二股は全否定
肌を、ぬるめの空気がそっと撫でる。
日差しは優しくも、長袖を切れば汗ばむ温度。一日の用事を終えてもまだ明るい太陽の高さを見れば、季節もおのずと感じられる。春も過ぎ去りかけて、夏の序盤に季節が片足を踏み入れているのだ。
生命が全力で息吹き始めているなか、見るからに上機嫌な足取りをしている少女がいる。とろとろふにゃふみゃとしている表情はほほえましく、すれ違う人まで笑顔になりそうなほどに幸せそうだ。
ミュリナである。一波乱あったダンジョンからの帰り道だ。あれからすぐにダンジョンを出て、『聖女』イーズ・アンもいったん離れたことで解散となったのだ。
レンが聖剣を抜いて、その場の勢いで結婚を申し込むという所業をしでかした彼女は、幸福の絶頂にいた。
「ふへ……ふへへ」
レンが受け入れてくれた。自分の思いがレンに通じた。とうとう、あの鈍感野郎の一番になれた。
幸せだった。
幸せが体の隅々まで満ち足りて、全身がぽかぽかしながらもぴりぴりと気持ちいい感覚がミュリナの全身に広がっている。今度こそ、勘違いではない。レンと一緒に暮らして、レンのことを好きだって自覚して思い知らされて、シャワーを浴びて初めてを覚悟したあの気持ち。
いつか、あの時の続きだってできるのだ。
イチキに悪いという気持ちがないとは言わないが、同時に自分が勝ったのだという達成感もある。
レンの一番は、自分だ。ふふふと唇をほころばせて、大切に大切に言葉を口に出す。
「もうすぐ恋人……だもんね」
もう恋で悩むことなんてない。
これからは幸せが続くのだ。恋する乙女の特権でミュリナはいまをかみしめて、はにかんだ。
一方、とうとうミュリナの魅力に屈したレンは、少し困惑していた。
聖剣は無事に手に入れた。これから、また『聖女』の先導で、この聖剣を携えてとある場所に向かうことになるだろう。そこで待ち受けるだろう人物に、この聖剣を向ける覚悟はできている。
だが。
レンの後ろにリンリーが、てくてくとついてきていたのだ。
二人の帰り道が一緒、ということはない。リンリーはまだ十一歳ということもあってダンジョンの出入り口がある神殿からの送り迎えを申し出たこともあったが、彼女はいつも一人ですたこらさっさと帰っている。どうも帰る場所がイチキの結界に厳重に保護されているらしく、そもそもリンリーを送り迎えをするにしても、レンどころかミュリナでも絶対にたどり着けない場所に住んでいるらしい。
だから、リンリーはいま自分の居住地に向かっているのではない。
ただひたすらにレンの背中にピッタリとついて離れず歩くリンリーの顔は暗い。どんよりとして、なにか思い詰めているのが見て取れる。
心配と戸惑いをまぜこぜにしながらレンは口を開く。
「どうした、リンリー? なんでついてきてるんだ?」
「……レンおにーちゃん」
「うん」
「あたし……今日は、帰りたくない」
「帰りたくないって、なんで?」
リンリーの答えは、レンが予想もしていないものだった。
家出というにも突然だ。そもそもイチキに対して忠誠に近い感情を抱いているリンリーが、無断でレンの家に押しかけるはずもない。片鱗だけ聞いた壮絶な修行を課されていた時ですら、イチキがいるならばと逃げ出さなかったのだ。
レンの台詞を聞いて、リンリーがきゅっと下唇を噛む。
「わかん、ないの?」
「ええっと……ごめん」
「そっか……レンおにーちゃんは、あたしの気持ち、ぜんぜんわかってないんだ」
うるりと目じりに涙をためたリンリーが手を伸ばす。レンのことを引きとめるかのように、小さな手で裾を掴む。
「あの時にミュリナの告白を聞いて、あたしがどんな気持ちだったのか……本当にわかんないの?」
「リンリーの気持ちって――ええ!?」
リンリーの台詞にひらめいたレンは仰天する。
イチキに紹介されてから、リンリーには不思議なくらいに懐かれている自覚があった。そこでレンは、思い至ってしまった。
