イチキ+リンリーVSイーズ・アン 後編
極小の惑星儀があった。
真白の真珠に、細い針でこの星の地形を彫り込んだものだ。この真珠惑星の表面には魔術により距離がつくられており、内部の世界には幻術によって仮想人格がつくられている。
それが、イチキを中心軸として自転と公転をしている。
自他ともに天才と認められるイチキが歴史を構築した擬似惑星は、外部の神秘領域から遮断されている。中に閉じ込められている人物は、秘蹟は疎か、魔術すら使えない。彼女の姉の秘奥『皇国よ、永遠なれユークロニア』を限定的にであれ再現してみせたのが、『天地修復の理』の結界術だ。
そこから脱出する方法は一つ。
結界世界にある根幹の謎を解く以外に方法はない。イチキは世界結界をたった一つの起点でもって構築している。その起点を理解し、解読しなければ解くことのできないグリムワールドが、極小の惑星儀の仕組みだ。
ほころびもなく、円環に閉じている隔離結界。完全な世界の似姿を作り上げながらも、イチキは自分が全能の神でないことを知っている。
彼女自身が自覚している自意識が、つくり上げた世界を不完全なものとしている。世界の根幹を紐解かれることで結界は破られる。
「……」
イチキは無言で目の前の結界を見つめる。
学術は、神秘に通じる。
観測の積み重ねは、世界の組成を知ることにつながるからだ。
数学も、物理学も、化学も、心理学も、考古学も、その他あらゆる学問が神秘の最果てに通じている。この世の学者のすべてが、創世神話に恋い焦がれている。世界の成り立ちを知りたいという原初の思いは同じながらも、最初の方法で袂を分って分離したのが、宗教と学術の差だ。
だからこそ真の神性をイチキが得られるはずがない。
イチキは魔術師であり、秘蹟使いではない。イチキが操るものは観測されて解明された魔術であり、必ず客観的な論証と再現性が求められる。
ひるがえって『奇跡』とは、二度と再現できない魔術である。
その多くは、発生にあまりにも膨大な規模を必要とすることから生まれる。聖人の成り立ちに「国家の滅亡とともに生まれる」という学術的な推論が打ち立てられていても彼らの力が『奇跡』とされるのは、再現ができないからに他ならない。
国家という事象に同一なものはないからだ。
国の歴史という、同一のものが存在しない巨大な流れが一つの力となって個人に宿ってしまった魔術が『奇跡』の正体だ。奇跡の持ち主とは、まさしく歴史そのものである。
だからイチキは、結界の中に仮想人格を生成し、統一された歴史をつくった。イーズ・アンを閉じ込めた魔術は、二つとないはずの歴史を再構築せしめた絶技だ。
女禍とは何者であるか。
いまこの世界でイチキしか解明していない神秘をはがさなければ、この結界は破れない。
結界内部の年月は、極小の惑星の自転と公転に従っている。この内部の体感時間は一分が一年に等しい。本来ならば謎を解く前に精神を疲弊させる狙いがあった。
だが、十分と保たずして、白い星がひび割れていく。
「まさか……」
解けるのか。
この結界の核となったのは、あるいは、人の生涯をかけても解けないはずの命題だ。
まだ、なんの本にも記されていない史実をイチキが見つけ出して、魔術に落とし込んだ。学問となる前の神秘領域を、確固たる物証とともに見つけ出した人間だけが、その知恵を己のものと占有している間だけ取り扱える学術神秘。たった一人がたった一つの真実を知っているという、まさしく神の領域に近い最先端に立つことではじめて成立する、知恵の系統樹の頂点だ。
神秘の立ち入る隙のない学問の最高峰に、学徒ですらない聖職者がたどり着くのか。
ありえないと言いたかった。まさかと口から漏れだした。
そのまさかに、たどり着こうとしていた。
「……ッ」
