お給料の全肯定・後編


 ぜえはあと息が切れていた。

 おいかけっこで全力で走り回るなど久しぶりだ。真夏の暑さもあって、タータは流れた汗をぐいっと拭う。

 修道院では子供と言えども年長組になれば、全力で駆け回ることなどない。手伝いと年少組の世話で手いっぱいになる。

 対して、いたずらっ子は息を切らしてもいない。


「さ、さすが……冒険者、ですね」

「タータが体力なさすぎじゃない? いまでそれじゃ、お婆ちゃんになったら、あーっという間に腰が曲がっちゃいそう」

「そんなことは……ありませんっ」


 セリフの途中で、大きく息を吸って呼吸を整える。なんとなく背筋をピンと張ったのは、悔しながらリンリンの台詞の影響だ。


「そんなことより、ここは……」


 姿勢を正したタータは視線を巡らせた。

 周囲の景色は追いかけっこが始まる前とは様変わりしていた。

 走り回っているうちに、移民街を抜けて郊外まで来たようだ。建築物はなくなり、自然の野原にぽつぽつと人が集っている。


「ここ、前から来たかったんだよね」

「ここ、って」


 都市の郊外にある丘だ。本来ならばなにもない場所に人が集まっている理由は、一つ。

 リンリーや彼らのお目当ては、籠に大きな風船を取り付けたような形をしているものだった。


「空、飛んでみたかったんだ!」


 タータを連れまわす彼女の目的は、気球観覧だった。





 空の上は、思った以上に風が強かった。

 びゅうびゅうと耳を鳴らす突風にシスター帽子を飛ばされまいと押さえる。宙に浮く気球は地面から伸びる三本のロープで係留されているため風に流れこそしないが、子供の恐怖心を煽る程度には揺れ動く。

 タータは足を震わせ気球の籠のヘリにつかまっていた。


「な、なんで、こんなのが、こんなに高く飛ぶんですか……!」

「ぷっ、タータってば、こわいのぉ? あたしより年上のおねーさんなんでしょ? なっさけなーい」

「だ、だってこんな不安定で、な、なんで飛んでるかもわかりませんし……! どうして火を点けてるんですか!?」

「空気をあっためるために火を点けなきゃどーしようもないもん。熱気球なんて魔術以前の純粋学術だよ? タータ、そんなことも知らないの?」

「知りませんっ。乗ってる籠が燃えたらどうするんですか!?」

「その時は……ご愁傷様?」

「やっぱり! やっぱり危険な乗り物です!」


 小さくうずくまってイヤイヤしているタータとは反対に、リンリンは恐れることなく籠のヘリからぐいっと身を乗り出す。


「気分いーよ! ほら、人が虫みたい。ちっちゃい! 世界を見下ろせる! あはっ! なにあれ! 街がぜーんぶ、踏んづけたら簡単に潰れちゃいそー! あははははっ!」


 性格が悪いことを言っている気がするが、タータは恐怖でそれどころではない。早く地上に戻ってくれと祈るばかりだ。

 だというのに、後ろから脇に手を差し込まれた。

 いつの間にかリンリンにキツネ耳とふさふさ尻尾が生えている。身体強化の獣霊憑依だ。

 狐っ子の姿に、タータは顔をひきつらせる。


「ま、まさか、リンリン……」

「えっへへー」


 そのまさかだった。意地悪く笑ったリンリンが、タータではとても敵わない力で後ろから持ち上げる。


「きゃあっ!」


 不安定な足場すらなくなった浮遊感に悲鳴を上げる。けれどもリンリンは、一層高くタータの体を持ち上げた。


「ほらほらぁ、目ぇ開けて! 見ないともったないもん!」

「う、ぅぅぅ……!」


 恐怖のあまり半ば涙を流しつつ、もはや文句も言えない。こうなればとやけっぱちの気持ちで、恐る恐る、まぶたを開けた。

 目を、奪われた。


「う、っわぁ」


 感嘆の吐息が漏れる。

 正面に、いままで見たことがないほど世界が大きく広がっていた。

 青と白のまじりあった空が水平の目線にあり、風光る景色が彼方まで奥行き溶けて消える。天高く輝く太陽が、あまねくを照らしている世界を見て、タータの脳裏に聖書の一節が浮かぶ。

