仙人の解脱
史実は作られる。
誰かが経験を語り、誰かが思い出を描き、誰かが記録に彫りこみ、誰かが文字を記す。
あまたの手段で編纂される『歴史』と呼ばれる物語の中に、さだかなものなどなにひとつない。国の興亡を記録する書物にさえ偽書があり、誇張があり、主観がある。時の権力者により闇に葬られた事実など枚挙にいとまがなく、誰も興味も持たなかったことで散逸した伝統は山ほど存在する。
それでも人は掘り出すのだ。
瓦礫を、遺骨を、文明の残骸を。
昔に、なにがあったのか。確かに現在へと続いている人類文明の土台を確かめる。
過去の人の思いを受け取るために。人の愚かさを発掘して、人の賢さへと発展させるため地下に埋まった遺産をいまに知らしめる。
ただ、そうであっても、人は愚かだ。
幾度繰り返そうとも、人は忘れる。喉元の痛みがなければ決して学習しない。それがどれほどの悪徳であれ、歴史に残るほどの傷をえぐられなければ人類の記録には残らない。
だからこそ国が亡びる時には、支配者に顧みられることなく忘れられた者たちの想いが生まれるのだ。
西は聖人。
そして東では仙人が。
遮るものなく広がる平原に、血の泉が広がっていた。
ここでは、少し前に合戦が行われていた。東方清華の辺境で起こった、大規模な内紛。片やダンジョンで人員を鍛え上げた反乱軍と正規軍の決着は、官軍五万と賊軍七万による総決戦となった。
計十万以上の命を削り合った結果は、ありえないほど無残だった。
合戦の果てに、たった二人の命しか残らなかったのだ。
本来なら、両軍殲滅などあり得ない。軍勢というのは補給兵などの後方支援の人員も含めた数だ。
一兵の退却すらも許さなかったのは、二人の内の一人、仙人の仕業だった。
彼の見た目は、齢が十にも届かないような幼気な少年である。彼が丹念に仕込んだ術『三戸の理』により、両軍の兵士のほとんどは操られることとなった。
純粋なほど幼い少年は、無垢とは程遠くも自らが積み上げた死体の上に胡坐をかいていた。
人の体も五万と重ねれば、見上げるほどの小山になる。この合戦で無残に散った命は、十二万余り。仙人が五万の戦士の屍の上にいるというのならば、残る過半数の遺体はどうなったのか。
形すら残っていない。
血だけが、残っていた。
屍山を囲む血の池は、もはや湖と言っても過言ではない規模だ。これこそが、七万人の人体を丸ごと血に変えた結果だった。
「やっほろー」
地獄と見まがう光景からはかけ離れた、お気楽な掛け声が響いた。
陽気な挨拶を飛ばしたのは、全身が血でずぶぬれた女性だ。並みの成人男性ですら見上げるほどの背丈でありながらも、なまめかしく伸びた手足が全身のバランスを整えている。ひどく特徴的で、一目見れば忘れられない女性である。
一目見て戦場の女傑と知れる彼女は、周囲を見渡して満足げに頷く。
「たーくさん死んだねー。いーことだぜ」
独特に間延びする声を発した女性は、片手に刀をぶら下げている。ただの武器ではない。仙人が彼女を導いて手渡した宝貝だ。
宝貝『化血刀』。
斬った人間を血だまりに変える一撃必殺の刀である。たとえかすり傷であっても刀身で傷さえつければ全身を丸ごと血液に変える刃は、まさしく必殺にふさわしい一振りだ。
刃を振るって、人を殺す。英傑に渡される宝貝でありながら、人を殺す以外に目的がない凶器である
彼と彼女の二人は、互いの能力を存分に振るって両軍の兵士を残らず殲滅した。
比喩抜きで屍山血河を体現したのがこの情景だ。
「人がいーっぱい死んだこんないー日にさ。なーにを考えこんでんだよ」
「これからのことを見通してたんだ」
自分が見出した宝貝の持ち主の感想に、仙人は笑う。
十二万の血肉は、これから仙人が成す国崩しのための前準備でしかない。十二万の兵が死のうと、広大な国土を持つ清華にとっては中央に届かぬ地方動乱の域を脱しない。
東方大陸の統一国家『清華』全土に散らばる総勢三億人を巻き込む戦乱は、これから始まるのだ。
「ふーん。そーなのー」
「そうなんだよ。君の握る刃に相応しく、これからこの国の大衆が望んだ戦乱が始まるんだ」
東方における宝貝とは、西方における聖剣と同じだ。国の崩壊の兆しとして生まれるものを仙人と呼ぶように、東方でも民衆が望んで生まれる宝貝の性質は彼らの願いによって決められる。