もしかして、自分は彼女の初恋になってしまったのではないだろうか。身近なおにーさんとして懐かれ、子供らしく好意を抱かれていたのではないだろうか。子供の頃は年上が好きになることが多い。幼い純な心を傷つけてしまったのではないだろうか。そんな予想が脳裏に駆け巡り、忸怩たる罪のとげがレンの胸をさいなむ。
「ご、ごめん……俺、リンリーの気持ちとか、全然考えてなかった。そっか……そういうことも、ある、よな」
「そうだよ……レンおにーちゃんがミュリナと結婚を前提に付き合いはじめたとか、あたし、あたしは――」
リンリーは俯いていた顔を、ばっと上げて、いまの思いのたけを叩きつける。
「――そんなこと尊師に報告するなんて、あたしには無理だもん!!」
「…………あッ、はい」
はーやれやれ女の子に好きになられて困っちゃったぜ、などというのはレンの自意識から発生した妄想だった。
うっかりさっきのひらめきを口に出していたら寝床で七転八倒間違いなしの勘違いをしたレンの小っ恥ずかしさなど、もちろんリンリーの知ったことではない。
今日の報告のいかんでは自分の生死がかかっている可能性すらある彼女は、必死の形相でレンの胸ぐらを引っ掴む。
「自分で言ってよね!? ねッ!? ミュリナと付き合うことになったって、尊師にレンおにーちゃんから言ってね!? あたし嫌だもん! 尊師になんて言っていいか、わかんないもん!!」
「い、言うから! 大丈夫だから! リンリーに任せっきりにしたりしないから!」
イチキへの報告は、責任を持ってレンが対処しなければならない事態である。
聖剣を抜いてレンが最初にすることは、勇者どうこうではなく女性関係の清算からだった。
リンリーが伝言役となって、さっそくその日の夕食、イチキの行きつけだというお店で待ち合わせることになった。
二人きりになるのはどうかと思ったので、リンリーも同席である。ちなみにリンリーは、イチキが来るなりそそくさと座敷から出て逃げた。
「それで、ミュリナと付き合うことになるんだ」
「まあ、さようですか! おめでとうございます」
今日の経緯をレンの口から報告すると、イチキは、ぱあっと明るい笑顔で祝福した。
その意外さに、レンは目をぱちくりさせた。
「あ、あの、イチキちゃんは……それで、いいの?」
ミュリナと付き合っていると聞いて喜ばれるのは、逆に怖い反応である。
なにもレンとて、別に泣かれると予想していたわけではない。だがそれにしたって、喜ばれるのは想定外だ。いまのイチキの心理がさっぱりわからないのがレンの恐怖心を煽る。
「もちろん! お二人が仲睦まじくて、なにが悪いことがありましょうか!」
「そ、そっか」
若干、ほっとする。
それでも、気を引き締める。態度には現れていないだけで、もしかしたら内心では傷ついているのかもしれない。
だがレンはミュリナを選んだのだ。これからさらに傷つけることを言うんだと覚悟を決める。
「で、その、デートをするって約束……なんだけど」
「はい、もちろん」
ミュリナと恋人になうことは決まったのだ。なかったことにしてもらうというのはあまりにも薄情なので、この食事会で約束を果たしたということにしてもらおうと続けようとした時に、イチキがするりとレンの言葉を先取りして巻き取る。
「後々まで大切にとっておきすので、ご安心ください」
「うん、そういうことはやっぱり――え?」
齟齬が発生した。
思わず、かちんとレンの表情が固まる。
だがイチキはニコニコしている。おかしなことはなんにもありませんよという顔だ。
「あの、イチキちゃん」
「はい、なんでございましょうか」
「俺、ミュリナと付き合うことになったんだよ?」
「もちろん、承知しております。おめでたいことでございます。当面、姉さまのことがあるにしても、レンさまの最優先がミュリナになることは当然でございましょう」
イチキが胸元に手を当てて、ゆったりと頷く。彼女の態度は、まさしく友人の恋愛成就に喜ぶ清らかな少女のものだ。
「ですが、それはそれとして、覚えていらっしゃいますでしょう?」
少し、トーンが変わった。
レンがそう思った矢先、不意に顔を寄せたイチキがささやく。
「わたくしはいつでもレンさまをデートにお誘いできますし――レンさまは、いつだって、わたくしを好きにできるのでございます」