イチキが、奥歯を嚙みしめる。止められない。ルールをつくったのは自分だ。イチキは世界を維持することしかできない。イチキですら、一度作り上げて発動した結界の内部には干渉できないのだ。
結界の中に閉じ込められ、秘蹟を使えなくなったイーズ・アンは世界を放浪していた。
人に問い、歴史を探す。そうしてイチキが触れた世界の真理の一端を解明していく。
まさしく、学者の在り方だ。
せめて、あと十分。
レンと姉とのやり取りが、すべてが終わるまで保てばいい。自分の術の敗北を悟りつつあるイチキは、皮肉なことに祈るほかできることがなかった。
だが、無情にも時は来た。
真珠が、砕け散った。
修復した世界が砕け散る。
「閉じ込める前に、邪教の使徒の名前を知られたのは失策であったな」
「……それは、些細なことです」
神の名前を知っただけで、神性の解明に至れるものではない。
なにせ、女禍の正体は、いまだ世界に知られていないのだ。
「知っていたのですね、女禍の来歴を」
「当然だ。女禍とは東方にて人類を創ったとかたられる物語である、人を生まれながらに差別した、あまりにも人間らしいものだ」
ハーバリアのみならず、大陸西方ではまったく馴染みのない多神教の高位神『女禍』だが、彼女の伝説は東方の神記に述べられている。イーズ・アンは当然のように異国の神記を読み込んでいた。
『女禍』は人類を生み出した女神だ。彼女が丁寧に作った泥人形が貴人であり、貴人を造る際に飛沫で散った欠片が平民となった。それが東方神話の人類創成の礎となっている。
「この人類創造の神話は『生まれながらに人には差がある』という裏付けをつくる、政治的要素が垣間見える。階級の差は人がつくったものではなく、神が示したものだという理屈を振りかざすための恣意的な意思。この一点からも、女禍が全知は愚か全能より遠いものであることは明白だ」
聖人を打ち倒す方法が信仰を揺らがせることであるように、神秘を紐解くのは論理だ。
論理で神秘をつくる時に、構造を理解されれば神秘は崩れて消える。
だからこそイーズ・アンは、異教の神秘を打ち崩す論理を身につけている。
「女禍という存在に注視すべくは、彼女が天地創造の一柱ではなく、天地修復の一柱であると伝承されることだ」
世界を支える柱が傾いた時、五色の石を錬金して天地を修復した。
つまるところ、女禍が生まれる前に、すでに世界はあった。存在する世界に生まれた神話の一柱が女禍だ。
「また、異なる書物には天地修復の伝説にこう記された。『世界を滅ぼす大洪水のおり、瓢箪船により生き延びた兄妹の片割れの名を女禍という』と。その書物において、女禍は農業神として奉られる」
天地修復の神と、農業神。まるで異なるように見えるこの二つには、共通する点がある。
元から存在していた大地で人が生きる世界を生んだ、という交点だ。
「伝承とは功績の伝聞。農耕神という側面からにみるに、女禍に開拓の功績があるのは明白だ。開拓者とは、土地の始祖である称号に他ならない」
農耕地とは、人の糧になる重要な拠点だ。雨風をしのぐ屋台骨を整え、氾濫する大河を堰で食い止め、作物が芽吹くまで地を耕した。自然を開拓して人が安定して生活できる地をつくり上げたという功績は、古代では『天地を修復した』と称えられるほどの功績になる。
「また大陸東方は、いささか過剰なまでに血縁を重視する。その風習と女禍は無関係ではあるまい。開拓者が権力者となり一族を起こすことは道理だ。彼女は自分の産んだ子に、生まれながらの優劣をつけた。いわゆる、長子を主家として、次男以降を分家として従わせ、あるいは他家へと縁戚を結ばせる家督の制度。それが『丁寧に作った泥人形が貴人であり、貴人を造る際に飛沫で散った欠片が平民となった』という作り話の原点だ」
人の歴史を神話にした。先祖を奉りことで一族を結束させ、権威を強める手法だ。