「おー。そりゃー、いーな。アタシ、戦場がさ、すきだぜ。いきてるって感じがすんだ。生まれてはじめてだぜ。いきてるー、なんて思ったの」
しゃべりながら、気分のままに手に持つ刀をブンブンと振り回す。
女性が持つ刃『化血刀』の性質は、斬った人間を血に変えるという効果だ。化血刀に切りつけられれば、かすり傷だろうが一瞬で全身が血だまりと変わる致死の一撃となる。
呪わしいほどに必殺の宝貝が生まれた理由は明白だ。
『失政を、血で贖え』
大陸東部を制した偉大なる始祖『天帝』の統治から、三百年。腐敗から歪んで軋んだ統治機構に対し、清華十四州に住まうあまたの民族の怨嗟が、清華を滅ぼす必殺の刃を生んだ。
およそ十年前、西国では一人の聖人と一本の聖剣が生まれた。玉音を封じるための聖剣は、結局、一度足りとも血に濡れることがなかった。
皇帝の口を封じるためだけの西国の聖剣と比べて、東で生まれた刀のなんと残酷なことか。皇帝にしか効かず、皇帝の口だけを封じる剣に対して、東方で生まれた刃は人を殺すことしかできない宝貝だ。
流れた血のみが贖罪であると信じて疑わない必罰精神の集合が、あの刀だ。
「きれーだよな、この刀」
仙人は女性が無造作に掲げる刃を見つめて、くすりと笑う。
「笑えるね。ハーバリア皇国と比べて、どれだけなんだってね」
「はーばりぁー?」
「ああ、ここからうんと西、西方大陸にある国さ」
「ほーん。せーほーはどーんな国だったよー?」
「びっくりするくらい穏やかで、驚くほどに平和だったさ。たった十年前に、あれだけの人が死んだとは信じられないほどに人々は健やかだった」
「ふーん? 人も殺さずせーかつできんのか? すげーな、せーほーの人たちって。そーぞーもできないや」
「君は君で極端だけど……ま、彼らの最悪の十年なんて、我らが清華の地方末端からすれば豊かな日々だと確信できるよ」
血を願わないのは国民性なのか、あるいは、いまだ没していない王のおかげなのかもしれない。
人民の意識の差こそが、生まれた奇跡の差になる。
産廃の仙人。
イーズ・アンよりそう称された彼には名前がない。生まれて、育った時には変哲もないよくある名前があったが、仙人として地中から這い出た時には名を失った。
彼は、国からいなかったことにされた少年だ。
鉱山より垂れ流しにされた川の下流に住んでいた彼の村は、苦しみにのたうちまわった。
公害。
政の事業で死人が出て、政の力でその出来事自体がなかったことにされた。
鉱山発掘は国が発展するための産業の要だ。公害で死人が出たとなると、国家事業が滞る。それは困る。被害が出たのは、鉱山下流にある百人程度の山村がいくつかあるだけ。ならばもともといなかったことにしよう。
彼が直面した悲劇は、東国において珍しいことではない。世界全体から見ても、ごくごくありふれていることだった。為政者が土と一緒に埋めて忘れ去った、歴史に記されることのない一ページだ。
「僕のような存在は、何度も繰り返されてきた。何度も何度も、大陸の歴史で数え切れないほど何度もだ。それでも人類は学ばなかった」
加害者の力で、被害者にすらなれずに歴史の闇に葬り去られたおびただしい中の一人でしかない。
だから彼は、清華が終わるこの時、歴史に選ばれた。
「なかったことにしようとした死体(ぼくたち)がどれだけ、積み重なったのか。世界に思い知らせてくれよう」
呵々と笑い、死体を燃料に豪っと火が上がる。万軍を溶かした血の泉が蒸発して、天に昇る。青空と対極の色合い、おどろおどろしい赤い雲が出来上がる。
死体を山と積んだ頂に用意していたのは、護摩壇だ。
儀式場にて結界を張り、祈りを捧げる。これより始まるのは、七日七晩に渡る仙人の全存在を賭けた祈祷だ。
「なーなー」
「なんだい?」
「あんたが難しいことゆーのはいつもどーりだけどさー? あたしはなにをすりゃーいーんだ?」
「斬ってくれ」
人を殺す以外の生き方を知らない彼女が、人を殺すしか能がない宝貝『化血刀』を受け取った。
その意味は明白だ。
「これからも、斬って、斬って、斬ってくれ。これから、そういう時代になる。まぎれもなく、君の時代に」
「へー」
にぱっと無垢な童のように笑った。
「そりゃーいーな。いきてるって感じだ」
顔を輝かす彼女に笑顔を返して、仙人は術に没頭する。
