨ましいのも本当だよ」
「ふふ、それでも進んで行くのですね。……祈ります、あなたの行く道に幸多からんことを」
木霊はにこりと穏やかにそう言って手を振った。
だから成一も笑みになり、
「じゃあ、また明日だ。今度こそ、新しい二人でやってくるよ」
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