信仰を造る際に、実在の人物を利用するのは常道だ。なぜならば、古代は理解でないものにありふれていた。神秘を祭り上げるのならば、存在しない神よりもそちらの方がよほど手っ取り早い。
「以上から導き出されるのは、『女禍』なるは、水害により流された地を開墾した祖の一人であるという事実だ」
イーズ・アンの言葉が神秘をほどいていく。神下ろしによって、まだイチキが纏っている神性を論理にて剥ぎ取ろうとする。
だが、いま程度の推論は誰でもできる。
本を読めば得られる程度の知識でイチキの結界は解けない。推論が正解であっても、客観的な証明ができる実物がなければ神秘性は崩壊しない。
「……物証は、どうやって発見しました?」
あらゆる論文は、推測だけでは証明にならない。歴史の証明は裏付けとなる書物、遺跡の発掘でもってはじめて実証される。
イチキは、自力で発見した遺跡を核にして『天地修復の理』の結界をつくった。
あの結界のなかで、その祭具を発見して認識することが脱出する条件だ。
だが、あの仮想世界の面積は現実世界とほぼ同等だ。秘蹟を使えなくなった人間が、内部時間の十年程度で発見できるはずがない。
それこそ、内部に入ってすぐに、結界の核になる遺跡の場所にあたりをつけなければ不可能だ。
「百年あっても、足りないはずです。それに木簡や羊皮紙、口伝の可能性だって否定はできないはずでございましょうに、なぜ」
「この結界は、汝が発動したという時点で大きな気づきを与えている。知恵の家系から生まれた汝が、家系を放逐された後に見つけた。ならば結界の核は古文書の類ではなく、動かしようもない遺跡だ」
はっ、と息を呑む。
イーズ・アンは自分を閉じ込める結界をつくったイチキが見つけた神秘が核になっているという観点から、どうやってイチキが見つけることができたのかという逆算で答えを叩き出しのだ。
もしも古文書の類が残っているのならば、イチキやリンリーの生家である知恵の家系に収集されている。すでに知られている知識では学術神秘に至れない。
「戦乱と焼き討ちが多い東部で野晒しにされながら古代より続く物語が残るとするのならば、石に刻み入り口を封じて隠すより他ない。東部の大規模な石碑となれば、もっとも有力なるは、交易路の途上にある石山を掘り抜いた岩窟郡にある遺跡であろう」
イーズ・アンは結界の世界で、東方文明の中でもまだ注目度が薄い岩窟群に向かった。無数の一つ一つ岩窟を確認した。
「それがあるという証明は、さきほどの結界が存在しているという事実が証明している。ならば迷いはいらない。『女禍』の神話で統一した神秘結界を学者の汝が作りあげたというならば、そのものの正体の明らかにするものが『ある』のだ。あとは歩き、探すだけだ」
数々の宗教画、彫像が並ぶ異国の文化。その途中の入り口脇で、わずかに、色が違う壁を発見。これは後から塗り固められた跡だと叩くと、壁が崩れた先には、巨大な空洞が広がっていた。
天井の頂点から連綿とつづられた、家系図。彩色豊かに描かれた人の絵姿と、金箔で飾った人名がつづられて、系統樹として血族が広がる様子がつづられている。
その頂点にある名前は『女禍』だった。
この世界で、イチキしか知らなかった、確かな歴史的事実だ。
魔術は知識と知恵の格差で、決して届かぬ高みに昇れる。種も仕掛けもあるトリックとて、知らない人には神秘足りえるという知恵の差を利用した学術神秘だ。
だからこそ、知っている相手では対処される。
観測されてしまえば、神秘は神秘足りえない。神ではなければ、世界は作れない。相手の意識を利用して閉じ込める結界を支える柱が崩された。
「汝が学術神秘を得た時点で、女禍なるは神たりえない存在だと吹聴している。せいぜいが祖霊信仰がもとの『まじない』の元凶。国を始めた最初の一人という『ただの人』でしかない」
