ただの少女の全肯定

 泣き疲れた少女が目を開けると、そこは荒野だった。

 人民もなく、王城もなく、町も村もなく、財宝もない虚しい荒野の国。

 そんな世界にたった一つある処刑台の前には、一人の男の死体をなんとか下ろそうとしている女性がいた。


「む」


 どうにか吊らされている伝令官の死体に手が届かないかとぴょんぴょんと跳ねていた女性は、少女の視線に気がついて動きを止めた。

 ぱっぱと服を叩いて身支度をし、こほんと咳払い。腰元まで伸びた長髪をふさぁっとかき上げる。


「久しいな、娘よ」


 人の耳をくすぐる、ささやくようなウィスパーボイス。隠すことなく風になびかせいる紫の長髪を見れば、彼女の正体は明確だ。

 なにより少女は一度、女性の姿を見たことがある。


「……おかあさん」


 呼びかけつつ、少女は思わず自分の髪色を確認する。女性と違い、色が抜けた銀髪だ。自分の玉音がなくなっているのは確かだと、安堵に肩の力を抜く。


「えと、なにをやってるの?」

「こいつを引き取りに来た。いらんだろう、別に」

「いらないけど……」

「うむ。よろしい」


 少女の答えを聞いて、女性は快活に笑う。

 そうして伝令官の遺体に視線を戻した女性の視線には、複雑な感情が込められていた。


「誰よりも愚かだったとはいえ、こやつも、私の忠実な臣下であったことは確かだからな」


 少女には、なんと言えばいいのかわからなかった。

 女性も人の答えなど求めていなかったのだろう。

 ジャンプしても届かないということは悟ったのか。女性は吊るされた伝令官をじっと見上げて、どうやって死体を下ろそうかと頭を悩ませている。


「……玉音で降ろせば?」

「違う代の皇国で玉音を振るうのは礼を失する……なんとか、頑張る」

「そうなの? ……こっちだと、玉音の使い分けができるの?」

「ああ。当たり前だが、神秘領域にある我らがハーバリア皇国は現世とは法則が根本的に違う。理想を叶えた国家であり、現世での不可能も実現している」


 知らなかった事実に、ちょっと驚く。

 常世の皇国にも、なにがしかのルールがあるらしい。


「娘よ。お前の皇国は、いま終わる」

「……うん」


 ただただ荒野が広がる世界。幼い皇帝だった少女の罪悪感でできた常世の国は、民衆に許されることで存在する意味を失った。

 玉音も失った少女はもう二度と、ここに来ることはできない。少女の代の治世の象徴であった処刑台と伝令官の死体も、女性が持ち去ろうとしている。

 いまも意識だけが、自分の国の最後を見届けているにすぎない。


「他の代の皇国に、影響があったり、する?」

「まさか」


 少女の心配など無用だと、女性は鼻を鳴らす。


「我らが歴代皇帝の皇国は不滅にして永遠にあり続ける。現世とのつながりがなくなろうとも、神秘領域に刻まれた不文律は変わらぬさ。歴史というものは、『あった』ことなのだ」

「そっか」


 ほっと安堵の息を吐く。

 そんな反応はよそに、女性はいいことを思いついたと少女を手招きする。なんだろうと近づいて見れば、肩車をしようというジェスチャーをされた。しかも小さい方である少女が担ぐ側だ。近接魔術が使えるからいいが、いまいち納得できないとぶすっとした顔で女性を担ぐ。


