乙女デートの全肯定・後編
レンが主導で選んだレストランで食事を終え、街を散策した後。
二人は奴隷少女ちゃんがいるのとは別の公園にいた。
今はイチキが芝生に座って、公園内にある屋台でレンがアイスを買ってくるのを待っている。
「はい、イチキちゃん」
「ありがとうございます」
レンからアイスクリームを受け取ったイチキは、ふわふわした心持ちでいた。
食事で和気あいあいと会話をして、次は服屋でこの国の衣装の試し着をしてレンに褒められてと、ここまで思った以上にデートっぽい流れだったのだ。
「イチキちゃん、アイスが好き?」
「ええ、嫌いな人も少ないものです。なにより……ふふ、ここまでが楽しゅうございましたから嬉しくて。よろしければレンさまのも一口いただけますか?」
「え、っと、その……俺、口をつけちゃってるんだけど……」
「ふふふ。望むところでございます」
アイスの冷たさで少し正気を取り戻しながらも、やはり嬉しい気持ちはなくならない。アイスがコーンの角だけになった頃、二人の話は自然とイチキと奴隷少女ちゃんの過去のものになっていた。
「イチキちゃん。俺、少し前に奴隷少女ちゃんから記憶を見せてもらったんだ」
「ああ……そうで、ございますか」
イチキは、さくりとアイスのコーンを口に入れる。
姉からゆるしの秘蹟の鑑定を頼まれたことがあった。あれの発見者がレンだということはのちに把握していたが、姉が使った相手も彼だということかと納得する。
そこで見た記憶となれば、聞かずともおおよそ把握できた。
「あの後で、普通に生きようって思わなかったの?」
「思えませんでした」
これが今日の本題で、楽しい時間は終わりかなとちょっと落胆しながらも、イチキははっきりと答える。
「人の命に手をかけたわたくしもそうですし……なにより、姉さまの意思が固うございました。わたくしの言葉では姉さまを真に救うことはできませんから、普通に戻るなどありえなかったでしょう」
「イチキちゃんの言葉では、っていうのは、なんで?」
レンが怪訝そうに問いかける。
イチキと奴隷少女ちゃんの仲のよさは語るまでもない。
血はつながらずとも、姉妹であるからこそ言葉が通じるのではないかという問いに、彼女は首を振る。
「わたくしが、皇国の民であったことがないからです」
それは、レンがまったく意識をしていない視点の問題だった。
「姉さまが皇帝であったことに対して、わたくしという存在は部外者でしかありません。姉さまが皇帝であったことと、わたくしに首輪をかけられた惨状とは、なんの関連性もないのです」
奴隷少女ちゃんにとって、他国の人間であったイチキはあの時代にあって数少ない、罪悪感を抱かずにすむ相手なのだ。
「だからこそ、わたくしは姉さまと言葉を交わせますが、あの時代を共有する術は持ちません。わたくしが姉さまにあの時代の慰めを口にしようとも、決して届くことはないのです」
レンは口をつぐむ。
二人の間に沈黙が流れる。ここで流れる沈黙は、時代の悲惨さを共有できていない証だ。
レンや奴隷少女ちゃんにとって『皇国最悪の十年』は当事者であったが、イチキにとっては観測するものでしかないのだ。
だから、感情を分かち合うことができない。
イチキが正しさを訴えても、奴隷少女ちゃんの慰めにはならないのだ。
「……イチキちゃん、協力してほしいことがある」
「わたくしは」
イチキは「なにを」とは問い返さなかった。
長く美しい黒髪を風にそよがせながら、先んじて返答する。
「レンさまと姉さまでしたら、姉さまを優先します」
それは、イチキの絶対だった。
恋する乙女であっても、彼女の優先順位は揺るがない。恋に浮かれようとも、溺れることはない。イチキの知性と理性は、感情と本能に有機的に結びついて彼女自身の自意識を確固たるものとしている。
イチキの中では姉である奴隷少女ちゃんが最も上位にいる。それに比肩するのは、きっと死んだ兄くらいなものなのだろう。
その二人は、イチキにとって自分の感情よりも強固に存在する。