仙人ともあろうものが、手間と場所、生贄、時間を惜しむことなく催じる儀式。
その名を『火界呪』といった。
スノウ・アルトは常人とは一線を画する感覚を持つ人間だ。
物事の判断基準のほとんどが、感情と感覚による勘である。
彼女の性質は、おおむね悪いほうに出る。町に出れば道に迷うし、誰かの話を聞いても内容の半分以上の齟齬が出る。本懐を達するということが、ほぼできない。
だがスノウ自身は特に気にしていない。
自分の感覚は、自分の立ち位置をより良い場所に持っていくものだと本能で理解しているからだ。
スノウは東方人の見分けはつかない。男か女かくらいはわかるが、年齢の区別もいまいちつかない。顔が平面的すぎて見分けがつかないというのが彼女の主観の感覚だ。
実のところ彼女の感覚は視覚的によるものよりも、むしろイーズ・アンが聖職者以外の区別がつかないという感覚に近い。聖女ほどではないが、判断しづらいのだ。
しかし、イチキはさすがに別である。
イチキほど別格に『強い』とわかる相手ならば、顔の見分けなど必要ない。
スノウとて一流の戦士だ。強者は顔など見るまでもなく、雰囲気を見れば判別できる。
まともに百回やれば、百回は負ける。
命を懸けた不意打ちで、ようやく勝ちが拾える可能性を見いだせる。
『聖騎士』と呼ばれ、実力的には勇者にも引けをとらないほど鍛えた多彩な技を持つスノウをして、イチキとはそれだけの力量差がある。
まだ二十歳にも満たない若輩でありながらも、すこぶる優秀な魔術師だ。これほどまで凄腕の魔術師には、そうそうお目にかかれない。スノウにとってみれば超強い東方の魔術師がいればそれがイチキだという認識である。
そんなイチキが、珍しくも自室にこもって占術を執り行っていた。
イチキにとっての占星術とは、神秘領域に意識を預け、現世を広く俯瞰するための観測手段だ。リンリーが手を出していた感覚的な『おまじない』とは一線を画する精度と信頼性を誇る。
人の集めた領域を観測することで、遠く、国境を隔てた場所で起こった出来事を占じる。物理的な距離を超える観測のために多大な集中を必要とする。
イチキが占術を執り行っていた部屋から出て来た。
その歩みは精彩に欠ける。いつもは凛とした彼女の足取りとの差異に目を細めた。
「どうしたのだ、妹殿」
「……清華が、燃えます」
「なに?」
告げられた真意を理解しかねた。
東方の大国、清華。
大陸東方部を平定した巨大国家である。幾度か王朝こそ変節しているが、人口、国土共に世界で最も規模が大きい国家だ。それこそ、西方諸国の国家群が一連になって手を組まなければ太刀打ちできないほど強大な国である。
それが『燃える』とはどういうことなのか。
だがイチキはスノウに答えず、蒼白な顔で続ける。
「始祖『天帝』による神秘領域を降ろすのが仙人の本懐であるとは承知でしたが、まさかあれほどの術を顕現させるとは……いえ、それ以上に仙人の狙った場所が場所です」
この国に仙人が顔を出した時に使った術、『三尸の理』。
それを見たことで察していたが、仙人の力はイチキの想像を上回った。あるいは、イーズ・アンですら、いま仙人がしているほどの規模の術は行使できないだろう。
聖人は教典の紙片の体現者である。
そして仙人は、東国の始祖『天帝』が生みだした術の代理人なのだ。
「レンさまの進めていた本は、流通済みですが……時間が、足りているかどうか。なんにせよ、これより世界が変わります。スノウさん。リンリーを呼んでもらえますか?」
「ふむ。リンリーというと、あのちんまいのだな」
「そうです。まだまだ未熟な小さいのです」
イチキが頷く。
「あの子の仕上げにはもう少し時間をかけるつもりでしたが、予定を繰り上げます。東方が荒れるのはもちろんですが……仙人の解脱により、現世に顕現する神秘に空きができます。その穴埋めに成るのは、おそらく――」
結論は言葉にせず、思案に戻る。
自分一人では敵わない。かといって、姉に頼るなど言語道断。
だからイチキは、かつてリンリーを引き入れた時の言葉通りを実行するつもりだ。
あの時、『使えるのか?』と問いかけたのは例えでも何でもない。
「あの子を本腰を入れて鍛えねばなりません」
遥か遠く東方の異常を探知したのは、イチキだけではなかった。
「……」
