イチキ+リンリーVSイーズ・アン 前編

 自分は、勝てるのだろうか。

 屋敷からリンリーとともに転移で連れてきた相手を前にして、イチキの頭に弱気が走った。


 『聖女』イーズ・アン。


 そういう名前と肩書をした信仰の権化が、彼女の前に立ってる。

 イチキは入念に隠蔽を施した転移罠によって、彼女を公園広場に連れてきた。

 ここが自分の屋敷の次に、イチキの結界がこびりついた場所だからだ。屋敷から離れた場所で、少しでも自分に有利な土地を選んだのだ。

 なんの構えもなくたたずむ彼女は、一見では強大な存在には見えない。女性にしても小柄な体格。武装など持つ余地のない修道服。背中に大量の書物入った荷物を背負っているのだけが風変わりな、か弱き修道女だ。

 どこにでもいる小さな女性のようで、だというのにどこから見ても彼女には人間らしさが存在しない。

 イチキは全神経を集中させて、目の前の人物を分析する。

 髪の一本からつま先の爪のひとかけらまで信仰に捧げた相手だ。己の存在すべてを神秘に変え、信仰に染め上げた思考に一切の疑念を抱かずに神へと祈りを捧げる。

 彼女の信仰には、一点の穢れもない。

 人を救うために祈るのではない。

 己を高めるために信じるわけでもない。

 欲することなく、進歩もなく、退化もなく、古きも新しきも変わらない。世界はあるべきにあると信じている。

 一神教原典原理主義回帰派。

 原初から教えがあると信じ、例外を許さない信仰の中でもひときわ潔癖な教えの体現者。外界に影響されることなく、世界が彼女の内面で完結して揺らぐことのない神のしもべ。彼女こそが、戒律を順守し数多ある修験を経た修道女にして『聖女』である。

