聖心の祈り・後編


「聖心の祈り?」


 神殿の繁忙期もひと段落した、さほど忙しくない日の休憩時間。合間を見計らってきたらしき知り合いの少年、レンの質問を聞いて、ファーンは小首をかしげた。


「なに? レン君、聖職者になりたいの? 冒険者がつらくなった? それとも、とうとう女性関係がシビアになって神殿に逃げ込みたいとか? そういう逃避のしかたは、おねーさんあんまり感心しないなぁ。怖いのはわからないでもないけど、責任持ってちゃんと清算しないとダメだよ」

「そういうわけじゃないんですけど……ていうか、清算ってなんですか。俺、償わなきゃいけないことはしてませんから!」

「そう?」

「そ、そうですけど……」


 ファーンの偏見に満ちた問いには、目がそらされて濁った語尾が返ってきた。先日のイチキの件があったからだが、事情を知らないファーンにしてみれば、レンの煮え切らない反応は「あ、女性関係に本格的に困ってきてるんだ、この子」という印象しか与えない。そもそもレンが女性関係に困っているのは誤解でもないのだから、間違った認識ではないのだ。


「レン君……お説教が必要かな?」

「と、とにかく! あれば、便利そうだなぁって!」


 明らかに勢いでごまかそうとしている。だがこれ以上レンをいじめてもなにも出てこなさそうだと判断して、手加減してあげることにする。

 それより、『聖心の祈り』への認識が引っかかる。よりによって便利などと、どこでそんな話を聞いたのか疑問視しながらもファーンは答える。


「便利もなにも、私の知ってる秘蹟の中じゃ、三大役に立たない秘蹟の一つなんだけどね」

「え?」

「ちなみに残り二つは浄化の光と信仰の壁だよ」

「いやいやいや。どっちもものすごく役にたちますよ」

「レン君みたいな冒険者ならともかく、あれって普通に生活してると日常じゃ使わないし」


 二つの秘蹟は『魔』への攻撃手段と、防御手段に使われるのが主な秘蹟だ。迷宮に入ることなどない大部分の聖職者にとっては使い道自体がない。一般的な聖職者にとっては、もっと身につけるべき秘蹟は多くある。


「特に私の信仰の壁なんて、場所おかしいもん」


 ほら、と信仰の壁を発動して見せる。

 レンの視線が下に落ちた。ファーンの発動させた光壁は、足元に二枚だ。


「足場になるって、すごく便利じゃないですか!」

「町中はちゃんと舗装されてるから、別にだよ」


 足場の大切さを知っている冒険者ならば、うらやむこと間違いなしとレンが羨望の目を向けてくるが、ファーンは肩をすくめる。


「雨の日の水たまり避けにはなるけど、それくらいかな。なにより、いざという時に身を守れないじゃん」


 浄化の光は魔物と戦う機会がないため使うこと自体がないし、信仰の壁はなぜか足元に出現するのでいざという時の防御壁にならないのだ。

 特に戦闘を生業としていないファーンにとって、使いどころがないのだ。


「ていうか、誰から『聖心の祈り』のことを聞いたの? 一応あれ、聖職者以外には言いふらすようなものじゃないんだけど」

「え、そうなんですか? 教官……スノウさんから聞いたんですけど」

「うわっ。あの人の戯言を真に受けちゃったの?」


 スノウの名前を聞いた瞬間、ファーンのテンションが数段落ち込んだ。レンが詐欺師に引っかかってもここまでにはならないだろうという渋い顔を浮かべる。


「あのね、レン君。スノウさんは思い付きで適当なこと言ってなんの責任も取らない上に結果すら見る気がない人だから、なにを言われてもスルーするのが一番いいと思うよ?」

「い、いえ! 教官もいろいろ考えていると……考えてはいると思います!」

「そりゃ人間なんだから、いろいろ考えてるに決まってるよ」


 時々、戦い方を教わっているからこそか。スノウを庇うレンに、なに当たり前のことを言ってるんだとジト目になる。


「でもスノウさんって、自分を人に伝えることを放棄しているからね。心の中で高尚なことを考えてるだけの人に気を遣えって言われても、困る。なんか勝手にやってくださいってしか言えないよ」

