ミルシナ・ペリオン
ハーバリアが皇国だった時代、ミルシナ・ぺリオンという少女がいた。
彼女は裕福な家庭に生まれ、なに不自由なく健やかに成長した。『皇国最悪の十年』と言われた末期ですら飢えとは無縁に過ごし、知人や家族の理不尽な喪失を経験しなかった。
そんな彼女は、炊き出しに参加したことがある。
国の末期と囁かれながらも、まだ皇国が国家として運営を続けていた時代。不況が吹き荒れる中でも彼女の家は傾く気配もなく、裕福な資産からの慈善事業だった。
正義感の強かったミルシナは、自ら立候補して出資者の関係者として参加した。
父にとって慈善事業など世間体を保つための投資と税金対策の一環でしかないということぐらいは彼女にも理解できた。
ただ、まだ当時の彼女は若かった。正義と潔癖さを分離させることもなく同居させている小娘だったミルシナは、父の思惑なんて知ったことかと、はりきって炊き出し要員の一人として動き回っていた。
そこで、同い年くらいの少女を見かけた。
見るからに痩せていて、服もぼろぼろの繕いだらけで、困窮しているのは一目で明らかだった。今日の食事に事欠き、明日の着替えにも困るだろう少女が遠巻きに公園で行われる炊き出しを眺めていた。
少女の様子に憐れみを覚えたミルシナは、彼女に近づいて、こう言った。
『炊き出しに、参加しませんか』
愚かにも、ミルシナは同情たっぷりな口調で貧しい少女に提案したのだ。
少女は素早くミルシナの上から下まで視線を走らせた。
頭髪は枝毛一つなく櫛づかれており、いかにも飢えたことなんて一度もないという肌艶のよさで、靴までピカピカに磨かれほつれどころかシワまで伸ばされた綺麗な服を着ている。
それが、その時のミルシナだった。
貧しい少女は、富める少女に嫌悪の視線を向けて一言だけ吐き捨てた。
『偽善者』
声を失うミルシナを置きざりに、少女は踵を返して路地の裏に消えた。
貧しい少女の罵倒は、明らかに八つ当たりだった。周囲の人は気の毒そうに、茫然と立ち尽くすミルシナに声をかけて慰めた。あなたは悪くない。ああいう人もいる。僻みなんて嫌よね。口々にそう言って励ました。
ミルシナ自身はといえば、顔から火が出るほどの恥ずかしさに震えていた。
少女の蔑視を受けて、彼女は自分の中にある善意の正体に気がついたのだ。
ミルシナは、その子に「あげる」ために近づいていた。自分が失っても痛くもかゆくもないものを「あげる」ことで、心の満足を得ることが、ミルシナにとっての善行だったのだ。
『愚かなことをしたね、ミルシナ』
後日、事情を知った父親だけはミルシナを叱責した。
『覚えておきなさい。富でもって善行を行なっていいのは、その行いを偽善だと承知しているものだけだよ。裕福に生まれた私たちは、どうあがいたって根っこからの善人にはなれないのだからね』
ミルシナの父が惜しみなく慈善事業を行なっていた最大の理由は、税金対策でもなければ投資でもない。
国の末期である不況時代にあって、大衆の恨みを買わないための振る舞いであり、民衆にとって必要な存在となることで自分の家族を守るためだった。
『慈善事業というのは、上位者が下位の人間に与える行いだということを自覚しなさい。自分の生まれが社会の上流であるということすら認識せず生きれば、お前は無意味に他人に失望することになるし、無実でも他人から攻撃されることになる』
世間知らずのミルシナに噛んで含める口ぶりで父は言い聞かせた。
叱責から続いた市長である父親の言葉は、きっと彼が思っていた以上にミルシナの人生に影響を与えた。
蒙(もう)が開かれたと言ってもいいほどに、ミルシナの世界を見る目が変わった。
救われることを望まない人もいる。
与えられることを嫌悪する人もいる。
くだらないことだと思うだろう。些細なことだと笑うだろう。無駄なプライドだと呆れるだろう。困窮している分際で、なにを言っているのだと怒られることすらあるだろう。
それでも、いるのだ。
同じであるはずの人間から施されることが許せない人間というのは、必ず存在する。
だって、人間は平等に生まれてくるはずなのだ。
同じ人間同士なのに、施す側と受け取る側が生まれるのなんて許せない。自分が受け取るという下位に堕ちたことなど認められない。人と人の間にある不平等を許すこともできないという念に囚われ、理想と現実の狭間で苦しみ続けてしまう。
倫理の発展した社会にあって、それは顕著だ。
平等という概念は、自らの尊厳を抱えたまま餓死を選ぶ人が出るほどに発展した。
だからミルシナは、皇国の終わりとともに生家を捨てて神殿に入った。
上位者であることを捨てたくて、ファーンという洗礼名を受け取った。
神という絶対の上位者を前にすれば、人はすべて平等に下等となる。
ミルシナという名前だった少女が、ファーンという修道女になった一番大きな理由は、自分が恵まれているからだった。神から与えられるという建前さえあれば、人が施しを受け取る抵抗感を薄めることができる。自分は神のしもべだという立場を得ることでようやく、人は平等な立場で人を助けることができるのだ。
でも、いまだにわからない。
自分が人を救いたいという気持ちが、どこから生まれているのか。
恵まれている余裕からなのか。施せるだけの立場にいるからなのか。生まれ持った気質なのか。
どうしても、わからないのだ。
人を本当に助けるには、どうすればいいのか。
人を本当に助けるというのは、どういうことなのか。
神殿の治療行為で人を助け、人を助けることができたと神に感謝の祈りを捧げている時に、ふと思い浮かぶことがある。
もし、あの時に自分が声をかけなければ、あの少女は炊き出しで食料を受け取ることができたのはないだろうか。
自分がなにもしないほうが、よい結果になったのかもしれないという経験は、あまりにも根強くファーンの心に絡みついている。
ファーンは信仰と祈りを続けながらも、ずっと、ミルシナだった時の愚かさと迷いを胸に抱え続けているのだ。
「先輩自身のことを、まずは信じることから始めてみてください」
「我が身、を……信じ、る?」
そして、修道女となって出会った先輩と語らっているいまも、また。
「ファーン」
偽善と知っていたはずの彼女の行いが、一つの破滅を生んだ。
「それは……不可能だ」
ぴしり、と何かがひび割れる小さな音が響いた。
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