最終章

始動の全肯定・前編




 誰もが体感していることだが、真夏の日差しは厳しいものだ。

 湿度が上がるうだる空気と、青く晴れた空に君臨する太陽が、さんさんと天井知らずに体感温度を引きあげる。

 道を歩くだけで熱中症になってしまいそうな季節。照りつく陽光を遮るもののない公園広場の中心で、一人の少女が立っていた。

 この町の、知る人ぞ知る癒しスポット。『全肯定奴隷少女:1回10分1000リン』と書かれた看板を掲げる美少女、奴隷少女ちゃんである。

 彼女は季節に関わらず真っ白な貫頭衣を纏い、革の首輪を巻いている。青みがかった銀髪を短く切り揃えている奴隷少女ちゃんの立ち姿は、うだる熱気の中で不思議なほど涼し気に見える。


「……」


 暑さなど違う世界だという顔で口元に看板を当てている奴隷少女ちゃんが、不意にきょろりと視線だけ動かす。

 公園広場の出入り口からお客さんが来る気配はない。間違いなく人目がないことを確認して、はふぅっと肩の力を抜いた。


「……あつぅ」


 当たり前だが、暑くないわけがなかった。

 奴隷少女ちゃんは片手をあげて、こっそり額の汗をぬぐう。

 神秘的なほどの美少女である彼女とて人間だ。夏の真昼に外で突っ立っていれば暑いに決まっているし、汗もかく。公園広場の中心は日陰もできないのだから、なおさらだ。服の襟元を引っ張って、ぱたぱたと体に風を送る。

 この時期ばかりは、迂闊に外せない首輪周りの蒸し具合が嫌になる。首輪に付いた金属製の鎖も、ちょっと油断すれば熱いくらいになるのだ。


「……夏は、嫌い」


 誰にも聞かれていないからこそ、誰のためでもないハスキーボイスはけだるげで、暑さに参っている感情が乗っていた。

 今日帰ったら、汗をたっぷり吸った貫頭衣はイチキにしっかり洗ってもらおう。そんなことを考えながら少しの休憩を終えて体勢を戻した彼女は、看板を口元に当て直して楚々とほほ笑む。

 その笑顔には、直前までと打って変わって暑さなどまるで見せていない。奴隷少女ちゃんの周囲だけ、涼やかな空気が流れている錯覚すら感じる変貌ぶりだ。

 おおよそ一か月前。

 とある少年に自分の正体を明かしてからも、彼女は変わらずここに立ち続けている。

 レン。

 一年ほど前に初めてこの公園広場に来て、やがて足しげく通うようになった同い年くらいの少年。

 あれ以来、奴隷少女ちゃんのお客としてよく訪れていた彼は一度も公園広場に姿を現していない。

 一人、お客が減ったところで奴隷少女ちゃんのやることの変化など起こるはずもない。

 彼女はただ、ここに来る悩みを抱えた人々を肯定していく。

 自分という存在の贖罪のため。

 兄の語った救世を世界に残すため。

 そしてこの町で自分の言葉を必要としてくれる人のために。

 奴隷少女ちゃんは、今日も笑顔で公園広場で立ち続けるのだ。







 夏は生命の盛りである。

 陽光がきらめき、温度と湿度が一気に増して、緑が全力で背筋を伸ばして生を謳歌する季節。そして昆虫をはじめとした節足動物の盛りでもある。

 現実では実害などさほどない昆虫であっても、観測されれば、それだけ人の感情にも影響を及ぼす。特に室内に忍び込んでくるような昆虫への嫌悪の感情は、都市部に住まう多くの住民の共通意識だ。都市住民の集合意識で形成されるダンジョンにも変化を与えていた。

 つまり夏はダンジョンに昆虫型の魔物があふれるのだ。


「巨大油虫の大氾濫とかさぁ……どーなのって思う」


 ダンジョンの出入り口は、西方教会が神殿を立てて管理をしている。信仰の心を集めてダンジョンへの扉としている祭壇を抜け、礼拝堂を行き交う冒険者たちに交じって愚痴を吐いたのは、黒髪の幼女だ。

