ミュリナの告白
西方教会本部の神殿奥深くにある一室。
外界から隔離されるかのように存在する一室は、一般信者はもちろんのこと、勤続する神官もほとんども存在を知らされていない部屋だ。
そこに、一人の老人がいた。
いまにも朽ちて崩れ去ってしまいそうなほど、干からびた老人だ。まぶたを見開いた彼の眼窩に、眼球はない。ぽっかりと空いた空虚な穴をさらしながら、もごもごと不明瞭な一人ごとを呟いている。
「ああ……あぁ……また世界が、変わる……東方の毒の子が、引き金をひいた……。血刀が……東方を切り裂き、八つに分けることになるのかのう……あぁ……なんという無垢な瞳じゃろうか。人を切り裂いて、なぜここまで綺麗でいられるのじゃろうかのう……」
教皇『|神の見えざる目(レクス・タリオニス)』。
老化による忘却に正気を失っているようにしか思えない彼の独り言を、傍にはべる修道女が一言も聞き漏らすことなく記述していく。
現世からあらゆる神秘領域を通じて、他者の視界を見ることができる老人の言葉は、ここではないどこかの情報だ。なによりこの老人は、世界の変わり目となる出来事を、決して見逃さない。断片的なものであれ、彼の言葉は重要だった。
「はっ、泥の身も、あ奴も、気が付いたか……そう、そうじゃ……ここが、お前が還ることのできる、唯一の……ああ、しかし。もう一つの選択肢がある。くそぅ、うらやましいのぅ……恵まれておるのう……なぜあ奴にあんな機会があって……」
枯れ木のような指をうねうねと動かして、意味のつながらないことを呟き続ける。
虚ろな眼窩からのぞく彼の客観が、概念領域のすべてを見通していた。西方教会の教えで構築された神秘領域だけではない。西方教会の教えを知る者から連鎖してつながる概念の、ほとんどすべての人の意識に、この老人の両目はつながっている。
この世で全知にもっとも近い彼だからこそ、誰か一人に通じる言葉を発することは、めったにない。
教皇の視ている世界で、もっとも変節が激しいのは東方だ。
仙人が還って以来、空白になっていた莫大な神秘領域。そこにハーバリア国に生きる人々の祈りが流れ込む。
人々の清廉な祈りの結晶。誘導された意識。湖面に似た人々の願いがさざ波立ち、結集して、そびえたつ。
それを見て、老人は猿のように笑う。
「ひひ……成ったか」
主観を失った彼は、世界の変遷をのぞく。
まだ誰の瞳にも映っていないが、見間違えるはずもない。
「玉音を砕く、聖剣が……これで、また一つ……世界が平和になるのう……ああ、だが、しかし……」
彼にも覗けない場所がある。
どこよりも隔絶した神秘領域、常世の国『ハーバリア皇国』。
世界でもっとも尊き血脈から生まれた、聖人よりも上位にある存在。
「紫の御方だけは、決して見えぬ」
人を統べる玉音の主、『皇帝』の行く末だけは、彼の瞳に映ることがなかった。
その日、いつもと変わったことが起こった。
レンとミュリナとリンリー。三人で行うダンジョン探索の予定だった。神殿の礼拝堂で待ち合わせをして、ダンジョンの出入り口となっている祭壇から入る。
リンリーと友達ということで、すっかりに馴染みになったタータに受付してもらっていた時だ。
「少年」
背中に大量の神学書を入れた箱を背負った修道女が現れた。
「い、イーズ・アンさま……?」
気配のない突然の登場に、タータがあっけにとられる。リンリーはとっさにレンの背中に隠れて、ミュリナもやや警戒をしている。
レンだけは、いつも突然だなと呑気に思いながら尋ねた。
「なんですか?」
「我が先導しよう」
「はい?」
会話になっていない返事だったが、当然、疑問に答えるはずもない。
レンたちの返答は愚か、反応すら一切見ることなく、イーズ・アンは祭壇へと歩き始める。
どうしようとレンとミュリナが視線を通わせる。リンリーだけが、ぶんぶんと全力で首を横に振って同行を拒否していた。