だからいくらイチキがレンに好意を寄せていようと、彼女が姉を裏切ることなどないのだ。
もちろん、レンも簡単には引き下がらない。
「俺がやろうとしていることは、奴隷少女ちゃんのための計画だよ。というか、そのためだけしかない」
「存じております。姉さまの
「なら!」
本当に話さずとも自分の計画が把握されている事実に畏れを抱きつつも、芝生に並んだレンが声を上げる。
もしかしたら、カップルの痴話喧嘩に見えるのだろうか。集まりはじめた周囲の視線を結界で逸らしたイチキは、口を開く。
「しかしながら、でございます」
イチキはレンの行動など、とうに把握している。リンリーを通して、あるいは、それ以外の手段で計画の全容を把握している。
だからこそ、イチキは首を斜めにして艶やかな黒髪を揺らす。
「いささか分が悪いかと」
レンの計画に対しての彼女の所見を述べる。
「お考えは、悪いものではございません。うまくいけば姉さまの悪評を払拭できるかもしれません。もしも前段階で失敗しても、大きく失うものはございません。そういう意味で優秀な策ですが……成功させるべき過程において、決定的な瑕疵がございます」
レンの計画の欠点。
自分たちの人脈を核にして、とあるウワサを徐々に広げ、指向性のある情報を大衆に与えている。
けれども、いまのままでは成功しない理由を彼女は慧眼でもって言い当てる。
「教会の検閲を乗り越える手段はあるご様子です。しかしながら、レンさまの中に、『聖女』イーズ・アンをとどめる手札がございません」
「……」
レンがやろうとしていることにあたって、途中から必ずイーズ・アンが介入してくる。
彼女と関わること自体は、レンでも可能である。レン自身、少なからず交流を経たことでイーズ・アンの人となりを知れた。彼女の行動を誘導はできる。
だが制御はできない。
イーズ・アンにとって、レンは神の信者の一人にすぎない。積極的に攻撃されることはないが、一顧だにされない存在であることに変わりはないのだ。事実として、彼女が真の意味でレンの言葉を受け入れたことなど、一度もない。
「わかってるよ」
イーズ・アンを、皇国に生まれた聖人を一時的にであっても足止めする必要が出てくる。レン個人には不可能だ。
いまこの世界でイーズ・アンに勝る概念など、『皇帝』の他、存在しない。
「だから、いざというときに、イチキちゃんに『聖女』の足止めをしてほしい」
そのレンの言葉は、少なからぬ衝撃をイチキにもたらした。
「わたくし、に……?」
「うん」
イチキの反応に、一拍、間が空いた。
イチキは己の中で、自分と『聖女』との格付けを済ませていた。結果として、自分が勝てるはずもないことを承知しつつ……それでも、最悪を想定した際に、姉だけは逃がすことができるための用意を進めていた。
一度、なすすべもなく敗北してから、ずっと。
口元に手の甲を当てて、黙考するためにわずかにうつむく。レンの草案は、成功すれば姉の現状を打破できる。そう口にしたのはほかならぬイチキだ。レンの計画の欠点を指摘したイチキに、打開策を伝えて見せた。
ほんの、三秒ほど。
熟考した彼女は、ちらりと上目づかいでレンを見やる。
「……それがどれほどのことか、ご承知のうえで?」
「本当の意味でどれだけのことなのか、俺にはわからない」
イチキの問いかけに、無理解を飾ることなく明かす。
レンには自分が訴えかける最良が、言葉を飾らないことだけだということを承知していた。
レンにとってみれば、二人の力量は雲の上にあるという意味では変わらない。
イーズ・アンはもちろん、イチキの才能の高みはレンの理解を超えている。夜空に輝く星の高さを、肉眼で図ることなどできない。イチキの『それがどれだけ困難なのか』という問いに対して『想像を超えている』としかレンには言えないのだ。
だから彼は、イチキにとってもどんな労力を支払っても価値ある利益を提示する。
「それが奴隷少女ちゃんのためになる」
イチキの絶対が奴隷少女ちゃんであるからこそ告げられる目的だ。
「……ふふ」
