同行の全肯定


 パリンと音を立てて、神棚に備えてあった猪口が割れた。


「おりょ」


 屋敷の台所で食事の後片付けをしていたイチキは、その音を耳にして手を止める。洗い物で濡れた手を拭いて、つま先立ち。神棚に手を伸ばした手に、やはり陶器の破片の感触があった。

 明らかに不自然に割れたお猪口の破片を指先でつまみ、しげしげと眺めて見分する。


「これは……とうとう見つかりましたか」


 この神棚は屋敷の結界の要の一つだ。しめ縄の内陣に祭具として供えていたお猪口は、屋敷を探る者から意識を逸らす隠ぺい結界の結び目とも言える役割を担っていた。

 イチキや奴隷少女ちゃんが住まうこの屋敷の結界は、即席でつくったものとは質が違う。土地と建物の両方に根差し、年単位の時間をかけて築き上げた城壁に等しいほど強力なものだ。

 それが壊れた。

 タイミングからして、イーズ・アンに見つかったのだろう。


「聖人とは、まことに理不尽なものでございますね」


 数年かけてつくった結界を数日で抜かれてしまうなど、術者として立つ瀬がなければ割にも合わない。天才を自称するに相応しく才能を磨いているイチキであっても、決してかなうことはない存在だ。

 術者としてのプライドを少々傷つけられつつも、消沈している時間ももったいないと意識を切り替える。


「はじまってしまいますね。姉さまはもう気がついているでしょうし、スノウ・アルトは……ちょうど、ボルケーノさんと面会している時間ですね」


 この事態では微妙に邪魔になるスノウが屋敷からいなくなっているのはちょうどよかった。カーベルファミリー解体にあたってウィトンに捕まったボルケーノに会いに行っているのだ。

 聖剣が抜かれ、聖女に見つかったとなれば、もう時間はない。姉の居場所を突き止めたイーズ・アンは、なにがあろうとすぐにでもレンを引き連れてやってくるだろう。

 自分がレンと約束した役目の時間が始まる。

 台所を出たイチキはまっすぐリンリーのいる部屋に向かい、扉を開け放つ。


「リンリー」

「ふぁい!」


 急ぎのあまりノックをしなかったのが悪かったのか。修行と勉強漬けの合間にある貴重な一人の時間を布団で寝っ転がってだらだらして過ごしていたらしきリンリーが、不意を突かれた猫のごとくぴょーんと飛び上がる。

 器用なことに正座で着地した不出来な弟子は、自分は休憩時間も頑張っている優等生を装うべく背筋を伸ばす。


「な、なんでしょうか、尊師! あたしはいつも真面目で一生懸命ですっ」

「イーズ・アンが来ます」


 聞いてもいないのに言い訳を始めたリンリーに、イチキは端的に用件を告げた。

 リンリーの顔が、ざあっと青ざめる。気持ちは理解できるが、その心を慮るつもりはない。イチキは続けて言い放つ。


「迎え討つ準備はいいですね」


 問われたリンリーが、ごくりと唾を飲む。なにせ彼女にとって、イーズ・アンという存在はトラウマそのものだ。視ただけでわかる分、『聖女』に対する恐怖は常人よりも大きい。

 この国に来る前のリンリーならば、誰になんと言われようとも決して戦おうとはしなかっただろう。

 それでも意を決して、首を縦に振る。


「――はい」


 今日この日のために修行を受けて教育されたのだと、リンリーにだってわかっているのだ。

 教育を施した当人であるイチキは、頷く。


「よろしい。それでは行きますよ」


 イチキはリンリーを連れて移動する。

 レンから話を聞いて、今日のために準備を重ねてきた。特にリンリーは今日の戦いの鍵になる。

 人事を尽くし、天命を味方につけたところで勝利の可能性は極小だ。勝つ必要はなく、足止めだけであっても、異教徒である自分たちが『聖女』の前に立ちふさがれば、命の保証はない。

 それでも、やるのだ。


「姉さまのため。それに――レンさまに頼まれたことですからね」

「御方様さまはともかく、レンおにーちゃんのためっていうのはちょっと納得できないです。レンおにーちゃんがあたしたちのために動くべきだと、そう思います!」

「お前は……そういうところだけは矯正できませんでしたね」

「う……だめ、ですか」

「許します」


 恥にならないように礼儀作法は叩き込んでいくつもりだが、小生意気な性格を叩き潰そうとまでは思わなくなった。

 この生意気さこそが、イチキの修行に耐えて忍耐の源泉でもあり、時折見せるいじらしさの元でもあるのだ。


「今日これからは、大変な時間になりますからね。多少の無作法は目をつぶりましょう」

「うぅ……」


 この段になってもまだ情けない顔をするリンリーに、やれやれと息を吐く。

 今頃、こちらに向かって来ているはずの自分の思い人は何を思っているのだろうか。

 自分たちの――何より、姉の今後を決定づける決戦を前にして、イチキはレンの心に思いを馳せた。






 その頃、レンは沈痛な顔で黙り込んでいた。

 だって、ミュリナとの初デートだったのだ。

 しかも人生で初めてのデートだ。付き合いたてのかわいい恋人とのデートだなんてだいたいの物事より優先されるべき事象だし、それを邪魔する相手がいたら天罰当たっちまえと思って当然だ。

