少女たちとご休憩・中編
これは幻覚だろうか。
レンは信じられない光景を映す目ん玉をこする。
家に帰ったら年下先輩の美少女が食事を作って待っているなど、思春期男子の妄想の具現化に等しい現象だ。
自分の正気を疑うレンに、ミュリナが顔を寄せてくんくんと匂いを嗅ぐ。
「他の女の匂いするわ」
「え……? あ、これかな。イチキちゃんから渡されたんだ」
「む、そっか。じゃあいいわ、はい、レン。座って」
「あ、うん」
当たり前のようにミュリナが席を勧めてくるが、レンとミュリナが同居を再開したなんていう事実はない。
「え? ていうか、どうやって入ったの?」
「大家さんに言ったら入れてくれたわ。前にレンと一緒にいた時にも知り合ってたし」
「えぇ……?」
流されるがまま席に座ったレンの前に夕ご飯が配膳される。
「はい、夕ご飯。一緒に食べましょ」
「あ、うん。ありがとうございます」
断れるはずもなくミュリナと一緒にご飯を食べ始める。
スープがおいしい。料理の印象はまず汁物から始まる。おいしい汁物を作る人の料理がおいしくないわけがない。
なによりレンはミュリナの味が好きだ。久しぶりにまともな食事を摂った気がして、食事の手が進む。
「ご馳走さま。おいしかった」
「ふへへ……ありがとう。レンおいしそうに食べてくれるから、嬉しい。こっちまで幸せになるわ」
「ミュリナの作ってくれるご飯がおいしいからだよ。でさ、ミュリナ」
ここは新婚家庭かなという空気の中、レンは食器を置いて問いかける。
「なんでここにいるの?」
「レンを休ませるためよ」
あっさりと答えが返ってきた。
「あたしが、あんたが無理をしていることに気がつかないと思った? しっかり食べて、ゆっくり寝て」
「やることが――」
「やめなさい」
ミュリナがレンの手を掴む。
「見てて、痛々しいわよ。無理をしすぎ。明らかに、キャパオーバーよ。一回休みにしなさい」
レンは、のろのろと顔を上げて、自分を止めようとする少女を見る。
自分が彼女を振り切るのにどんな言葉が効果的かは、すぐに思いついた。
「ミュリナはさ、頑張らない俺が、好きなの?」
「好きよ。大好き」
ミュリナの返答に迷いはなかった。
「ほんと、レンはバカね。いまのであたしが黙ると思った?」
レンの頑張りが自分だけに注がれるように頑張っているミュリナが、やさしく微笑む。
「必死になるのなんて簡単よ。まずは自分を大切にしなさいよ。自分を大切にできない人間が、誰かのためになにかをできるだなんて、思い上がらないで」
「必死になるのが、簡単……?」
そんなことはない。
必死になるのが簡単なんて、ミュリナだから言える言葉だ。頑張るのが当たり前だなんて、彼女みたいに優秀な人間だから言えるのだ。
彼女たちには、きっと、分からない。
必死にすらなれない人間が、頑張ることすらできない人間が、どれだけいるかという事実に。
「俺は、頑張ることだけでも必死だよ……」
やればできるなんて、優秀な人間の言い分だ。
レンが頑張ったって、思うような結果は出ない。努力に見合った成果が上がることもない。頑張らなきゃいけないことなんて百も承知なのに、頑張ることに頑張っている有様だ。結果が出なければ頑張っているとすらみなされなくて、果ては頑張ることの意味すら見失う。それでも頑張らなきゃいけなくて、「がんばれ」という励ましすら重い枷となる。
レンみたいな凡人は、自分をすり減らしてどうにかこうにか、小さな小さな何かを残すことができる。
いいや。
そんな保証すら、ない。
「だから、俺はやらなきゃいけないんだ」
自分のすべてを費やした果てに、砂粒ほどの小さな実績すら残せないのではと、いつだって戦々恐々としている。どうせ叶わないんだという諦観が、常に周囲に渦巻いて心をすり潰そうとしている。
天才ではない自分が、凡人ですらないかもしれない自分が世界に何かを残そうとするのならば、無理をすることは義務だ。
体を鞭打って無理をして、意思を絞り出して削りだした精神を燃やし、魂のすべてをかけて初めて、誰かに見せることのできる一ができる――かもしれない。
この身が砕け散りようとも、一の実現すら叶わない可能性のほうが、ずっとずっと大きいのだ。
なにも達成できないかもという恐れを抱えたまま、心身をすり減らし続けるしかない。
「そうしなきゃ、なにもつかめないんだ」
無理をしたって、望み通りに行かない。けれども無理をしなければ、望む風景は見えすらしない。
なにもつかめないかもしれないことを、レンは重々承知していた。
ミュリナは優秀だから、きっとわからない。
疲れ切った泥のようなレンの言葉を聞いたミュリナが、まっすぐに視線を合わせる。
「あのね、レン。あんたがこれ以上、無理するつもりなら、あたしにも考えがあるわ」
「なに?」
すっとベッドを指さす。
「そこのベッドで、あんたを押し倒してやるから」
「……」
なにが怖いって、いままでの経験上、普通にやりそうで怖かった。
思わず黙り込んだレンに、ミュリナは不敵な笑みを浮かべる。
「やることやれば眠くなるでしょ。人間の三大欲求って知ってる? 食欲、睡眠、それとあと一つ。あたしが全部満たして上げるから、一緒に布団にもぐりましょ」
「わかった。今日は寝るから……! ちゃんと寝るから帰ってください!」