まさしく最上の答えを聞いて、イチキが笑った。
いままでの素朴でしとやかな笑顔とは、がらりと質が変わる。
並んで座っていた中、イチキだけが立ち上がる。レンを見下ろす彼女は、くすくすと笑う妖艶な口元を隠すため纏う着物の袖をひらりと雅に揺らす。
「レン様は、ひどいお人でございますね。姉さまの敬意はもちろんのこと、わたくしのレン様への好意を知ってのご提案でございましょう? 今日という日がこれを提案するためにわたくしを楽しませようなどと……女心を推量して無理難題を押し付けて、楽しゅうございますか?」
「え、いや――」
「ありゃ。言い訳をなさらずとも、よろしいですよ。姉さまのためになるならば、我が身の程度を捧げる覚悟など、とうにできております。挺身の機会をいただけるなど、むしろ誉。身に余るある栄誉でございます。今日という日とて、とても楽しゅうございましたもの。ええ、下心がありましょうとも、レンさまがわたくしを喜ばせようと思ってくださった真心とて事実。嬉しくないはずがございませんが……レン様。これほどの難事を請け負うからには、わたくしからあなたさまに、少しばかりのわがままを求めてもよろしいですよね?」
「え、う、うん……」
丁寧ながらも畳みかけてくる言葉に、レンは言葉に詰まりながらもあいまいに頷く。
イチキに頼んだことは、尋常ではない労力を要することだ。あの『聖女』イーズ・アンの相手をしろと言っているのだから、ひどい無茶ぶりである。
それにふさわしい対価など、持ち合わせていない。好意に付け込んだと言われても反論できない部分だし、実際、レンにもその自覚はある。
だからこそ、ひきつった笑顔を浮かべつつ、おそるおそる下手にでる。
「ご、ごめんなさい……俺、なにをすればいい……?」
「いいえ? レン様は、なにもなさらずともよろしいのですよ」
イチキはゆるやかに首を振って、一歩、距離を詰めて座ったままのレンに顔を近づけるべく、身をかがめる。
「わたくしは、少しばかりミュリナとは人を求める心が違います。わたくしからレン様を求める激しさの持ち合わせは、残念ながらございません」
ゆっくりと身をかがめながらも、身体に触れることはない。
触れるまでもなく思い知らせるために、あえてほんの少しの間をあける。
「だから、レン様」
イチキは、すっとレンの頬に手を添える。耳元に口を寄せる。イチキの言葉は彼女の体と同じくらい官能的にやわらかく、心をぐずぐずに溶かしていきそうな甘さに満ちている。
吐く息に、香が乗っているのではないかと思えるほど誘惑がレンの五感を誘惑する。
「わたくしを一晩、好きにする権利をお受け取りください」
「ちょ」
イチキのカウンターに、レンの舌根が凍り付いた。
もちろん、ここで手を緩める道理はない。悪巧みの成功に笑みを浮かべながら、樹木の養分を搾取する蔦のごとく、本能に絡みつくイチキの誘惑が続けられる。
「無償で、無期限で、いま申し上げた権利をお受け取り下さい。レン様がご自分の心で受け取ったということを、認めてくださいませ。もちろん、差し上げたのは権利ですから、行使なさらなくとも構いません。わたくしから、なにか申し立てることも一切ございません。書面にも残さない、わたくしたち二人の他は誰に知られることもない、この場限りの口約束です」
固まったレンに向けて、大輪が咲き誇るようにしてイチキの美しさが香り立つ。己の身に宿す蜜を甘くするべく、条件を付けたされる。
「レンさまが望めば、いつでも一晩、わたくしを自由にできるということをご記憶くださいましたら、それだけで十分です」
イチキにとって親友で、恋敵でもあるミュリナの恋は、攻めの追う恋だ。駆け引きも含めて、あくまで彼女の心が主体となる。
イチキの場合は、受けに回って追われたい。相手に尽くすことに喜びを覚える彼女は、相手に対して即物的に求めるものがないから焦ることもない。最終的に、自分を求めるようにゆっくりと待ち構えるだけでいい。
イチキは笑顔を緩めることなく、一声。