 まだまだ育ち盛りである十一歳の最年少冒険者、リンリーである。子供ながらもはっきりと将来の有望さを確信させるかわいいさながらも、こまっしゃくれている性格を隠そうともしていない彼女は、東方からこの国に来て紆余曲折を経てレンのパーティーに入っている。


「見た目もキモいし弱いくせに数だけ多いザコだし、ほーんと面倒だった。報酬だってスッカスカに少ないしぃ」


 今回の探索では押し寄せる巨大な昆虫を狐火でひたすら燃やすという攻撃役を担っていたリンリーは、神殿に戻るなり辟易として文句を言う。

 ダンジョンは都市に住まう人々の意識を写す鏡だ。

 屋内に侵入してくる害虫への嫌悪感に呼応して、夏は一気に黒光りした虫型の魔物が増える。蜂型や百足型、蟻型などの昆虫魔物と比べれば群れようとも人を傷つける能力はほぼ皆無の弱い雑魚魔物なのだが、とにかく数が多くて処理に手間がかかる。何より見た目が悪い。この時期の魔物はあまりにも数が多いので、複数のパーティーで討伐隊を組んでことに当たるのが定例となっている。


「あたしは三回目だから慣れたわ」


 グチグチしたリンリーに比べ、鮮やかな金髪をツーサイドアップにしているミュリナはさっぱりしたものだ。冒険者としての年季が違う。整った顔立ちに違わぬ良家の育ちでもある彼女も害虫の見た目は苦手だが、仕事は仕事として処理している。


「ええー、あたし、あんなの慣れたくなーい。来年はこんな仕事やーだ」

「レン次第でしょ、そこらへんは」


 リンリーと話していたミュリナの視線が、最後のダンジョンパーティーメンバーであるレンの方向に動く。

 パーティーリーダーのレンは、今回協力した他のパーティーと歓談している。虫型魔物の氾濫退治は非常に人気が低いので、だいたい若手のパーティーに押し付けられる。レンが話しているのも、年上でも二十前半の人間ばかりだ。

 ミュリナの視線に気が付いたリンリーが、ほくそ笑んですすっと隣による。


「ミュリナったら、レンおにーちゃんが他のパーティーと話しているのに嫉妬でもしてるの? あそこにいるの、みーんな男じゃん」

「……わからないわよ。他パーティーとの交流を通じて女の子と出会ったり、合コンとかに強引に誘われるかもしれないじゃない……!」

「……む」


 からかおうとして、意外にありそうな可能性を提示されたリンリーも唇を尖らせる。いまレンが話している相手と意気投合して流れで、というのは大いにあり得る。そして他のパーティーには、レンと同世代か、少し年上の女子も何人かいた。