「……『聖女』さまみたいにですか?」

「レン君」


 悪気はないのだろうが、聞き逃せない誤解だ。ファーンは声を真面目なものにする。


「先輩は、自分の考えを伝える努力は惜しんでないよ。誰に対しても、惜しんだことはないって断言できる」


 『聖女』と『聖騎士』を比較に出したレンの思い違いを正すために告げる。


「だってレン君も先輩が原典を信じているってこと、理解はできなくても知ってるでしょ?」

「あ」


 本当だ、とレンが目を丸くする。

 イーズ・アンが原典原理主義者なのは世間でも有名だ。逆を言えば、世間ですら有名になるほどに自分の考えを述べ続けている証左でもある。

 あの無表情の先輩は、異教徒を前にしてさえも、まずは自分の信仰を説くことから始める。


「先輩は信仰を曲げないだけで、自分の信仰を人に伝えることを惜しんだりはしないよ」


 それはそれで厄介なことも多々あるが、別の話である。


「スノウさんはさぁ……レン君とは割と話してるみたいだけど、あの人、私たちのことをどーでもいいと思ってる節があるからなぁ……」


 『私たち』というのはこの神殿の治療部門のメンバーのことである。春にスノウが赴任してからあった様々な問題ごとを思い出して、遠い目になる。

 なにせファーンたちは、スノウがなにを大切にして行動しているかすら知らない。スノウ自身に話す気がまったくないのだ。どうせ理解できないのだろうと最初から突き放してくる。

 そんな状態で彼女のことを考慮してくれと言われても、「困る」としか言えないのだ。だからこそ治療部門はスノウがいなくても回るように職場を整えた。


「ご、ご苦労さまです……」

「どーいたしまして。レン君からも言ってくれない?」

「どうでしょう……聞いてくれるか怪しいです」


 思い当たる節があるのか、レンも神妙な顔になる。納得したならよろしいと、ファーンは話を本題に戻す。


「それで『聖心の祈り』だけどね。あれって、なんの効果もないよ」

「えぇ!? 聖職者として重要なものって聞きましたよ?」

「重要というか……象徴的なものなんだよね」


 違いがわからないらしく、『どういうことでしょう』と顔に文字を浮かべるレンにファーンは前髪をかき上げて自分の額をさす。


「聖心の祈りを得たら、額に印ができる。ほんとうに、それだけ。しいていえば、その秘蹟さえあれば、コネもお金もなくても上位の聖職者になる資格が持てるっていう特典があるだけ」

「へぇ?」


 レンがまじまじとファーンのおでこを見るが、当然、なんの印もない。なにせファーンは自他ともに認める一般的な通勤聖職者だ。


「聞いている限りだと、本当になんの効力もなさそうですね」

「だって、本当になんの効力もないから」

「効力がないのに聖職者への道が拓けるというのは、すごく不思議なんですけど」

「教会っていう組織としては、それなりに大切なものだよ? 教会の偉い人の大部分は聖心の祈りの持ち主だから、間違いなく祈りの何たるかを知っている人が教会の上層部にいるっていう安心感につながるもの」