「しかし、悪かったな」

「……肩車させてること?」

「私の愚かさが、お前にまで及んだ」


 少女に肩車をされた女性は、伝令官を吊るしている縄の結び目を解きながら謝罪をする。


「本当ならば、私の代で全てをおわらせなければならなかったのにな」

「……ううん。そうじゃないよ」


 縄が、解かれた。

 どさり、と処刑台から解放された伝令官の死体が地に落ちる。

 その死体を視界に収めながら少女は首を横に振る。

 あの時代の責を被害者に求めるのは酷だ。殺されてしまった彼女の責任ではない。

 誰かを排除することで問題を解決しようという思いつきこそが、そもそも愚かなのだ。

 実際、伝令官を殺したところで、彼女の人生は開けたりしなかった。

 だからこそ、少女は国も身分も関係なく、世界にいるあらゆる母親が行った偉業のお礼を告げる


「私を生んでくれてありがとう、お母さん」


 少女を生んだ女性は、虚をつかれたように目を見張る。次いで、嬉しくてたまらないと笑みをこぼす。


「嬉しいことを言ってくれるな」


 少女の肩から降りた女性は、自分の子供の頭をくしゃくしゃと撫でる。玉音を持っている者同士、現世では決してすることができない交流だ。

 ひとしきり少女の頭を撫でた女性は、ためらいなく伝令官の死体を担いで少女に向き直った。


「さて、娘よ」

「なに?」

「皇帝たる資格を失ったお前は、もうここに来ることはできない」


 無言で、こくりと頷く。

 そのことに後悔はない。自分を玉音から解放してくれた想いの全てに少女は感謝している。


「そしてお前が最初に『|皇国よ、永遠なれ(ユークロニア)』を唱えた時に執り行った常世での戴冠式の時、私はお前に伝え忘れたことがある」

「そ、そうなの……?」

「うむ。あの時は色々と例外だったから、許せ」

「まあ、別にいいけど……」


 薄々察してたが、この女性、神秘的な美しさとは裏腹にうっかり屋さんのぽんこつなのではと少女は訝しんだ。

 娘からそんなことを思われているとは知らず、女性は続ける。


「お前の名前だ」

「フーユラシアート四世、は?」

「それは私が持って行かせてもらう。娘よ。史実に残るのは、私なのだよ」


 本当のフーユラシアート四世は得意げに笑う。

 皇国の最後に愚王と記されることだけが、現世で死んだ自分にできる責任の取り方だと笑う。


「玉音を持つ私たちは、生まれながらに顔を合わせることができない」

「……うん」

「だから、玉音同士の衝突が起こらないここで初めて、親としての言葉を贈れる」


 女性は、ちょっと不安そうに少女の目を見る。


「親として、これから現世で人生をまっとうするお前の名前を贈らせてくれ」


 否と答えるはずもない。ぜひにと答えると、女性は顔を輝かせる。

 母から娘へ。

 崩れる世界の中で、少女は母親から名前を受け取った。






 少女が目を覚ますと、そこは見知らぬ天井だった。

 どうやら自分は、先天の秘蹟を失った反動で眠っていたらしい。ここはどこだろうという疑問の答えを得る前に、そばにいた人物の声が耳に入る。


「姉さま!」


 少女の覚醒に真っ先に反応したのは、かわいい妹であるイチキだった。


「お気づきなりましたか! あの後、姉さまが意識を落としてしまって、レンさまが屋敷から神殿の治療院に運んでくださいました。いまの姉さまなら、ここでも大丈夫ございますから」


 少女が起き上がるよりも早く手を握り、かいがいしく背中に手を添えて上半身を起こす補助をする。できた妹である。

 イチキの声を聞いたのか、廊下にいたらしい勤務シスターであるファーンがひょいと顔を出す。


「あ、奴隷少女ちゃん、起きたの? レン君ー! 奴隷少女ちゃん、起きたよー? あ、奴隷少女ちゃん。一応検査させてね。お邪魔しますよーと」


 診察のためにファーンが入る。なぜか廊下に待機していた人が大勢いたらしく、ファーンに続いてぞろぞろと病室に入ってくる。


「ファーン。この少女はファーンの知り合いなのか? 親しいのか?」

「ふーん、こいつが、例の公園広場の……イチキのお姉さんで、レンの、ねえ」

「おい、ミュリナ。その敵意の視線はなんだ。そもそも『こいつ』などという呼び方は失礼だぞ」

「スノウに賛成するのは癪だけどさ。ミュリナごときが、お方さまに対して不遜!」

「リンリー……? 前もそうだったけど、リンリーはなんでこの人の前だと態度が変になるの……?」


 イチキ、ファーン、イーズ・アン、ミュリナ、スノウ、リンリー、タータ、そして。


「ごめんなさい、ちょっと知り合いと会って話し込んでた……!


 ――いま、ファーンに呼ばれて慌てて駆けつけて来た少年、レン。


「おはよう。よかった、無事に目を覚まして」


 少女がよく知っている人、お客さんとして知っている人、ぜんぜん知らない人。自分を助けるために手を尽くしてくれた少年がつなげた人たちが、自分の病室に集まっている。


「調子は、どう?」

「えと、あのね」


 レンの問いかけに、なんだか胸がドキドキする。

 自分の声に、みんなの視線が集まる。玉音はもうないんだと、改めて自覚する。注目されている。ただの声で、対価も受け取っていないのに、自分の言葉に答える気で聞いてくれる。

 すうはあと息を吸って、吐いて、心臓を落ち着かせる。

 もう彼女を抑制する首輪はない。少女の髪は銀色で、どんな声を出したって誰かに何かを強制させることはない。

 誰とでも、お話ができるのだ。

 だからこそ会話の前に、まずは自分のことをきちんと呼んでもらう必要がある。

 『姉さま』『この少女』『こいつ』『お方さま』『この人』『奴隷少女ちゃん』。

 そんな代名詞ではなく、少女は母親から少女のための名前を祝福とともに受け取った。


「まず、聞いて欲しいの」


 これからの輝かしい未来を記念する一番目の会話をするために。


「まだみんなが知らない、私の名前はね――」


 素朴な笑みを浮かべた少女は、自分を知ってもらうための大切な第一歩を踏み出した。

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