 光あれ。

 教典の祈りの一節が、光景になっていた。

 いつもは見上げている空が、真っ直ぐに続いている。違う視点からのいつもの景色は、あまにも鮮烈で衝撃的だった。


「きれい……」


 その一言が、いまのタータの心のすべてだ。

 空に浮かんでいる間、純粋な感動に、タータはただただ心を奪われた。







 無事に着地した気球から、係員の手を借りて降りる。タータ達の幼さゆえか、それとも修道服と東国衣装の組み合わせの珍しさからか、他の客から注目を浴びていた。

 だがタータは周囲の視線に気がつくゆとりもなかった。

 地上に降りてからも、しばらく放心していた。ぼうっと地の足がつかない心地で、野原に腰掛ける。


「リンリンは、外の国から来たんですよね」

「うん、そーだよ」


 東方の大国、清華の名前はタータも知っている。異国衣装をまとった少女は、いくつもの国を経由してハーバリア国に来たのだ。


「外には……」


 先ほど空から見た街並みを思い起こす。自分が暮らしている町は、まるで箱庭だった。その外の風景は雄大で、無限に続いているようにすら見えた。

 あの景色の一点で生きる自分は、どれだけちっぽけなのだろうか。


「ここより、大きい町もあるんですか?」

「まぁーた、そういうこと言っちゃって」


 世間知らず発見と、リンリンはいきいきしてマウントをとるべく口を開く。


「ちっちゃいほうだよ、この町なんか。ていうか、西方は街がちっちゃいよね。清華の大都市なんて、地平までずーっと続いてるんだから! こんな地方の小都市と一緒にしないでよね!」

「そうですか……知りませんでした」


 両手を広げた身振りで大きさを表現する彼女を見て、その大きさを想像しようとして、できなかった。

 タータは、ここで生まれ育ったのだ。

 きゅっと膝を抱えたタータの心など知ったことではないと、リンリンは機嫌よく続ける。


「他にもこんなちっちゃい街なんてすっぽり入っちゃう幅の大河とか、さっきの気球の高さが低く思える大山脈とか、東方にはいーっぱいあるんだから!」

「いっぱい、あるんですね」


 他を知らない。知る必要もないと思っていた。信仰に殉じることに、少し前まで疑念を抱いたこともなかった。

 育った場所以外を知らなくとも、生きるのに不足はないのだ。

 けれどもいま、自分の居場所以外を知らないという意味を、生まれて初めて知った気がした。


「私も……」


 これは、聖職者の言葉ではない。

 自覚しつつも抑えきれず、胸の内からせりあがった思いが口からこぼれる。


「いろんなことを、知りたいです」


 大きい場所、小さい造形、美しい景色、わびしくも心に迫る廃墟。いまタータの隣にいる少女は、年下のくせに様々な見聞を重ねている。

 出会ってからずっと、年下のくせに、なんて生意気なんだろうと思っていた。でも事実として、リンリンは年下なのにタータよりずっと多くの体験と知識があるのだ。

 きっと彼女こそが思っていたのだ。

 年上のくせに、なんて物知らずなのか、と。

 自分を見る人の心がわかってしまったからこそ、羨望が湧く。


「私だって、あなたみたいにたくさんの風景を、感じたい」


 今日の風景は人生でも格別で、だからこそ初めて、彼女のことをうらやましいと思った。


「行けばいいじゃん」


 何の気負いも感じられない声に、むっと反発が浮かぶ。


「なんで、そんな簡単に言えるんですか!」


 気がつけば立ち上がって声を荒げていた。みっともないからやめろという自制心は、うらやましさが暴走した心の歯止めにならなかった。


「私は修道女ですっ。教会から出られないんですよ!?」

「じゃあ教会で出世すればいいじゃん」

「え?」


 ぽかんと口を開いたタータに、リンリーは当たり前の顔で続ける。


「修道女だって男の聖職者と同じくらい出世できるのが西方教会でしょ? タータが、なんかやたら尊敬してるヤバい聖人だって――」

「やばいってなんですか。イーズ・アン様は素晴らしい方なんですよ!」

「あのクソヤバ聖人だってさ」


 腰を折られつつも断言して続ける。


「あれだって、この町のよそから来た人でしょ? 西方教会って、その名前の通り大陸西方全土に広がってるんだから、偉くなれば西方で一番自由ができる組織なんだよ?」

「教会が……自由?」

「うん。教会の伝手をたどればハーバリアからだって簡単に出られるじゃん。宗教関係者なんて、普通の庶民より出国審査とか楽だって相場が決まってるし」

「そ、そう……なんですか?」

「そーだよ。タータってさ、『わからないくせに!』とかいうけど、自分の立場がわかってないだけのお馬鹿さんだよね。あはっ! 世間知らずの典型すぎぃ。自分で自分を閉じ込めてるだけじゃん」

