番外編 ファーンとイーズ・アン


 早朝の寒さが、肌に突き刺さる。

 吹き抜ける風が耳をじんじんと撫で、土の上を歩けば、さくりさくりと霜の感触が足裏から伝わった。春は近くとも、まだまだ冬の気配が色濃い証拠だ。吐く息の白さに、ファーンは寒さの頑固さを思い知る。


「うう、さぶッ! 春が待ち遠しいなぁ」


 神殿への出勤。所用でいつもよりかなり早く家を出たファーンは、通勤路を歩きながらあくびを噛み殺しながら春の訪れを待ちわびた。

 今日の早朝出勤は、先日、無表情の先輩を探すために無理やり奪取した半休のツケである。先輩のレアな表情を目撃したことや、一緒に楽しくお茶をしたこともあって後悔は一欠けらもないが、こうも寒いと気が滅入る。


「第一、サボり魔のスノウさんがなんのお咎めなしっていうのが解せないんだよね……」


 不可解なことに、スノウは部門内の人間以外には異様なほど評判がいいのである。同じ日になんの連絡もなく消息を絶っていた上司の文句を入れつつも、神殿に到着。さて、神殿に入ってお仕事だと思った時だ。

 ばしゃ、っという水音がファーンの耳に響いた。

 神殿から塀を隔てた先にある修道院からだ。

 修道院の裏手には、小さな清流が流れている。日常的には農作業や生活用水のため、時折、儀礼行事で使うこともある重要な水源である。

 朝早くから水仕事とは大変だ、とファーンは眉根を寄せる。

 水汲みなどの下働きは、たいていタータよりも幼い修道女に課せられている労役だ。最近ちょっと仲良くなっている後輩の顔が浮かんだこともあり、せっかくだから水仕事を手伝おうとファーンは修道院の裏手に足を向ける。

 修道院の裏門から塀の中に入り、生い茂る木々を抜ける。あまりこっちのほうには来たことがなかったなと、職場の裏手にあるちょっとした自然に感心しながら小川に到着して、ファーンは我が目を疑った。

 ファーンが聞いたのは水仕事の音ではなかった。

 水に指先を付けることすらためらう寒々しい真冬にあって、一人の女性が小川に入って水浴びをしていたのだ。


「せん、ぱい……?」

「ファーンか」


 水浴びをしていたのは『聖女』と世間で呼ばれている職場の先輩、イーズ・アンである。

 珍しいことに修道帽も外し、白い薄手のシュミーズ一枚の姿で小川に半身浸かってずぶ濡れになっている。

 修道服ではない姿を初めて見たかもしれないと思いつつも、この寒空ではありえない姿を目撃したファーンはうろたえてしまう。


「な、なにを、してるんですか?」


 自然に近いこの小川は温水などではない。水面が凍り付かんばかりの、きんっきんの冷水だ。

 そこでイーズ・アンは着衣のまま沐浴をしているのだ。見ているだけで、ファーンの肌にぞわぞわと冷気が這い寄ってきそうな光景である。

 だがイーズ・アンは寒さなどに頓着した様子もなく、ばしゃりと右腕を上げて水しぶきを上げる。


「身を清めている」

「いや、そうこいうことを聞いたんじゃなくてですね……」


 水浴びをしているのは見ればわかる。ファーンが聞きたいのは、なぜこんな季節に沐浴などしているかだ。


「お風呂、ありますよね。修道院にも」


 今時、修道院にだってお風呂はある。集団生活なので大風呂になるだろうし風呂を沸かすのだって一仕事になるだろうが、時間さえ守れば温かいお湯で身を清めることが可能だ。体を洗いたいなら、お風呂が沸いている時間に入ればいいのだ。

 落ち着きを取り戻しつつあるファーンの問いに、イーズ・アンは淡々と返答する。


「沐浴は、清浄にて穢れを除く儀礼だ」


 こういう人だった。

 ファーンは深々と溜息をついて小川の傍にしゃがみ込む。

 ファーンの知識にある限り、なにかしらの神事に該当する日にちではない。聖職者である限り、無理をしてでも沐浴をしなければならない日というものはあるが、今日ではない。だというのに水浴びをしているイーズ・アンへ呆れた視線を向ける。