だが、彼らの意志など無意味に等しかった。
「止まるな、少年」
「うわっ!?」
信仰の壁。
イーズ・アンを中心にして四方を囲う光壁が、レンたちを閉じ込める。これは、彼女について行かないと動けなさそうだとレンは苦笑して、ミュリナは肩をすくめ、リンリーが絶望した。
だが、次の言葉でレンの顔からも余裕が消える。
「かつてと違い、あの剣は、引き抜く人を待っている」
あるべきものをあるべきままにするために。
イーズ・アンは、レンたちを引き連れて、ダンジョンに入った。
ダンジョン探索への、イーズ・アンの同行。
突発的に起こった謎イベントに一番怯えているのは、もちろんリンリーである。
この中でイーズ・アンの力を最も実感しているのは彼女だ。第六感がある彼女は、感覚として彼女の格を知ることができる。
そして、言ってはなんだが、リンリーには彼女から問答無用で攻撃されかねない理由がいくつかある。自分の名前のこと、国が違うがゆえに根本的に宗教観が異なること、前にちょっとやらかしたこと。これらが重なれば、十分すぎるほどにイーズ・アンの浄化の光で滅せられる対象となる。
普通の聖職者に対してならば些細だと断じることも、イーズ・アンほどの過激派な秘蹟使いを前にすれば浄化の対象になりかねない。
つまりリンリーにとっての現状は、いつ自分に刃物を振り下ろすかわからない人間と一緒に歩いているのとなんら変わらなかった。
「なんでぇ……なんであいついるのぉ……」
自分の命の危機に、リンリーはレンの服の背中を掴んで、うるうると目を潤ませている。というか、ちょっと泣いている。ぽろぽろと涙をこぼしては、ぐしぐしと目元を雑にこすっている。
レンは泣き止まない彼女を落ち着かせるためにリンリーの頭を撫でる。
「リンリー、ちょっと落ち着こう? 大丈夫だって。なんだかんだ言って、そこまで怖い人……じゃ、ないわけじゃないけど、大丈夫だって! なんだかんだ、俺だって生きてるんだし!」
「むりぃ……だってこわいもん……ていうか、なんでレンおにーちゃんはあいつと一緒にいて生きてるの……?」
「……なんでだろ」
「ほらぁ! ほらぁ……!」
よく考えてみれば自分が生きている理由が『幸運』の一言で済んでしまうため、レンはそれ以上なにも言えなかった。
そもそも子供であるが、イーズ・アンという過度なストレス源により十一歳という実年齢以上に幼さを丸出しにしている。レンの背中にひしぃっと引っ付いて離れない姿は、虎に狙われ巣穴に閉じこもって震える子狐そのものだ。レンへの態度に関しては心の狭いミュリナですら注意をするのもためらう小動物っぷりである。
「ていうか、二人とも……本人の前でそういうことを言うのはどうなの……?」
こちらは特に攻撃される理由がないミュリナである。彼女のもっともな意見に、リンリーが貝のようにぴったりと口を閉ざす。
口は災いのもとである。冷静に考えてみれば失礼極まりない会話だったが、当の本人は気にした様子もない。イーズ・アンに先導される道のりは順調そのものだった。
ダンジョンの中にいながら、そもそも魔物が現れない。レンはもとより、ミュリナやリンリーが感知する前に浄化されているのかもしれない。あるいは――彼女たちでもわからないうちにこの一帯の魔物が殲滅されている可能性すらあった。
なにせ彼女は、イチキすら超える実力者なのだ。
どこに向かうかもわからず、歩いている途中だった。
ふとイーズ・アンが足を止める。自然、彼女に着いて歩いていた三人も足を止めた。目的にたどり着いたのかと、三人がイーズ・アンの視線の先を追った。
そこには、ぽっかり視界が開けた空間があった。
「……あ」
誰が、漏らした声だったか。
立ち止まった全員の視線の先に、剣があった。
神々しさなどない。小さな水たまりに、細身の、美しいだけの剣が刺さっている。