「それ、は……」


 その通りだった。ぐうの音も出ないほど、自分は世間知らずなのだ。


「まあ清華は一神教の布教を禁止してるから教会はないけど、もぐりこみかたはいくらでもあるしね。それこそ布教名目の宣教師にでもなれば、旅なんてし放題じゃない?」

「た、旅をするために、宣教師に……? そんな不純なこと、は……」

「いーじゃん、別に。自分のためにならないなら、なんのための信仰なの? ていうか、タータさぁ」


 ずいっと近づく顔に、タータはたじろぐ。

 あくまで自分を中心にすべて事象を語る彼女がどれだけ魅力的なのか、なぜかいまになって気がついた。


「は、はい」

「やりたいことがあるなら、やる前に『仕方がない』なんて言葉であきらめる必要、ちーっともないんだけど」


 心に、ずんと響く台詞だった。

 やるべきことと、してはいけないこと。

 二つを定める信仰と戒律が、西方教会のすべてだ。


「タータはそこらへんの雑魚じゃないんだし、がんばればできるでしょ」

「がんばれば、できる……?」

「そーだよ。そんなこともできないんじゃ、凡の凡人のレンおにーちゃん以下だよ? タータの格で仕方ないとか言っちゃっうの、ほーんとバカみたい」


 当たり前のようでいて、不思議なほどに当たり前になっていない。なにかができるということすら、タータは考えたことがない。

 でも、違うのだろうか。

 リンリンの言葉を胸の内に反芻させるタータに、リンリンは続ける。


「ぐちぐちやらない理由ばっか探してるタータを見てるとさぁ、やってもいないのにできてるつもりだった前のあたしを見てるみたいで、すっごく嫌なの。せめて、やり始めてからやってることに文句を言ってよね」


 それはきっと、いつも通りに生意気なだけの台詞だ。リンリンにとってみれば、心おもむくままに言いたい放題しているのだろう。

 けれどもいまのタータにとっては、前を歩けと背中を叩かれた気がした。


「リンリン……」

「なぁに?」

「私は、あなたのことを誤解してました」


 自分より年下の彼女に、頭を下げる。

 清貧は尊い。その思いに、嘘はない。

 けれども、己が求めることに手を伸ばす思いもまた、尊いのだ。


「あなたは立派な人です。私よりは、ずっと」

「……ふーん」


 殊勝に頭を下げるタータの前に、回り込む。

 野っ原で上目遣いになった彼女が、どきりとするほど生意気で目が離せない笑顔を浮かべて、言う。


「リンリー」

「はい?」

「リンリンじゃなくて、リンリー」

「へ?」


 呆けるタータに、リンリーと名乗り直した彼女は、自分を指さす。


「あたしの名前、リンリーだから」


 とっさにわからなかった意味が、徐々に浸透した。

 西方教会において、「ー」の記号は洗練名の間に挟む神の恩寵を意味している。天から一滴の祝福がもたらされた形をあらわしているのだ。タータやファーン、そしてイーズ・アンも同様である。

 だからこそ、聖職者でもなく名前に「ー」の文字を入れているのは感心ではないとされている。まして、名前の末尾につけるのは神の恩寵を零し続ける形だと嫌悪すらされる。

 リンリンという偽名は、違う文化圏で生まれ育った彼女なりの処世術だったのだろう。

 本名を明かしたリンリーの信頼を感じて、タータは破顔する。


「不信心な名前ですね!」

「教会が変な風習なの!」


 育ちの違うお互いの意見をぶつけ合った少女たちは同時に、ぷっと吹き出す。面白いことを言ったわけでもなのになんだか無性におかしくなって、風吹く野原で二人、お腹を抱えて笑い合った。









 リンリーと一緒に笑い転げた後。

 今日の最後にと、街に戻ったタータはとっておきの場所をリンリーに案内していた。


「私にもちゃんと案内できるところがあるんですよ、リンリー」

「ふーん。世間知らずのタータがどんな面白いところ、案内できるのかにゃー?」

「言ってなさい。びっくりさせてあげます!」


 語尾を猫にしてふざけるリンリーに、タータは自信を持った足取りで進む。


「……あれ? ここ、結界がある……? やたら、出来がいいというか……いくらなんでも、よすぎ――」


 なにやらつぶやくリンリーの手を引いてたどり着いたのは、公園広場だ。


「――うぇ?」


 そこにいる人物を見て、リンリーが変な声を出した。

 彼女の視線の先には、白い貫頭衣を着て首輪をつけた少女が楚々とほほえんでいる。

 『全肯定奴隷少女:1回10分1000リン』という文言の看板を掲げる彼女を目にしたリンリーは、完全に固まっている。

 その気持ちはわかると、同調して心の中でうなづく。タータも最初に彼女を見たときは、驚きのあまり固まってしまったものだ。

 ならば、自分がはじめてしまえばいいと、タータは奴隷少女ちゃんに千リンを渡す。


「お願いします。この子を全肯定してください!」


 千リンを受け取った奴隷少女ちゃんが、ちらりとリンリーに視線を向ける。

 びくぅっとリンリーが震えた。

 ばったり虎と行き当たった子狐のごとく、逃げ場はどこだとおろおろと左右に首を振り始めたリンリーをよそに、奴隷少女ちゃんの口元を隠していた看板が下げられる。


「わかったの!!!!!! お友達のための千リン、無駄にはしないのよ!!!!! 奴隷少女ちゃんに任せるといいの!!!!! えへっ!」


 たくさんの元気を生み出すあざとく輝く営業スマイルを向けられて、リンリーは顔面蒼白になっていた。

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