「うぇ!?」
告げられた言葉に、ぎょっと身をひく。
「こ、断ったよね、俺!? 少なくとも、後の方は絶対に断った!」
「なにをおっしゃっているのでございますか? 断るも断らないもございましょう」
イチキは、艶やかに、優し気に、幼さを残しているというの不思議なほど似合う悪女な顔で微笑む。
「だって……先日のわたくしの提案を聞いた時点で、もう――レンさまは、その権利を受け取っているのですよ?」
イチキの言う通り、レンは、知っている。
ミュリナと付き合っている限り、まず、そんな不義はしないが、レンがイチキを求めれば彼女は絶対に断らないというあまりも魅力的な前提を、聞かされているのだ。
その事実に、レンの断りなど関係ない。
レンがずっとミュリナに操を立てるという一途な気持ちだけが、イチキという誘惑への対抗手段だ。
甘い毒を匂わせるイチキは、すっと白魚のような指を一本立てて唇に添える。
「もちろん、ミュリナには秘密でございますよ」
「ちょっと待って!?」
「およ。別に、なにもやましいことはしておりませんでしょう? なにを言う必要がございましょうか。レンさまにミュリナという最高の恋人がいるからといって、わたくしの恋心はどうやら収まらないというだけのことで……ああ、いっそ、ミュリナに耳打ちしてもよろしいかもしれません」
本当に楽しげに、ころころと鈴を鳴らすような笑みをこぼす。
「だって、わたくし、ミュリナのこともレンさまと同じほど大好きでございますもの」
好意を告げられたというのに、いまのレンはまさしく蛇に巻きつかれた蛙だった。ごくりと喉が上下する。
「そう、なんだ……」
「はい! 大好きな二人が付き合うことになって、本当に嬉しいのです。ミュリナを一途に思うレンさまが愛おしくてたまりませんし、恋がかなったミュリナもきっと、かわいらしくてたまりません。あ、ご心配なさらず。しょせんはわたくしの片思い。お二人の仲を壊そうだなんてひとかけらも思っておりません。レンさまとミュリナが仲睦まじくい続けてくださいませ」
イチキは、相手をずぶずぶと底なしの沼に突き落とすような自分の恋の形を告げる。
「わたくしはただ、レンさまにわたくしの想いを知っていただいていたら、それで満足です。だから耐えてくださいまし、レンさま」
世にいる男の欲望のタガを壊すためだとしか思えないほど艶めいた笑顔だ。
「レンさまが屈して裏切ったら、この気持ちがどうなってしまうか……わたくし自身でも、ちょっとわかりません」
かわいらしく困ったように言った言葉に、冷や汗が流れるのに、背筋がゾワゾワとして落ち着かない。
「さて……リンリー。もう入ってきなさい」
「はーい」
すっとレンから離れたイチキが、リンリーを呼ぶ。
食事を頼んでいるのだ。これから三人で夕食をとるのである。生きた心地がしないレンとは裏腹に、話が終わったなら安心とリンリーは座敷に入る。
「……んー?」
座敷に入ってきたリンリーは二人の顔を見比べて首を傾げる。
沈痛な顔をしているレンと、なにやらツヤツヤと艶めいた表情のイチキ。
よくわからないが、勝者がイチキであることは間違いなさそうだ。
当然か、とリンリーは納得する。なにせ尊師は最強なのだ。レンごときに負けるはずがない。
座敷の席を陣取るついでに、リンリーはぺたぺたと四つん這いで座敷に上がって、がっくりと項垂れるレンに近づく。
「ね、レンおにーちゃん」
実は、ミュリナへの告白を聞いてから胸でよくわからないもやもやしていた気持ちが発生していたのだ。イチキがコテンパにやってくれたようで少しすっきりしたが、まだちょっと残っている謎のわだかまりがある。
これを発散して自分の優位を指し示すために、リンリーは小悪魔的に生意気に、レンへと一言。
「おにーちゃんの、ざー〜〜こ♡」
正反対な二人の姉妹を前に、レンはがっくりとうなだれながら、絶対にブレないと固く誓った。
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