イーズ・アンの論証に、イチキが纏っていた神性が完全にはがされた。
自分を強化していた力が一気に吹き飛ばされた虚脱感に、イチキは膝をつく。汗を吸った衣服が肌にへばりついて、重く感じる。
神秘を紐解いた相手に対して、神秘は神性足りえない。イーズ・アンの目がある限り、イチキは再び神性を纏うことはできない。
繕っていた神秘が看破され言葉通り『ただの人』の戻ったのだ。
「あなたさまは、本当に……」
術が解かれた反動に苦しみながらも、イチキは声を振り絞る。
イーズ・アンの答えはイチキが学術的な神降ろしを術として構築するために得た見解と、同じだ。
書物より歴史を紐解き、考察をもとに遺跡を探し、土に埋まった遺物の発掘により証明を掲げて、真実か否かの討論と検証を続ける。
秘蹟使いにあるまじき、論理をもとにした神性破壊。本来ならば、イチキがイーズ・アンに対してしなければならない攻撃だ。
「わたくしなどより、よほど優秀な学者にも、なれたでしょうに」
「戯れるな、魔術師。学問は、しょせんいつかは行き止まる思考遊戯でしかない。人が再現できる程度の現象を積み重ねようとも、神の領域にたどり着くのは不可能だ」
イチキと同じほどに学術的な思考ができながらも、イーズ・アンの身に宿るのは純然たる神秘のみだ。
現実の理論を知りながらも、かくあるべしの秘蹟使いであることを可能とする信仰の根幹は、ただ一つ。
「我らが神に、終わりも始まりもない」
人格的唯一神とは無限であって、この世界は神の内なるちっぽけな有限でしかない。
この世のすべては神であり、この世の総量を足したところで全なる神に及ぶことはない。すべては神によって構成されているのだから、物質的に考えても神は全知全能なのだ。
物質構成要素のすべてという証明不可能な存在が、イーズ・アンを支えている。
「唯一神である我らが主に、あらゆる疑念は通らない。神の恣意すら宿らぬ、ちっぽけな一片が、我らが神たる世界がゆえに」
人類が終末まで至れぬブラックボックスこそが、一神教の神話だ。
神秘を盾に論理を放棄した彼女を論破することは不可能である。まだ学術が至っていないのだから、議論の俎上にすら上がれない。
「異教の教えは未熟ゆえに異教だ。現人神を頂点とすることで長じた階級社会において、多神教において発した分業思想において、あるいは自然現象を解釈するための精霊信仰において、彼らは彼ら自身で争い、憎しみ、殺し合うからだ」
多くの多神教に置いて、神には感情がある。人を愛し、贔屓にて英雄を生み、子と親が争い、果ては死と生の概念に囚われている。
人と変わらぬ彼らに、神秘はほほ笑まない。
事象に神を押し込めたに過ぎない偶像は、学術の発展によって神秘を剥がされた。
翻って、唯一神は並ぶ者なき絶対的な超越者だ。人格を説明しないことで、圧倒的な神秘性を保持し続けている。
一神教は決して滅びない。人間が解明できないすべては、神秘領域に存在する。決して人の届かぬ彼方がある限り、解明できない事象の果てがある限り、一神教は滅びないのだ。
それが世界の根源であるのならば、なおさらだ。
「人間社会の延長にすぎない神話は、役割による公平、公正、分配の思考を生んでも、絶対的な平等という概念は生まなかった。現人神を頂点とすることで生まれた共産思想の果てに至っては、なにが起こったか。よもや知らぬはずはなかろう」
神に等しき絶対的君主による人民統制。
それに失敗したのが、ハーバリア皇国の末期だった。
せめて少しでも時間を稼ごうと、イチキは顔をあげて反論する。
「確かに、社会の発展は失敗の繰り返しであり、不完全に構築されたシステムの崩壊の度に多くの犠牲を生みました。なれどあなた様は、歴史の生んだ人権意識を否定するのですか? 人が増え、余剰が増すことで、人が人であるために弱き人々が掴み、啓いていった善行が確かにあるのです!」