見た目こそ流麗だが、刃が付いているどうかも怪しいほどに切れ味もなさそうで、使い勝手も悪そうで、鑑賞用としてのためだけに造られたとしか思えない剣だ。
実用性は皆無に見えるのに、一瞥すればそれが聖剣だとわかった。
イーズ・アンがレンと視線を合わせ、まっすぐに水たまりの中心に刺さっている剣を指さす。
「抜くがいい」
聖人の一言に、レンが、ふらりと足を踏み出す。水たまりに足先が触れて、さざ波だつ。
「あれ、が……」
あれこそが、レンが抜くために突き刺さっている剣だった。
奴隷少女ちゃんの過去を知ってから、レンは噂を広げた。
皇帝だった少女の噂を、レンは自分の人脈を使って広げた。あくまで、『そうかもしれない』にとどまる情報で物語をつくって、この国の人々に『いたかもしれない』最後の皇帝の噂を広げた。
全部、これをつくるためだった。
人々の思いでできる剣を、いたかもしれない『皇帝』の存在を知らせることで、恣意的に作り上げた。
レンが剣に歩み寄る。これを求めていた。ずっと、この都市に来る前からずっと、あの革命が始まった時に、何もできない子供のレンが、勇者の噂を聞いて瞳を輝かせてから、ずっと。
レンは、聖剣を握る勇者になりたかった。
「…………やっと、俺は」
ふらふらとした足取りで靴底を濡らす水たまりを進む。イーズ・アンが静かに見守る。聖剣の柄に手を伸ばした。リンリーが固唾を飲んで見つめる。指先が、届く寸前だった。
後ろから、衝撃があった。
あたたかな少女のやわらかさが、忘我の状態だったレンの動きを止めた。
「やめて」
ミュリナだった。
彼女が、背中からぶつかってレンを抱きしめていた。泣きそうな、それでも必死な声で腰に抱き着き、剣を抜こうとするレンを引き留める。
「ミュリナ……?」
「結婚しよ?」
だしぬけにミュリナが言った。
人をはばからない突然の告白に、その場が静まり返る。レンが絶句し、リンリーが目を丸くし、イーズ・アンですら小首をかしげている。
周りの反応を、ミュリナは気にも留めなかった。
「あたしと結婚しよ、レン。あたし、絶対にレンを幸せにできる。どんな場所にいても、あたしはレンといれれば幸せだし、レンだってあたしといれば幸せだって思ってもらえる自信がある。恋人になって、みんなに祝福されて結婚して、二人の子供をつくって一緒に育てて、あたしとレンはいっぱい幸せになるの」
幸せな未来が語られる。
レンを抱きしめるミュリナが語る未来に、聖剣なんて必要なかった。
レンがいて、ミュリナが傍にいるだけで、それはきっと誰もがうらやむ幸福だ。
「だから、聖剣なんて抜かないで」
ミュリナは、顔を上げて訴える。
聖剣のせいで、母を失い兄と離れ離れになった少女は、自分の人生で一番好きになった人に懇願する。
「それを抜いたら、レンは勇者になっちゃう」
決して強くもなく、大きくもなく、ほんの少しの涙で震えた声は、勇者なんていらないんだと世界に訴えるためだけに冒険者になった少女の、切なる願いだった
「……ミュリナ」
ツーサイドアップの金髪が、びくりと揺れる。
名前を呼ばれただけで、返事がわかってしまった。いや、そもそも最初から答えはわかっていた。
「俺さ、勇者に憧れてこの町に来たんだ」
「…………そっか」
「それで、いま、勇者になるチャンスが目の前にある」
「……ばか」
「ごめん」
くるおしいほど愛おしい少女の告白を聞き、自分の間抜けさを罵られても、レンは――勇者になることを憧れて、この町に来たのだ。
英雄になりたかった。
英雄になりたかった少年の前に、英雄になれる剣がたたずんでいる。
「だから、俺が抜くよ」
しゃらん、と涼やかな音が鳴った。
一本の聖剣が、一人の少年の手によって引き抜かれたのは、必然だ。
「だからさ、ミュリナ」
「……なによ」
「これから始まる戦いが終わったら、俺と付き合ってください」
突然返ってきた言葉に、今度はミュリナが息を飲んだ。