 人の届かぬはずの神秘を扱うにふさわしい秘蹟使いであり、まさしく格が違う相手だ。


「異教のものよ」


 不意に口を開いたイーズ・アンが、イチキたちに言葉をかける。

 彼女は問答無用で人を攻撃することが、滅多にない。

 意外や意外ながらも、彼女はまず人に言葉で接する。信じるものが同じ教徒は当然として、それが異教徒であっても言葉を惜しむことをしない。

 信仰を語り、改宗を促し、それでも拒否をするならば躊躇うことなく滅する。


「汝らに、改宗の意図はあるか?」


 イチキはイーズ・アンの問いを黙殺する。

 彼女との会話の無意味さを知っているからだ。会話に終始したところで、大した時間を稼げるとも思えなかった。

 戦って、レンが目的を達成するまでの時間を得るしかないのだ。

 イチキとて力量差は承知している。格上に無策で挑もうという心づもりではない。

 いつか、こういう日が来ることはわかっていた。

 準備に準備を重ねて、イチキは確かな勝機を携えることができた。


「リンリー」

「はい、尊師」


 横に控えるリンリーに合図をし、イチキは袖から石を取り出した。

 『近づけば鳥獣の死せる石』。殺生石を九つ、無造作に投げ放つやいなやリンリーの周囲に均等な形で配置される。

 ここにリンリーを連れてきたのは、捨て石にするためでも肉壁にするためでもない。この一戦で、彼女の力が必要となったからだ。

 九つの石が膨れ上がり、リンリーを閉じ込める一つの巨石となる。

 イチキが袖から錫杖を取り出す。杖先に付いた遊環がしゃらんと鳴る。

 巨大な殺生石が砕け散った。

 その中から現れたリンリーの姿は、通常とは格の違う階梯にいた。頭には狐耳。だが狐尻尾の数がいつもとは違う。

 九尾。

 イチキの助けを借りて、リンリーの得意とする狐憑きの術を最高位まで引き上げ、金毛九尾の妖狐を憑依させたのだ。

 イーズ・アンは、金色に輝くリンリーに関心を示すことすらしなかった。

 白面金毛九尾の狐は強大であろうと、化生の一つである。一神教を奉じるイーズ・アンにとってみれば、浄化の光で照らせば消えうせる魔物でしかない。

 もちろんイチキも相性の悪さは承知している。そもそもイーズ・アンと相性がいい相手などいない。

 いまのリンリーの状態は前準備の一つでしかない。

 金毛九尾の力を得たリンリーが九尾の概念を身に宿したことで跳ね上がった力を用いて、梵字を唱えて九字を切る。


「ナウマク・サマンダ・バザラダン・カン」


 濁りなく唱えた真言は、野狐払い求める術だ。

 狐憑きを払うため、己を多神教のうち数ある『明王』の一柱と重ねて克己を得る。

 ぼっと音を立てて、リンリーの背後に神秘領域の力が顕現する。

 手に倶利伽羅剣、背後に燃える迦楼羅焔を揺らめかしている。イーズ・アンは神格を身に宿したリンリーの姿を一瞥して正体を見抜く。


「外道も内道もわからぬ分際が、救済(さとり)を騙るものを真似るか」


 イーズ・アンの周囲に霧がかかった。

 イチキの魔術だ。視界をふさぎ、五感を捻じ曲げる幻惑の霧が濃密に立ち込める。四方十歩という小さな結界ながらも、常人がかかれば一生脱出が叶わない凶悪な霧の檻だ。

 イーズ・アンはいささかも動揺しない。彼女の手のひらに光が灯る。


「かの仙人でもあるまいに、わずらわしい」


 浄化の光が放たれた。

 あらゆる魔術を食い破り、魔を滅する強力な秘蹟が霧を晴らす。

 だが、本命のリンリーまでその光は届かなかった。

 彼女を囲む形で盛り上がった土壁が光を遮ったのだ。リンリーのいる場所は影となり、光が届かず浄化の効力も発揮されない。

 土壁の向こう側から、イチキは挑戦的に告げる。


「術の込もらぬ物質に、秘蹟は通りません。あなた様の秘蹟であっても、例外ではありませんでしょう?」


 浄化の光が魔術の効果を消そうとも、大地そのものを消し去ることはしない。神が生み出した世界の構成要素を、たかが人が扱う秘蹟で滅することなどできてはいけないのだ。

 次から次へと地面が変化し、あっという間に公園広場に小山ができる。効果が消されても構わない。動いた後に残る大地がイーズ・アンを阻害すればいいのだ。

 イーズ・アンが土壁の埋まる中、明王の羅漢を背負うリンリーが、祝詞をあげた。


「奉りますのを祀ります」


 東方で広く信仰される明王の絶大な力を、リンリーはその身に宿した。イチキの修行の成果で多神教の神秘領域に接続することを可能としたのだ。

 それすら、いま唱えている文言を達成するために必要な準備要素でしかない。


「其の侭の父祖の祖父のままの租。五経の山々隅々通り、十三経路の海里の深く、鎮し治めし産みの親。怪奇鳥獣十二霊獣百鬼夜行の母の母。白面白虎土蜘蛛に、入道道山生みし始祖。四天の王が仰ぐ空よりありし天高く」


 長々と連なる文言は、明らかに教会の聖句とは違う。イーズ・アンにとって異教徒の神秘領域を用いた秘蹟が行使されようとしていた。

 少し前にオユンが成した降霊術に似て非なる、深く、世界の根本に属する神秘領域だ。

 ここにきてイーズ・アンの意識がリンリーのみに注がれた。

 イーズ・アンが反応した理由は、力の大小ではなくリンリーが言祝ぐ内容の性質にある。

 祝詞を唱えて発動されるのは、魔術ではなく、神秘に類する御業に限られている。ただでさえ不動明王の一端を身に下ろしているリンリーが言祝ぐのならば、世界の根源に関わる領域の力を求めてのことに違いない。

 魔術が変化をもたらすものならば、秘蹟の本質とは世界を正すことにある。


「……」


 静かな激怒を含んだ無言のまま、イーズ・アンが一歩、足を踏み出す。

 ただそれだけの動きで、イチキが操る大地が平定された。

 足跡の秘蹟によって、道がならされる。聖人が一度足をつけられてしまえば、そこには奇跡が宿る。正された地面に、イチキも魔術での干渉ができなくなった。

 ならばとイチキは袖を前に出す。

 収納空間として拡張している袖口から、大量の鉄器が吐き出された。浄化の光で滅せられることがないようにと、なんの魔術も込めていないガラクタの山だ。

 純粋な物質による物量による攻撃。あらゆる鉄器が物理と積み上がりイーズ・アンの歩みを止めようとする。


「邪教が」


 鉄の群が津波のように彼女を押し流そうとする中、冷え冷えとした面相のイーズ・アンが見るのは祝詞を唱える巫女となったリンリーのみだ。幼い彼女の儀式を悪魔と断じるべく、掌から光の剣が伸びる。