 理解できないのか、偉い人は偉い人格をしているから偉いのでは、とレンは首をひねっていた。

 まだ十七歳のレンにこの説法は早かったからしい。若いなぁと、優しく微笑む。


「でも、上位の聖職者になれるなら役に立つって言えません?」

「私は現場で働きたくて聖職者になったから、逆に困る」


 レンの言うことも尤もなのだが、そもそも偉くなりたいならファーンは実家から出奔などしていない。


「レン君だって聖職者になりたいわけじゃないなら役に立たない秘蹟でしょ。そもそもレン君には無理……というか、必要ないと思うよ、あれは」

「必要ないっていうと」


 そもそもレンは、額になにか印がある聖職者を見たことがないだろう。

 この町に『聖心の祈り』を持つ人間は一人として存在しない。ただの通いの聖職者であるファーンはもとより、イーズ・アンにすら『聖心の祈り』はないのだから。


「なにか、すごく特別なものなんですか」

「ううん。特別じゃないよ」


 よっぽど稀少な秘蹟なのだろうかと問いかけるレンに、年相応に大人びた微笑みを浮べる。


「だってね、レン君」


 『聖心の祈り』は、稀少さや効力の有無が重要なのではない。

 信仰に寄り添う神秘領域に、そんな秘蹟が存在するという事実こそが誇れる秘蹟だ。


「西方教会には、生まれながらに特別な聖職者なんて、一人としていないから」


 核心をぼかされたように聞こえたのか、レンは首をひねってばかりだ。


「そんなの……当たり前じゃないですか」

「うん。レン君みたいな信者の人でも当たり前だと思ってもらえることが、少しだけ、誇らしいかな」


 得心のいっていないレンの顔に、ファーンは苦笑する。

 王侯貴族が当たり前にいる世界で、少なくとも、聖職者だけは生まれの特別さを許容していない。

 だからこそ『皇帝』や『天帝』などの君主が生まれながらに奇跡的な先天の秘蹟を得る一方で、教会に列席する聖人はみな、神秘体験を経て後天の秘蹟を賜った。


「この考え方は、教えの中でも数少ない誇れるものだと思ってるんだ。私、宗教って信じてないからね」

「……い、いいんですか?」

「ん? いいに決まってるじゃん。神様のことは信じてるからね」

「へ?」


 矛盾しているように聞こえる一連の流れに、レンは混乱する。

 ファーンはむしろレンの混乱ぶりを不思議そうに眺めてから、合点がいった。


「……ああ、そっか。レン君は教えを信じてるから、神さまを信じてるんだ」

「普通はそうじゃないんですか? だって教会の教えって、神さまのものじゃないですか」

「んー……私も一応は修道女だから否定はしないけど、それは教会に都合のいい信じ方だからなぁ。個人的には推奨できないんだよね」

「じゃあ、どういう信じ方がいいんですか」

「いいとか悪いとかじゃなくて……というか、私から言ったらそもそも意味がないんだけどさ」


 ファーンは困った顔をしながら、気楽に肩をすくめる。


「宗教を信じなくてもいいから、神様のことは信じる。そんなすごく当たり前のことを、レン君にはできるようになってほしいなってこと」

「はあ……」


 あいまいな返答だ。わかっていないと一目で看破できる反応である。

 ある意味では一般的なレンの反応に、修道女であるファーンは複雑そうな表情を浮かべる。

 気持ちを伝えきれないもどかしさ。自分の信仰を共有できない悲しさ。こういう時には、どうしたって人の言葉が不完全なんだと思い知る。

 それでも人は、言葉で思いを伝えるしか術を持っていない。

 だからファーンは、諦めることなく口を開く。


「ま、いまはわからなくてもいいよ」


 いつか気がつくために、いまの言葉を送る。初心を忘れずにと微笑み、ぽんと少年の頭を撫でる。


「レン君は影響されやすいからさ、くれぐれも神様を信じるために、宗教を信じることがないように。まして宗教を信じるために神さまを信じるなんて、もってのほかです!」


 びしっと叱責する。やっぱり、レンには伝わっていない。人の意思を伝えるのに、言葉だけではやはり不足している。

 でも、だからこそだ。

 ファーンは口元を緩めてほほ笑んだ。


「まあ、シスターやってる私が言えたことじゃないんだけどね」


 時間こそが、理解を深める一助になる。

 そのことを知るにはレンはまだまだ年若い。ファーンは年上の特権でもって、時間の偉大さを独占した。







 休憩時間は終わりだ。レンもいなくなり、ファーンも職務に戻ろうか廊下にでると、そこにはなぜか無表情の先輩がいた。


「ファーン」

「うわっと……。先輩ですか」

「迷える仔羊の導き手であることは難しい。信仰とは、形だけを知ったところで心に与えるものは少ない」

「ああ、レン君のことですか? 素直ですけど、難しい年頃ですしね」


 イーズ・アンの気配のない出現にも慣れたものだ。

 一瞬だけ驚いてから廊下を一緒に歩き始める。ファーンより小さな彼女は、見慣れた無表情のまま口を開く。


「祈りとは」


 唐突な問いだが、イーズ・アンはひたすらに戒律と信仰に沿って生きている修道女だ。出会い頭に説法を投げかけられることはよくある。


「救済です」


 今日の問答は簡単だった。レンとの会話に通じていることもあって、あっさりとファーンは答える。


「私たちは、祈ることですでに神より救いを得ています」


 祈りとは、神の助力を乞うものではない。

 祈る先に即物的な見返りを求めることは信仰とは呼ばない。聖職者である以上、神の教えを説く立場にある。神に届く祈りが、そのまま己の中に返ってくるのを知っていなければならない。

 だからこそ、祈りを妨げる壁もなく、届かぬ距離もない。

 祈ることで、人はすでに救われているのだ。

 祈りという行為こそが、人の心に一筋の安寧をもたらした。救いを求めることが祈りであり、己を支えるものがなければ祈りすら生まれない。祈りを持つということは、その人の中に支えがあることを意味している。

 救いを求めるために祈るのではない。

 祈りこそが、人の救いなのだ。

 祈るという行為をもたらしたもうた神への感謝こそが、聖心の本質だ。


「しかり」


 ファーンの答えが満足いくものだったのか、イーズ・アンは頷く。


「祈りとは、聖心であるがままでいい」

「はい」


 ファーンも笑顔でうなづく。

 聖心の意味を理解して、語ることができる二人の額にすら、なんの印もない。

 祈りの聖心を理解し、さらに体得して生き方とすることがどれほど難しいことなのか。

 一生をかけても得られない信仰こそが『聖心の祈り』だからこそ、尊ばれる。

 まだ得ることはできずとも、聖心を知る二人は並んで職場に戻っていった。

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