礼拝堂で手を組み、祈りを捧げていた『聖女』イーズ・アンがぱちりと目を見開いた。
イチキのような段取りを組むまでもなく、常に意識の本体が神秘領域に属している彼女は世界の大規模な変動を感じ取っていた。
現世から神秘領域に接続する経路が膨れ上がり、一つの力が人類の集合意識へと溶けて行く。歴史に選ばれた人の最後は、彼女にとって現世を観測するよりもはっきりと捉えることができる。
「そうか、還るか」
解脱。
煩悩から脱し、個人という意識を脱ぎ捨て、肉体という楔より解放されて全なる世界と同一になる。東洋思想にある仙人の行き着く果ては、一神教の聖人が在るべき在り方となんら矛盾しない。聖人の目指すところは唯一全能である神の身元であり、すなわち世界と同一になることは神の身元へ向かうこととまったくの同義であるからだ。
なぜならば、この世界とは唯一の神であるだから。
正しく神の身許へと還る本懐を遂げつつある同類に、彼女は手を祈りの形に組んで膝をつく。
「人の生涯は時代とともにあり、永遠から永遠に渡り、すべての称賛とともにありましょう。地に落ちて天へと昇る命を、主の身元にてとこしえに祝福されますように」
自分もいつか、ああなれますようにという祈り。
秘蹟の行使のためではなく、ただ言上を並べ、いまだ現世に残る彼女は己のかくある姿に祈りをささげた。
だが彼女が神の身元に還るためには、成すべきことがある。
迷宮に、剣ができる。
まだ時間がかかると思っていたが、あるべき世界の領域が空いた。そこに、人々の思いが集結しつつある。
剣が、生まれる。
彼女が待ちわびた、皇帝に対抗できる、唯一の剣が。
「なぜ妾ともあろうものが、このような雑事をせねばならん」
その頃、イチキやリンリーを生んだ血族の長子、オユンは街道にいた。
西国からの帰路、旅費も尽きかけての徒歩である。知恵の一族と呼ばれる高貴な生まれであるという自覚のある彼女は、グチグチと言いながら歩く。
恐怖の余り、一人で帰還したために国からの援助が受けられない。
そもそも妹たちさえ順調ならば、今頃は大手を振って帝都についていたはずが、と恨めし気な気持ちなる。
「イチキはもとより、リンリーまでもどこぞへ消えおって……ん?」
愚痴を途切れさせて、空を見る。上空に不審なものを見つけたのだ。
赤い雲である。
「なんだ、あれは」
あまりにも不吉だ。太陽は中天にあり、夕日に染まるまでまだ時間がある。血色の雲は、風の流れとは無関係に都市の上部へと近づいて行った。
「不吉な――」
それ以上、言葉を続けることができなかった。
鮮血より作られた雲海から、炎の雷が落ちた。
衝撃は一度や二度ではない。落雷の炎が都市に落ち続けた。雨のごとく雷が落ち続け、呪詛のごとく炎が広がる。
一見してわからなかったが、天を覆う赤い雲は巨大な力の塊だ。巨大すぎて、人為的に行使された術だと気が付くこともできない。
それは、呪いだった。
『血で、贖え』
民衆の願いを、願いすら聞き届けられることのなかった泡沫の民の積み上げた、世界の裏を形成する集合思念にこびりついた呪怨が塗り潰す。彼らが許さなかったのは、為政者だけではない。失態で血が流れるのは、政だけに限らない。産業の発展で都市部に生きる、すべての人々に贖いを求めた。
賠償でもなく、反省でもなく、ひたすらに、血を。
産廃より生まれた仙人が、東国の罪をいま生きる人々に突きつけた。
「あ、ああ……」
彼女が向かおうとしていた都市に、赤い雷が降り続ける。
鳴り響く地響きに、オユンはただただ、頭を抱えて震えるばかりだった。
始祖『天帝』が用いた秘術『火界呪』。
血雲より轟く炎雷によって、帝都をはじめとする清華十四州にあった三十六都市は甚大な被害をこうむった。
主要都市部の壊滅により引き起こされたのは、多くの反乱だった。諸侯の蜂起が相次ぎ、清華の名の元で統一されていた大陸東部は八つの国に分裂し、これより先は、一本の刀を振るう一人の女傑を中心とした長く続く戦国時代に突入する。
火界呪の変。
仙人が発動させた大秘術の名をとって、この区切りの年は世界の歴史に刻まれることとなる。
大陸を激動に巻き込む裏側で、一つ。
歴史に刻まれることのない奇跡が、始まろうとしていた。
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