「そぉーう?」
残念そうな顔をされた。
あまりに強すぎる。ミュリナもわかって、こんな強引なことを言っているのだ。
レンはいまさら、ミュリナのことを嫌いになれない。彼女が彼女である限り、ミュリナがどんなことをしたって嫌いになれないのだ。
だから、こんな無理を言ってしまえる。
「じゃ、本当に休みなさいよ」
最後までレンの心配をして、ミュリナは立ち去った。
「はぁ……」
顔を洗うために鏡で自分の顔を見て、ぎょっとする。
ひどい顔をしていた。本当に、一回、寝たほうがいいのかもしれない。
けれども。
「まだ、まだ」
やれる。
ミュリナの目がなくなった途端、思考がそちらに向く。
「俺が、やらなきゃ……」
気が付けば、外に出ていた。道を歩きながら、やるべきことを頭の中で列挙する。
まだ、限界は訪れていない。生きているのならば、まだ、限界ではない。
大丈夫、大丈夫、まだ、大丈夫。
レンの心の中で、何度も『大丈夫』が繰り返される。
やることは積み重なっている。人手がない。時間が足りない。自分の頭も体も実力も、やるべき予定に追いついていない。体が分割できればどんなにいいだろうかと切望してしまう。
無理をしてないかとリンリーに聞かれた。
しているに決まっている。
無理をしていることを見透かされて、もうやめろとミュリナに言われた。
やめることなんて、できるわけがない。
ようやく、形になった。道筋がついた。脆くて、細くて、一歩間違えれば崖先に落ちるほど危険な道だが、それでも、どうにか見えた。
自分は凡人だ。もしかしたら、自分を凡人だと思いたがっている凡人未満の人間かもしれない。
そんな自分がどれだけ大それたことをしようとしているのか。相手にしようとしているものの巨大さには、めまいすら覚える。
レンがやろうとしていることは、『勇者』ウィトン・バロウも、『聖女』イーズ・アンですら、果ては『皇帝』フーユラシアート・ハーバリア四世ですら、どうしようもなかったものなのだ。
この国が変わってすら、変わらなかったものを相手取る。
レンが自分で掲げたものをやり遂げるためには、賭けなければならない。
レンの、すべてを。
「――う」
突然、吐き気が込み上げた。
とっさに植木に駆け込む。やぶきに顔を突っ込む勢いでしゃがむ。吐き気があるのに、胃からはなにも出てこない。胃液だけが喉を焼く。込み上げる嘔吐感に涙がにじむ。
しばらくして、呼吸が落ち着いた。
「……よし」
まだ、大丈夫。立ち上がろうとした時だ。
ふっと膝が落ちた。踏ん張りがきかずに、倒れ込む。
これは、まずい。
いつだかファーンの前で経験した失神の感覚によく似ていた。いや、その時よりも、ずっとひどい。意識が遠のくのではなく、魂が虚無へと吸い込まれるような感覚に襲われた。
あ。
死ぬかも。
本能が悟った時には遅かった。
公園広場にいる奴隷少女ちゃんは、鼻歌をしながら帰る準備を始めていた。
レンがなにやらこそこそと画策しているようだが、奴隷少女ちゃんには関係ない。今日も常連のシスターさんを励ましたのを仕事区切りに公園から出ようとした奴隷少女ちゃんは、変なものが視界に入って足を止めた。
「……ん?」
見知った人物が植木に頭を突っ込んで倒れ込んでいた。もしかしてと確認のために引っこ抜いてみると、案の定だ。
「……レンの助?」
まじまじと少年の顔を見る。
久しぶりに見たが、なんで植木を寝床にしているのか。いまの季節は夏に近い。凍死をすることはないだろうが、こんな場所で一晩過ごしても疲れはとれないだろう。
ぺちぺちと、頬を叩く。
だが起きる気配はない。熟睡しているというよりは、意識が落ちている雰囲気がある。
奴隷少女ちゃんは、すん、と鼻を鳴らして臭いをかぐ。レンの呼気にアルコールの気配はない。酔いつぶれて路上に転がっているというわけではなさそうだ。
「……むー?」
いまのレンは見るからに体調が悪そうだった。
寝ているというのに、顔色が死んでいる。規則正しいべき寝息の呼吸が乱れている。路上生活をしていた時、同じような土気色をした人間を何人も見て来た。だいたい、一週間以内に死んでいく人間の顔つきだ。
神殿に連れて行くのも手だが、彼女にはそれよりも確実な手段があった。
ここがまだイチキの張った結界の中であることを確認してから、奴隷少女ちゃんは首輪を外す。透き通るような銀髪が、紫に変化する。
「|臣民に(たみのいのちは)、|祝福を(わがてのうえ)」
小さく呟いた言葉で、一瞬、レンの体が輝く。玉音による秘蹟の祝福だ。聞かせれば瀕死だろうとも体調は戻る奇跡の一声である。
レンの顔の血色がよくなり、寝息が健やかなものになる。これで大丈夫だと肩を揺するが、今度はわずかな反応すらなかった。
体調が整ったことで、逆にぐっすりと深い眠りについてしまったようだ。これはこれで問題である。植木に頭をつっこんだ姿勢で寝たら、起きた時にどれだけ体が痛んだものかわかったものではない。
「……仕方のない奴」
小さく呟いた奴隷少女ちゃんは、近接魔術で身体強化。
レンの腕を引いて、よっこいしょと片手で持ち上げ肩に担いで、ベンチへと向かった。
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