反射的に何かを言おうとして、けれども思い直したような反応で不貞腐れたかのように、そっぽを向く。
「奴隷少女ちゃんとやらは、どうなの。レン、あたしよりその子が好きなんでしょ? そ、その聖剣だって……その子の、ためなんでしょ」
「振られたよ。ダメだった」
「……本命に振られたから、あたしにってこと? どうなの、それ?」
「違う。そういうんじゃない。ええっと……なんていえばいいんだろ。とにかく、違う」
レンは自分の心を伝えるための言葉を探しながら否定する。
奴隷少女ちゃんに振られたからミュリナに告白するのかと言われれば、絶対にそうではない。
レンは奴隷少女ちゃんのことが好きだった。それに間違いはない。
だからレンは自分の気持ちに区切りをつけるために、この間、彼女に告白をしたのだ。
むしろ、ミュリナにどんどんと大きくなって心を支配しようする自分の気持ちを告白するために、奴隷少女ちゃんに告白した。
「俺さ。ミュリナに告白されてから、ミュリナのことを考えなかった日はないんだ。奴隷少女ちゃんのことは、好きだよ。でも……たぶんこれって、人として尊敬しているっていう気持ちのほうが、強いんだと思う」
彼女が異性だったから「好き」の種類が混ざってしまった。
奴隷少女ちゃんが好きだった気持ちが、必ずしも間違っているとは思わない。そうして始まる男女の付き合いだってある。むしろ熱烈に始まる恋煩いからではなく、人として尊敬して尊重する男女関係の方が始まりとして多いのかもしれない。
純粋に人を恋するなんて、そうそうできない。
そうそうできないのに、ミュリナは純粋にレンに恋をしていた。
ミュリナの気持ちに触れて、レンもミュリナとおんなじ気持ちを抱いたから、よくわかった。
「俺が女の子として好きになったのは、ミュリナなんだよ」
奴隷少女ちゃんを好きだという気持ちは憧れに近くて、ミュリナを好きだという欲求に近い気持ちとは、違った。
勘違いから始まって、レンにもわかるくらいあけすけに好意を示して、自分が女の子だということを知って迫ってきて、そんなことをされても、全然嫌じゃなかった。
そんな愛おしい少女のことを、十七歳の少年が好きにならなって求めずにいられなくなるのは、当然の帰結だった。
「ミュリナが近くにいるだけで、ずっと気持ちが揺れ動かされた。こんなかわいい子が、俺のことを好きなんだって思わされるたびに、頭がおかしくなりそうな気持になった。ミュリナのことで頭がいっぱいになったのだって、一度や二度じゃない。だから俺が勇者になるのは――あの子のためだけじゃ、ない。全部にけりをつけて、ミュリナと一緒になるために、俺はこの聖剣を抜いたんだ」
レンにとって、この都市に来て初めて出会った年の近い少女で、厳しい先輩でありながら、ライバル意識を抱かずにはいられない同世代で、なのに無警戒な年下らしさもあって、あまりのかわいさに否が応もなく異性として意識をして、自分を好きでいてくれる彼女を他の誰にも渡したくないと独占欲を抱いて、自分の人生を預けて後悔がないと自然と思えた相手が、ミュリナだった。
「こんなに待たせて、ごめん。もう、ミュリナの全部が好きなんだ。だからこの聖剣の役目を果たしたら――俺と、付き合ってください」
ミュリナの瞳から涙がこぼれた。濡れた瞳がきらきらと輝いたのは、嬉しさゆえだった。
「仕方ないわね」
ミュリナがぐいっと頬の涙をぬぐう。
涙を拭いて、勝気な瞳に嬉しさをきらきらと輝かせ、自分の勝利に万感の笑顔を咲かす。
レンの胸に飛び込んで、彼が迷いなく両手で抱擁を返したのにきゅんと胸をときめかせながら、顔を上げて言ってやる。
「いいわよ。あんたの一生に、付き合ってあげる」
いつかこう言ってやると考えていた通りの台詞で、ミュリナは自分でつかみ取った幸せを受け取った。
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