「歴史を否定はしない。しかし本質的には後天性に過ぎない啓蒙は、いくら啓こうともいつか必ず人によって裏切られる。人が生んだものは、物質的なものであれ精神的なものであれ、いつか必ず瓦解する。人の思想など、砂の城よりも脆弱であることを、まずは自覚しなくてはならない」
「いつか、未来に、いずれか。そうして枕詞を使うあなた様は常に、いまと過去を受け止めておりません」
イチキは鋭く切り返す。
「人は失敗する生き物です。ですが、それを乗り越えて正しさを生みますっ。間違えようとも、世界は発展を続けているではありませんか! 例え血塗られた十年の戦争を繰り広げようとも、血をにじませて勝ち取る百年の平和こそが、人類の賢さです!!」
「成功、失敗という呼び名は、人によって都合のいい事象の判断でしかない。平和に置いても人は死ぬ。武器を持たずとも、人はあらゆる手法で人を殺す。直接的手法を間接的手法に置き換えるのは、武器の発展が剣から弓へと発展していったこととなんら変わりない」
「なぜ、そこまで人の善性を認めようとなさらないのですか!? 失敗はあれど、成功の輝かしさに嘘はありません!」
「都合のいい事象を成功と言い、都合の悪いことを失敗というのが傲慢なのだ。現象の結果に成否はない。驕るな。成功と失敗という区分けに囚われる限り、どのような時と場所であれ、人は必ず誰かが失敗する生き物となる。誰しもが成功するというのならば、そも、人は群れなど作りはしない。社会とは一人が成功するために百人が死ぬことを隠すために存在することを知らぬわけではあるまい」
「納得いきませんっ。絶対の正義がないと知って、なぜあなたは神典を絶対と奉ずるのでございますか!?」
「人類社会が歩を進め続ければ、人は人によって滅びる。必ずだ」
議論の余地がないと言わんばかりの断定だった。
未来が破滅である理由を、イーズ・アンは無表情のまま告げる。
「なぜならば、人は最終的に、他人と信じ合うことができない」
空恐ろしいほど空虚で、凍えるほどの冷気が詰まった台詞が放たれた。
イーズ・アンの語る内容は、結論こそ極端でありながら骨子が揺るがない。論理を支えている中核は多面的であり、同時にあまりにも体験的だ。
こうして話して、イチキはひしひしと感じざるをえない。
イーズ・アンは、人と人とが分かり合うことなどできないと、信じている。
「人は与えられるものを無造作に受け取り、奪われることを無意味に恐れる。与えられればより欲し、自ら動き始めたにも関わらず自らが動くことを厭い、怠惰でありながら何をもなさずに失う未来に怒れる。それは人の肉袋としての始まりが、奪うことより始まったゆえであり、動くことが本能と根付いてしまったからだ」
イーズ・アンが狂信的に語る原典主義回帰論は、人間への不信を根底にしている。
彼女は一切の信頼を人類に向けていない。人間には善意も悪意もなく、人は生まれながらにして生理的に他人とは相いれないと断じている。性善説でも性悪説でもない。圧倒的なまでの人間不信を根底に、生物として人間は理解し合えないのだと断じている。
「人が人を治めようということがすでに傲慢であり、矛盾であり、決して世が平等になりえない瑕疵なのだ」
いまある人間社会を信じられないからこそ、彼女は存在しない絶対を飢えて渇いてひび割れるほどに渇望しているのだ。
「人と人とが真に分かり合える日は、未来永劫訪れない。他人がわからぬのだから、人は神を信じればよい。たとえ他者を信じられずとも、共通する主さえ信じることができれば神秘にて人はつながれる。信仰を同じくする者のみが、隣人足りえ、愛すべき者となるのだ」