 だが、いま目の前にいる人にばかりは、空気を察してくださいと頼むことも天罰がくだる期待も持つこともできなかった。

 『聖女』イーズ・アン。

 磨きぬいた泥に似た彼女の瞳には、なんの感情もうかがえない。見るからにイチャイチャしていた恋人同士の間に、にゅっと現れたというのに欠片の動揺もない。初々しいカップルから初デートの時間を奪うことに、微塵も罪悪感を感じてない。

 なぜなら彼女の信じる西方教会の教義に『恋人の初デートの邪魔をしてはいけません』とか書かれてないからだ。

 教義と戒律にのみ寄り添うイーズ・アンは、初々しい恋人たちの時間を奪ってカップル一組を絶望の底に叩き込もうと信仰に陰りは生まれないのである。


「では行くぞ」


 無情の体現者としか思えないイーズ・アンが踵を返す。大量の聖典を積んだ荷物を背負っている背中は、レンがついてくることを欠片も疑っていない。信仰に準じることこそが、彼女の現実なのだ。

 あまりのマイペースさを前にして、レンは屈しかけた。

 イーズ・アンに頼んでも無駄なのは分かり切っている。こうならばとりあえずミュリナに平謝りしてデートを先延ばしにし、イーズ・アンについて行こうという方向にレンの思考が向いた。

 そうしてイーズ・アンが一歩、足を踏み出した時だ。

 彼女の細い肩を、がしりと掴んで止める手があった。


「ちょっと……待ってもらっていいですか?」


 ミュリナである。

 レンと同じ言葉だというのに、込められた感情の凝縮度が段違いだった。ミュリナはレンに恋する前の時のように目を鋭くし、ギラギラと光らせている。

 イーズ・アンの肩を掴んで引き留めるという神をも畏れぬ所業に、レンはぎょっとしてしまう。ミュリナに危害が及ぶ前にと慌てて間に入ろうとするが、イーズ・アンの反応のほうが早かった。


「待つ理由があると?」

「はい」


 イーズ・アンの淡白な問いに、ミュリナはなぜか笑顔で頷いた。


「私も同行します。とりあえず武器とってくるんで、それまで待ってください」


 あまりにも攻撃的で前のめりな提案を聞いて、レンの目が遠いものになった。

 ミュリナの性格などレンもとっくに承知しているが、それでも目を遠くにせざるを得なかった。

 逆にイーズ・アンはどことなく感心した仕草で頷く。


「傲慢たる王を打倒せんとするその意気やよし」

「ありがとうございます、『聖女』さま」


 ミュリナが、ぺこりとお辞儀をする。具体的なことはわかっていないはずだが、さらりと話を合わせていくのはさすがだった。

 礼儀正しく下げていた頭を上げた彼女は、くるりと振り返ってレンと目を合わせる。


「で、レン。これ……例の奴隷少女ちゃん? とやらに関係してることよね」

「は、はい……」

「最近、なーんかレンがすごく頑張ってたことによね。寝る間も惜しんでいた時期があったくらいに」

「そうです……」

「あたし、よく考えてみればレンがなにをしようとしてるかぜんっぜん聞いてなかったけど……一緒に行くことに、文句ないわよね?」


 もちろん、レンにはミュリナを連れていく予定はなかった。間接的に話を広めていた時はともかく、直接的な事態になる今日は巻き込む人数を減らしたかったのだ。危険なのはもちろん、今日のことはできる限り人に知られないほうがいい。

 イーズ・アンを足止めするイチキと、奴隷少女ちゃんと相対することになる自分だけで片を付けるつもりだった。


「そ、それは――」

「い、い、わ、よ、ね?」


 もしレンがここで断れる男だったら、彼はそもそもこんな数奇な運命を辿っていなかっただろう。


「も、もちろん! 俺、やましいことなんてないからね!」

「うん。よかった。さすがあたしの恋人だわ!」


 にっこり笑うミュリナの強さを改めて目の当たりにし、レンはがっくりと肩を落とす。

 デートの待ち合わせで笑いかけられたさっきより、いまの彼女にこそミュリナらしさを感じてしまうあたり、自分も手遅れだなぁと苦笑して空を仰いだ。

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