 断罪の剣。

 唯一神の敵を裁き、両断した結果をもって罪と断じる剣。浄化ではなく、外敵と定めた相手を滅するための刃だ。

 その威力は、浄化の光の比ではない。

 なんの魔術も込めていない鉄の群れが、寸断された。

 イーズ・アンほどの秘蹟使いが振るえば、異教徒では防ぐ手立てなどない鋭き刃となる。迫る鉄を紙くずのように切り裂き、イーズ・アンが前に進む。

 まずい、と防御の姿勢をとったイチキの横を、イーズ・アンは素通りした。

 戦闘の常道を無視した動きに、さしものイチキも虚を突かれる。

 いまのタイミングならば確実にイチキを切り裂けたはずが、より脅威になるはずのイチキを完全に無視して、祝詞を唱えるリンリーのみを狙ったのだ。

 どこまでも、敵意の矛先が歪みない。

 断罪の剣の切っ先が、リンリーへと迫った。

 リンリーは動かない。まだ祝詞は唱え終わっていない。祭儀の間、巫女たるリンリーは自らが定めた祭儀場を超えて動くことなどできない。彼女の全神経は、いまの儀式を完遂することにのみ注がれている。

 邪教を滅するために迷わず振るわれたイーズ・アンの光剣が、ぐらりと揺れた。


「あなた様は」


 背後から、肩を引かれたのだ。

 イーズ・アンの修道服を掴んだのはイチキの手だ。


「本当に、どこまでも信仰に準じておりますね」


 魔術もなにもない、ただの体術。あまりにも原始的な手段だからこそ、対処が遅れた。

 光の切っ先は逸れ、リンリーの毛髪の先を切り飛ばすだけに終わった。


「その子を殺させは、しません!」


 接触から、組み技。イチキがイーズ・アンに食い下がる。

 イーズ・アンに武芸の心得はない。対してイチキは、無手でも達人の域にある。武芸百般も網羅している彼女は、魔術戦を捨てて肉弾戦に引きずり込む。


「――天地創世その後より、崩れ天地を支えし錬金五玉。まがつ勾玉にて世界を修し、復権覆土の肥沃な壌土。救い整え人型を、飛び散る飛沫も人形に――」


 滔々とリンリーの祝詞が続く。

 魔術戦から肉弾戦に移行したイチキはイーズ・アンの修道服を掴んで首を締め上げる。ダメージは与えられずとも、動きを止めることはできる。わずかに優位を得たという希望は、次の瞬間に打ち砕かれた。

 イチキが相手を掴んでいた手が、ずぶりと沈んだ。


 |泥の身(ルトゥム・ゴレム)。


 イーズ・アンの体は神秘そのものだ。

 しょせん、武術は人と人との争いを想定している。人類原初の神秘を体現する彼女を、肉袋である人の手で掴むことはできない。異物が体内へと侵入する感触をまるで苦しまない顔のまま、イチキの手が泥の体を素通りする。

 拘束をなかったものとしたイーズ・アンの掌に浄化の光が宿る。

 リンリーはすぐそこだ。この距離で放たれれば、避ける術はない。

 だが光が放たれる寸前、リンリーの術が完成した。


「――これすなわち、天地修仏の理なりを宿す世界なり! 神仏照覧、ここにあれ!!」


 祝詞の終わりと共に、儀式を完了させたリンリーの祝詞を通じて、イチキという個人へ神秘領域が降臨した。

 次の瞬間、浄化の光を放たんとしたイーズ・アンの腕が砕け散った。

 地面より、一柱の石が伸びていた。目にもとまらぬ速度で伸びた石柱が、イーズ・アンの腕を撥ね飛ばしたのだ。

 攻撃の余波で彼女の修道服の前面が開き、肌着である白いシュミーズが顕になる。右腕を飛ばされながらも、イーズ・アンに目立った反応はない。立ち尽くしたまま、その眼球が儀式を終えたリンリーから外れ、イチキを認識する。