「はぁ……先輩って、もしかして毎朝ここで水浴びをしてるんですか?」

「当然だ」


 こんな修行じみた行為を日常でしているのならば、タータなどがイーズ・アンを神聖視するわけだと納得する。

 それに年単位の日常習慣だというのならば、わざわざ自分が体調を心配して口を挟むことではないだろう。ファーンは感心半分、呆れ半分でイーズ・アンと会話を交わす。


「ファーンも沐浴に来たのか?」

「洗礼祭の日以外は無理にしようとは思わないので、しません」

「そうか。強制はしない」

「はい。……寒くないんですか?」


 もしやこの人、肌から温感が消え去ってしまったのだろうか。こわごわ尋ねたファーンの問いに、至極あっさり当たり前だとイーズ・アンは口を開く。


「寒い」

「あ、ちゃんと寒いんですね」


 ちゃんと人間としての五感は機能していたらしい。昨日の公園であった異常な事態のこともあって、先輩の人間らしさになんとなくホッと息を吐く。


「だが、冷たかろうが水で清めるのが当然はっくちゅッ」


 なんだか、かわいらしいくしゃみが聞こえた。

 その音源に、ファーンは目を見張って、首を斜めにする。


「先輩。いま、くしゃみしました?」

「そんなはずはない。我が身がくちゅん」


 二度目だ。もはや疑いようもない。

 イーズ・アンのくしゃんみが意外なほどかわいいのはさておき、ファーンの胸に心配が募る。


「えっと……先輩が聖人認定を受けた後天の秘蹟って、この間、なくなりましたよね」

「そうだな。我が身は人の身に戻った。しかし、この身が信仰に捧げられているということに変わりはない」

「でも、その……」


 彼女が聖人たりえた秘蹟『神の泥』。

 詳しい経緯はファーンもよく知らないが、それが公園広場でやり取りをした時点でなくなっているのだ。

 つまり、今のイーズ・アンの体は人並みである。

 イーズ・アンはただでさえ細身で小柄なのだ。あっという間に体温を奪われてしまう。いままでは秘蹟の加護によって体調が崩れるようなことはなかったかもしれないが、それがなくなったままこれまで通りの超人的な生活をするわけにもいかないはずだ。

 改めて、ファーンはイーズ・アンを見る。

 もともと肌が白い女性だが、よく見れば無表情のまま顔面は白いを通り越して真っ青になっている。微細ながらも条件反射による全身の震えが始まっているのを見て取り、この寒さでありながらファーンの頬に冷や汗が流れる。


「いまの先輩って、真冬に冷水をかぶっていれば普通に体調不良になるんじゃないですか?」

「……」


 もはや命に関わっていそうな状態で、イーズ・アンは歯をカチカチ鳴らすほど震えながら、体温低下によりぎこちなくなった動作で頷いた。


「い、いち、り、ある」

「早く出てください!! すぐに!」


 寒さにやられてまともに口をきけなくなっている様子に、ファーンは躊躇いなく小川に飛びこんで、こんな時ですら無表情の先輩を引き上げた。






「ファーン……労役は、いいのか」

「いいんです。先輩は黙って世話を焼かれてください。今日の私は……いえ。先輩の体調が治るまで、私は先輩係です」

「そうか。……そうか」

「はい、そうです」


 ファーンは枕元で、じいっとイーズ・アンを監視していた。

 小川から出て体を拭いて温めたことで幸いにも軽度の低体温症から脱したものの、すぐに高熱が出始めたのだ。それにも関わらず、なんの迷いなく礼拝堂に行こうとしたイーズ・アンに、ファーンは静かな怒りを燃やしていた。

 人の命を預かるシスターの職務として、病身を軽視する行動は見過ごせない。

 『|汝、その身を示せ(すてーたすえつらん)』の聖句を唱えるまでもなく、いまのイーズ・アンは寝床で休むべき病人だ。

 清貧の度が過ぎて机や椅子どころか寝台や毛布すらないというイーズ・アンの部屋の様子に怒りを爆発させた後であるというのも、ファーンの監視が厳しくなっている原因の一つである。

 いまはファーンが諸々の手配を済ませ、イーズ・アンをやわらかく温かい布団に放り込んでくるませるという一仕事もやり終えた後である。

 ファーンが看護される以外の動きを一切許さぬ監視をしていると、部屋の扉がノックされた。


「失礼します、ファーンさん。お食事をお持ちしました!」

「ありがとう、タータちゃん。ごめんね。面倒をかけちゃって!」

「いえ、お二人のためならこんなこと、なんでもありません!」


 仕事の合間に作ってくれたタータから受け取ったパンとシチューを膝の上に置き、ファーンは問いかける。


「先輩、食欲はありますか?」

「…………食欲、か」

「あ、り、ま、す、か?」

「……ある」

「じゃあ、どうぞ」

「……んむ」


 ファーンがすくって差し出したシチューを、イーズ・アンは小さな口を開けて受け止める。

 シチューの具をゆっくりと味わって食み、ホワイトクリームと一緒にごくりと嚥下する。


「おいしい」

「よかったです。タータちゃんたちも喜びますよ」

「そうか。……ファーンは、どうだ?」

「私ですか?」


 二口目を差し出しながら、かわいい質問をしてきた先輩にファーンは微笑みかける。


「先輩が元気になってくれたら、私も嬉しいです」

「そうか」


 二口目を咀嚼したイーズ・アンは熱で上気した顔をファーンに向けて、一言。


「ならば、私もはくちゅっ」

「あはっ」


 三度目のくしゃみに、ファーンは思わず吹き出してしまう。

 不謹慎ではあるが、いつもとのギャップが心をくすぐるのだ。仕事では患者の仕草に笑うなど御法度だが、親しい人の看護ならば許される範囲だろうと笑みを噛み殺しながら自分の感情を肯定する。


「かわいいですね、先輩は」

「……そうか?」

「ふふっ、そうですよ」


 こういう日も、悪くない。

 ファーンは上機嫌に、その日を愛すべき隣人たる先輩の看護に捧げてまっとうした。

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