「共通認識が人をつなげるというのなら、それは学問でも構わないはずです。必ずしも、神秘に寄り添う必要はございません。あなた様は、あまりにも……あまりにもっ、諦観がすぎます! 考えることを放棄して、人のなんたるかを定義できるのですか!?」
常に考える者であるからこそ、イチキは声を張り上げる。
その論理は、イーズ・アンには響かない。
「学問には段階があり、思索には資産が必要である。資産をもとにした競争社会は、選別を必須としている。しかし信仰は一元であり、思考はいらない。学ぶよりも遥かに、信じることが容易い。人が一つになるのに、信仰こそが相応しい」
人を信じないゆえに、神を仰ぐ。
不信から始まった信仰でもってイーズ・アンは言うのだ。
「神典は、唯一にして無限の神より賜った言葉の写し紙である。概念として唯一絶対に等しい神典がある限り、絶対の規範足りうる。しからば、回帰こそが終末より救済を成す道である」
人以外のものを絶対とするための、不完全な論理。教義の揺らぎをすべて人の主観による不義だと断じることで完全を語る。
人を信じられないからこそ、人以外の存在にすべてをゆだねることを選んだのが、彼女の信仰だ。
「どれほど学術が発展しようと、人は真に賢くなることができない。人が人の身である限り、欲の肉袋であるゆえに生まれる愚かさは尽きることはない。智恵を信じる子よ。神秘に指をかけるほど理を解すれば、よもや人の愚かさを知らぬとは言うまい」
「……ぁ」
人類の善性を信じるには、イチキは賢過ぎた。あるいは人類の善性ゆえに、人が滅びる可能性すらある。人は善意で人を殺せるのだ。むしろ、人が人を傷つけるのは、正義を信じる時であると彼女は知っていた。
自分も、そうだから。
「学問が理性により構築されたなど、笑止。人は理性的な生物などではない。理性という概念に憧れてしまった、この世でもっとも理性を理解するには遠い感情的な生物だ」
思わず、手が、首のチョーカーに伸びる。その下にうっすらと残るあざのゆえんは、なんだったのか。
人の心を理解しないまま人を信じて、人に裏切られた。
イチキがなんのために戦っているか。それは誰かのためだ。イチキは常にそうしてきた。自分が信じる誰かのために誰かを傷つけることを、イチキはためらいはしない。
人は理由があれば戦うことを厭わない。
理由がなければ動けずとも、理由があればなんでもできる。
人間がそんな感情的だから、イーズ・アンはすべての人が彼女のように回帰することを望んでいる。
「人は、学ぶより信じるを優先する。なぜならば、信じることこそが感情であり、人は感情のまま生きる者なのだ」
「人は……」
反論の勢いがすぼまり、イチキはうつむく。
何も言えない。だが同時に、心が納得することもなかった。
どれほどイーズ・アンの言葉が正しくとも、それが唯一の人類存続の道だとしても。
「誰も、あなた様ほど潔癖には、なれないのです」
イチキには人類社会が信仰の果てに至るのが不可能だとわかっていた。
理屈ではない。感情で無理だと断じられる。
イーズ・アンを見れば、子供にだって、わかるだろう。
他の誰も、イーズ・アンにはなれないのだ。
けれども、イーズ・アンには人の心がわからない。
「否。わが身が泥たるゆえんは潔さゆえではなく、ましてや智恵ゆえでもなければ、才気、勇気、武勇、そして信仰ゆえですらない。わが身の生まれは一介の村娘であり、生まれながらにあらゆる恩恵に突出した要素はなく、ただ強いられ、流され、行き着くことで泥の身となった」
イーズ・アンの強さは、生まれでもなければ努力でも、ましてや信仰の敬虔えゆえでもない。
「何も成さぬことは、どのような愚か者でもなせる」
彼女はただ、その場に居合わせたというだけで、泥の身になった。