「ただ――受け取ったら最後、差し上げた権利の破棄だけは、わたくしが認めません」
甘く甘く、底なしに都合がよい言葉。受け取らない理由がない申し出は、手に取ったら最後、骨の髄まで溶かされる欲の檻だ。
甘いながらも癖になる苦みは、気を抜けば中毒性でもって虜にされる。
神秘にも及ばんばかりの彼女の才気すべてを色に変えたような彩り豊かさで、踏み込めば抜け出せない誘引の絵図を描く。
「どうです、レン様」
レンの頬から手を放し、美しく櫛研がれた黒髪をそよがせたイチキは少女と思えぬほどに色深く微笑む。
「レン様には得しかない取引かと存じ上げます」
「無理だから!!」
即座に不可能と叫んだスーパーヘタレンの助に、イチキはくすくすと笑う。いまの叫びをもって、あからさまに無理難題をふっかけてきたレンへの溜飲を下げた笑いだ。
「いいですね、レン様。素敵なご回答です。それでこそ、わたくしが恋をしたレン様です」
「いやイチキちゃん! 可愛いこと言ってもごまかされないからね!? 自分がどれだけ性質の悪いことを言っているのかわかってる!?」
「ありゃ、心外でございます。いまの約束事の性質の悪さでしたら、レン様と五十百歩。我ながら提示された無茶ぶりには似合いの交換条件であると自負しております」
「俺、そこまでひどいこと頼んだの!?」
「ええ。ご自覚していただけましたら幸いです」
愚かならば迷わず頷き、賢しければ熟慮で頷く取引に、純情でもって「無理だから」と即答する。
いとおしいほどの凡人であるレンだからこそ、イチキは思慕を寄せられる。
「わたくしがレンさまをお慕いしていませんでしたら、天罰てきめんで雷に打たれてもおかしくございません。それほどの重責の押し付けでございますよ?」
口元をふわりと広がる袖で押さえて、かわいらしく肩を震わせる。今度は年相応の茶目っ気のある笑いだ。
「いまのだって、受け取って素知らぬふりをしてしまえばいいのに、できないのでございましょう? レンさまのそういうところを、わたくしはお慕いしております」
「うっ……」
まっすぐな告白に、レンの顔が赤くなる。
目の前の少女から、逃れられる気がしない。彼女の手練手管は周到だ。もしも奴隷少女ちゃんやミュリナに出会っていなかったら、なんのためらいもなく彼女の甘さを求めて依存して溺れていただろう。
だが同時に、その二人がいなければレンのことをイチキが求めることもなかった。
出会いという縁の複雑さは、イチキもわかっている。欲求のままならなさに、イチキの頬が緩む。自分の想像通りに掌で転がるレンの素直な反応が愛おしい。彼のほうから求められたいと本能が唱えて、もっと理性を溶かす言葉を振りかければいいと自分のずるがしこい部分が悪辣な手段を訴える。
イチキにはレンを嵌め落す手段などいくらでも思いつくし、実行できる手腕がある。レンを手に入れるだけなら、いますぐに打つべき手は山ほどある。
なのに、彼の反応が愛おしすぎて手を緩めてしまいたくなる衝動を抑えられないのだから、恋とはつくづく惚れた者が負けだと強く思う。
「いたしかたございませんね。でしたら、譲歩いたします」
恋敵のいる恋愛に手段を選んでしまう自分の手ぬるさに苦笑い。一歩、後ろに下がって距離をとる。
どちらにせよ、さっきの台詞を聞かせた時点で、この場のイチキの勝ちは揺らがないのだ。レンだって男性である限り、先ほどの台詞を忘れることは決してできない。いやが応にも、レンはイチキへの女の部分に意識をまた一つ深めることになった。
だからこそ、イチキは原っぱに咲く野菊のように素朴に微笑みを送る。
「いま一度、レン様からデートにお誘いいただければ」
まだ十も半ばの少女らしく、異性に求めるのにそれ以上の報酬なんてないと言わんばかりの可憐さとあどけなさで。
「わたくしは喜んで、あなたさまからどんな頼みごとでもお受けします」
賢く恋をする少女は、年相応のおねだりをした。
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