 イチキが、右腕を砕かれたイーズ・アンの横を素通りする。


「……」


 イーズ・アンは無言のままリンリーの側に行くイチキの動きを追う。

 石柱による攻撃の結果で問題となるのは、右腕が吹き飛ばされたことではない。腕を砕かれた痛みはあれど、そんなものは些細な損害だ。飛び散った泥は、徐々にもとの場所に集まり腕の形をなしている。

 イーズ・アンにとっていまの現象で見過ごせないのは、二つある。

 正したはずの地面が杭となり、浄化の光を砕かれた。

 二つの秘蹟の効果を魔術で変化させたという、大いなる問題をはらんでいるのだ。

 秘蹟に魔術で干渉することはできない。物理で遮れども、本質に触ることなど不可能だ。イーズ・アンほどに極まった聖職者の秘蹟を砕くには、同じだけの領域の神秘で対抗するしかない。

 つまり、いまの攻撃は魔術ではない。イーズ・アンの神性に対して、魔術を突き詰めた末に至った神性で立ち向かった証拠だ。

 イーズ・アンが見つめる先にいる異教の少女は、自分や仙人と同等の域の力をその身に宿していた。


「リンリー。よくやりました」

「そん、し……」

「そのような仰々しい呼び方は、以後、しなくてよろしい」


 イチキの掌が、優しくリンリーの頭を撫でる。

 最初にイチキがリンリーの能力を増幅するために金毛九尾の狐を憑依させ、リンリーがさらに高位の神秘領域を身に宿す。その力でリンリーがイチキへの「神下し」の義を執り行うという、一人では決して行えない連鎖的な儀式手順。これにはイチキであってもリンリーの協力が不可欠であり、厳しい教育と修行を課すことになった。

 難事を達成させたリンリーに、イチキはいままで一度たりとも向けることのなかった、肉親への情を込めた笑みを浮かべた。


「頑張りましたね。あなたは、わたくし自慢の妹です」

「……はい!」


 うるりとリンリーの瞳に涙が浮いた。涙ぐんで、それでも声を弾ませた。

 イチキは、家族に全霊を尽くす。姉である奴隷少女ちゃんは言うまでもなく、リンリーも必ず守り通さなければならない。

 神降ろしの儀式により、聖人仙人に劣らぬ神性を得たイチキがイーズ・アンへと向き直る。

 イーズ・アンが奉じる神に名前はない。唯一神とは、名前など付けられない存在だからだ。

 対して、リンリーの祝詞によりイチキへとおろされた神には、名前がある。

 イーズ・アンは先制攻撃で刻まれた相手の力の名を告げる。


「女禍」

「さすが、でございますね」


 リンリーが成功させた儀式『神下ろし』にある数少ない要素から、見事に正体を言い当てて見せた。

 かつて東国にあった古代王朝において、天地修復の女神にして陰陽一対の頂点。

 多神教の最高神に近い一柱として記され、なにより東国において今なお『泥をこねて人を創った』とされる人類創造の女神だ。


「最高神の神性を宿したわたくしと、唯一神のひとひらたるあなた様。どちらが優れているか。言うまでもないでしょう」


 力は同等、相性は圧倒的な優位を得た。

 学術で神秘に至ったイチキが、一神教を標榜するイーズ・アンへ多神教の力で真っ向から対峙する。


「西方聖人『神の泥』イーズ・アンさま。これよりが、本番でございます」

「……邪教の下僕風情が、なにを我が身と比べようというのか」


 イーズ・アンは元に戻った右腕をゆっくりと持ち上げて左手で触れ、形を確かめる。


「唯一にして絶対なる主のしもべを前にして神を名乗ろうなど、傲岸不遜」


 先ほどの攻撃で前の開いた修道服の裾がひらめく。右腕を前に突き出したまま、イーズ・アンの泥の瞳ぎょろりと動かし天敵に等しい神性を宿したイチキを貫く。

 異教の神を目撃しようと、相手が自分よりも強くなろうとも、もしかしたら自分が敗北の末に永久の封印の憂き目に合う可能性をつきつけられようとも。


「根本的に不具なる多神教でもって神秘を表そうなど――不可能と知れ」


 『聖女』イーズ・アンの信仰は揺らがない。

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