『前皇帝』


 レンは走っていた。

 屋敷に入った瞬間を狙い、イチキの結界によって自分とイーズ・アンと分断してもらったのは予定通りだ。

 ここから先に、どうしてもイーズ・アンを連れていくわけにはいかなかった。

 レンが聖剣を持っている限り、聖人である彼女はどうあがいても同行してくるだろう。同行を拒否しようとも振り切れもせず、言葉で説得できるはずもない彼女を隔離する方法が、これ以外レンには思いつかなかった。

 ある意味で、物理的に最大の難関は突破したといえる。

 門番をしていたスノウ・アルトはミュリナが止めてくれていると信じ、イーズ・アンはイチキが時間稼ぎをしてくれると信じるだけだ。

 もっとレンが強ければ、一人でここまで来れたのかもしれない。

 けれどもレンは、悲しいまでに凡人なのだ。


「どこまでいっても半人前だよな、俺は」


 ここまで来ても誰かの力を借りないと前に進めない自分に苦笑しながらも広大な平屋の屋敷を走るレンは、不思議と自分が向かうべき先がわかっていた。

 事前にイチキから聞いていたのもあるが、それ以上に聖剣から気配が伝わった。

 まるでレンをそこに導くがごとく、聖剣が己の生まれた意味がいる場所を指し示しているのだ。

 レンは聖剣に従って、大きな屋敷の廊下の角を曲がる。応接間を抜けた先にある、奥の部屋。そこにある振り子時計を動かせば、床に隠し扉があった。

 それを開けて、レンは地下に続く階段を下りる。

 寒々しい石造りの、重厚な雰囲気の地下室部屋だ。灯りは意図的にほの暗くさせられており、人の恐れを本能的に煽るようになっていた。


 部屋の奥には、大きな円卓が置かれている。


 異様な円卓だった。

 序列がないことを示すための円形テーブルだというのに、入り口から最も遠い一席のみが、はっきりと上座として存在する。地下室の入り口の真っ直ぐ正面に一席への段差が作られ、一段も二段も上から見下ろす形になっているのだ。

 加えて異様なことに、円卓を囲む椅子は、その一席を除いて用意されていない。その卓に着きたければ、地べたに座り上座を仰ぐしかない。

 明らかに、奥の一席だけを掲げるためにある円卓だ。

 玉座と見紛うばかりの上座に、一人の少女が座っていた。

 レンが公園広場で見慣れた、貫頭衣を着た青みがかった銀髪をした少女――ではない。

 首輪を外し、シンプルながらも瀟洒なドレスを着た、一目で高貴とわかる少女がいた。無機質なほど鋭利に整った美貌。ほっそりとしながらも黄金比で伸びる手足。瞳を閉じて掲げられた席に座る彼女は神秘的なほど美しい。

 レンは、思わず息を呑む。レンでなくともこの国の人間ならばだれだって、彼女を見れば硬直して息を止めてしまうだろう。

 その美しさゆえに、ではない。

 レンの目を釘付けにしたのは彼女の髪の色だ。

 ハーバリア皇国の民だったのことがある人間ならば、畏れなくてはならない、この世で、唯一無二の色。

 紫の髪をした少女が、ゆっくりと目を開いた。


「……」


 紫の少女が、レンを見る。

 物語でいえば最後に勇者を出迎える魔王のようでもあり、あるいは逆に勇者の出立を見送るための王様のようにも見えた。

 彼女はレンが持つ聖剣を一瞥して、ぞっとするほど美しく笑う。


「ようやく『私』の前に来たか」


 決して聞き逃すことができないハスキーボイスが、いつもの彼女とはまったく違う口調で地下室に朗々と響く。

 彼女の手に、看板はない。誰かのために公園広場に立っていた彼女ではない。いまの彼女は自分のためにここで座り、聖剣を待ち侘びていたのだ。

 だから彼女の手元には、看板に代わって一本の斧があった。

 ちょうど、いつもの公園広場で持っているあの看板と同じような大きさの両刃斧だ。

 最後に戦うために待ち構えていた彼女が、玉音を紡ぐ。


「|皇国よ、永遠に(ユークロニア)」


 玉音が、世界を塗り替える。

 妙なるハスキーボイスの響きが、聞いたものを現(うつつ)と違う世界に引きずり込もうとする。

 景色が変わる。空間がズレていく。世界の変化を五感が訴える。

 レンの前に現れようとしているのは、国だった。

 三百年かけて積み上げられた民衆の思い。熱狂的な国の誇りが、後天の秘蹟すら封殺する異界を構成した。『|皇国よ、永遠に(ユークロニア)』とは皇国に生きた臣下臣民が彼の生涯で目指し続けた理想の国家であり、あらゆる魔術と神秘を優越する領域を作り上げる、絶対の文言だ。

 だが。

 レンが聖剣を、引き抜いた。

 抜き身の刀身を、振るうまでもない。鞘から輝く白刃が現れるだけで、常世の国が打ち砕かれる。神の奇跡を身に宿すイーズ・アンですら一言で閉じ込めて封殺できる史上最高峰の秘蹟が、朝霧より儚く露と消える。

 皇国の民が積み上げた奇跡は、皇国を滅ぼした民の願いに対して、あまりにも脆弱だった。

 聖剣の煌めきを前に、自分の玉音が通じないことを確認した少女が笑みを浮かべる。

 彼女は自分が討たれる時を待っていた。自分を最初に見た兄が死んでから、ずっと、民の願いにつらぬかれることこそが報いだと待ち構えていた。

 けれども。


「……」


 少女は、改めて聖剣の持ち主を見る。

 彼女は、彼のことを知っていた。

 少しの失敗を悔やんで落ち込む凡人で、そのくせなんか知らないけど人から好かれる女ったらしで、年上と権威のある人間に弱くてよくよく周りに流されて、辛いことがあれば情けない弱音をいっぱい吐かなくちゃ生きていけない少年、レン。

 聖剣に貫かれるのは、本望だ。

 けれども彼女は、聖剣を持っている彼のことをよく知っているからこそ、思わずにはいられない。

 目の前の少年にただ負けるのは、ちょっぴり業腹だ。


「……私にも、『私』に対してほんの少しくらいは矜持がある」


 彼女は妹から習った近接魔術を発動し、両手斧を構えた。『玉音』がなくとも、彼女は決して弱くない。

 自分の力だけでも戦えるのだ。そのための訓練をした。彼女にとって玉音が自分のすべてであるという生まれに対する、ほんのささやかな反抗だ。


「君が、『私』の勇者だというのなら」


 構えた斧の柄を、ぎゅっと握り名前のない少女はレンをまっすぐ見据える。


「この私を、ちゃんと倒してみせて」

「わかった」


 レンも聖剣を構える。

 ここに来たばかりの頃、全否定をしてカーベルファミリーのチンピラを圧倒した彼女の強さは、レンも知っている。

 あの時は圧倒されるばかりだった。

 でも冒険者として技量を鍛え、さまざまな人と交流を経たいまのレンなら、しっかりと向き合える。


「それが、君の望みなら」


 レンはこの街に来て自分のものとなった力を手にして、少女と正面から向き合う。


「俺は、応えるよ」


 少年が振るう聖剣と、皇帝が振るう斧がぶつかり合った。

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