だから、彼女は自身の信仰を告げるのだ。
「信じるとは、一事が万事、無成であることだ」
「違います……」
イチキは、力なく首を振る。
確かに彼女が泥の身になったのは、彼女がそこにいたからだ。何も成せなかったのに、彼女は時代の節目に皇国崩壊の始まりの場所にいたからという一事でもって泥の身になった。
それでもイーズ・アンでなければ、こうはならなかったという確信がイチキにはある。事実あの村にあって、泥の身となったのは彼女しかいない。
彼女が聖人になってから、ずっとそうだった。
誰も、彼女のことを理解できていない。
神を信仰し、原典を順守し、人を信じることをやめたイーズ・アンには、それが決してわからない。
皮肉にも、人が理解し合えないということを彼女自身が体現してしまっているのだ。
「異教の学者よ」
イーズ・アンの掌に、浄化の光が灯る。
彼女が長く語ったのは、次の一言をイチキに認めさせるためだ。
「汝に、改宗の機会を与える」
「……無理です」
論理に負け、舌戦で敗北しても、頷けない。
「わたくしは決して、あなた様のようになれませんから」
「そうか」
イーズ・アンの掌に光が宿った浄化の光は信仰にそぐわぬ悪を消し去る神秘の光だ。イチキにはすでに抗うだけの力はない。うなだれ、沙汰を待つことしかできない。
レンと姉のための時間は、稼げたはずだ。
それでいい。イチキが諦観に瞳を閉じようとする。
「ならば、疾くと散れ」
「ま、まって……!」
リンリーが前に出た。
なにか勝機があったわけではない。時間稼ぎの盾にもなれないことはわかっていた。リンリーが万全でも、イーズ・アンの浄化の光に抗う手段はない。まして身に余る大魔術を行使した後だ。疲労困憊で、動くことすら難しい。
それでも、割り込まずにはいられなかった。
リンリーは全身を恐怖で震わせ、目元に涙を溜めながらも、浄化の清らかさに光輝く聖人に乞う。
「い、イチキ姉さまを、ころさないでください」
理屈も信仰もない、感情的な訴えだ。
ただの十一歳の子供の訴えだった。姉を助けたい一心の涙だった。
「殺しはしない」
リンリーの涙は、イーズ・アンの心に波紋も立てることすらなかった。彼女の瞳に、異教徒の涙は映らない。そもそも彼女の意識には『人を殺す』という自覚もないのだ。
「あるべきに浄するだけだ」
ほんの僅かだけ時間を稼いだだけ。前に出たリンリーを、イチキが後ろから抱き込んでかばう。自分の身を盾にして、せめて妹だけでも浄化の光に照らされないようにする。
それも無意味だろう。
イーズ・アンの秘蹟は強力だ。イチキを消し去り、その後ろにいるリンリーも塵と変える。風に吹かれれば、残るものなどない。
異教の姉妹を諸共に浄化するための光が、放たれた。
公園広場を埋め尽くさんばかりの輝きが、収まった。
イーズ・アンの浄化の光は強力無比だ。
いくらイチキがかばおうと、直撃すれば彼女ごとリンリーを浄化しただろう。異教徒は魔である。防ぐ手立てはごく限られている。
ただ、彼女の振るう力が一神教由来の秘蹟である限り、どれほど強力だろうとも決して通じない相手が存在する。
あらゆる魔と異教徒を滅する光は、同時に、同胞である教徒を傷つけることは決してない。敬虔な信徒の影にいれば、異教徒でも浄化の光から逃れることができる。
イチキとリンリーは、生きていた。
少女二人の前には、一人の女性が立っていた。
「まったく、もう」
浄化の光をさえぎって立ちふさがる人の声を聞いた時、イーズ・アンの瞳が初めて揺れる。
「勤務時間に神殿にいないから探しましたよ、先輩」
「……ファーン」
自分の前に立つ後輩の名前を無表情のまま呼ぶ発声が、ほんの少しだけ、遅れた。
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