 ミュリナにとって都合の悪いことに、レンは特に年上の女性のウケがいいところがある。そして年下相手は無自覚に警戒を解いてしまう人懐こっさがある。


「そもそもレンのやつ、ちょっと前からなにか隠してるやってることがあるのよね……なにしてるのかしら」

「別に恋人でもなんでもないミュリナに隠し事があっても普通だけど……優先順位がわかってないのは、よくないよね。レンおにーちゃんは、あたしの安全地帯なんだから」

「そうね。あんたのじゃないけど、レンにはいい加減、自分が人たらしだってことを自覚してほしいわ」


 まったくだ、とリンリーは頷き、ミュリナとの合意を得て狐憑依で獣耳をぴょこんと立てる。

 そして聴覚強化されたふさふさの狐耳で、悪びれなく盗み聞きを始めた。







 ダンジョンでの探索をともにする信頼なるメンバーの二人が自分のことを監視していることなんて露知らず、レンは無事にパーティーリーダーとしての交流を終えた。

 レンは素直な性分もあって、年上にかわいがられる傾向にある。彼らとも普通に仲良くなって、次もよろしくというあいさつで別れた。


「……よし。今日も順調だな」


 冒険者としての探索は順調だ。いっそ順調すぎるくらいだが、やはりミュリナとリンリーの実力が年齢からするとずば抜けているという面が大きい。

 そんな仲間として力強い二人が待っていてくれている。二人に合流しようかとレンが思ったタイミングで、近づいてくる知り合いの姿が目に入った。


「あ、ファーンさん」

「やっほ、レン君」


 二十歳前半のお姉さん、常連のシスターさんである。

 冒険者に対する治療を生業とする美人な修道女で、レンとは彼が冒険者初心者だった頃からの付き合いでもある。


「お疲れ様です。お仕事、どうですか?」

「んー……ぼちぼち。いつも通りって感じだよ。冒険者の人たちみんなが、レン君みたいなら楽なんだけどなぁ」

「あはは……やっぱり大変なんですね」

「レン君も、この時期は虫退治でしょ? メンバーが女の子二人だし、そっちのほうこそ大変じゃない?」

「いえいえ。ミュリナもリンリーも、俺なんかより大活躍ですからね。二人には助けてもらいっぱなしです」


 気心の知れたファーンとレンは、絶妙な距離感で気楽に歓談する。その途中でレンは、ひそっと声量を落とす。


「それでなんですけど、ファーンさん」

「ああ、うん。例の奴隷少女ちゃん絡みの件ね」

「はい」


 今から一ヶ月前。奴隷少女ちゃんを助けると誓った日、レンが真っ先に頼った相手がこの人だ。

 レンが知る中でも奴隷少女ちゃんに関わることに関してもっとも信用できる彼女には、あの時に決意した計画の大枠を話して協力してもらっている。他でないファーンならば、必ず力になってくれると確信しての申し出だ。


「新聞記者だったっていう人に頼んでいる例の件って、いけそうですか」

「ばっちり。やっぱり大手にいた人は違うね」


 ファーンが親指と人差し指をくっつけて、丸のサインをつくる。


「よかった……! 俺、そこのところにつながりがなくてネックだったので! 助かりますっ。ファーンさんのおかげで、次の段階に行けそうです!」

「いいってことだよ。あの子のことならいくらでもお姉さんに頼りなさいな、少年!」

「もうとんでもなく頼らせてもらってます!」


 明らかに互いの符号でわかり合っている二人をミュリナがジェラシーでじっとり見つめ、リンリーは霊獣憑依で生えたふさふさの狐尻尾を抱えて聴覚を強化した狐耳をひょっこり立てて盗み聞きをしていた。






「ふあぁ……今日も疲れた……」


 日暮れが過ぎて、夏の熱気も夜の風で少しばかりマシになった頃合い。道を歩きながら、ファーンは大きく伸びをする。

 私用であるレンとの計画の進行を確認しながらも、今日の仕事にも手を抜くことなく終えたファーンは、神殿から退勤して帰路に就いていた。

 外部の人間だとあまり見分けはつかないが、神殿に勤めている修道女は大きく二つに分かれている。人を癒す専門職として資格をとって神殿に通いで勤務をしているファーンのような職業タイプと、生き方としての聖職者を目指して神殿の敷地内にある修道院で暮らす修道女だ。

 どちらが優れているとかいう優劣はないのだが、現場で尊ばれるのは後者である。ファーンは例外的にイーズ・アンや年少者のタータなどと交流をつなげることができているが、他とはやはり溝がある。

 どれだけ長く勤めても、真摯に治療に向き合っていても、『聖職者として生きる気がない世俗の外様が』というチクチクした視線がつきまとうのだ。

 ここ最近は特にその傾向が強くなっている。その理由もファーンは承知していた。

 だからこそ、微妙に溜まり続けるストレスを抱える彼女が向かう先は決まっている。

 大通りを抜けて、ほんの数分。

 植木に囲まれて外からの視線が遮られている閑静な公園広場に、一人の少女がいた。

 青みがかった銀髪の、美しい少女だ。真っ白な貫頭衣を身にまとい、首輪を付けている。この暑い中で涼しげに立っている彼女は『全肯定奴隷少女:1回10分1000リン』と書かれた看板を口に当て、楚々と微笑んでいる。

 一瞬、ファーンは立ち止まって彼女の姿に見入った。

 初めて会った時、あそこに立っていたのは、まだ小さな子供だった。

 そこから、もう五年以上の年月が過ぎた。ほとんど毎日通っているというのに、成長していく彼女の立ち姿を見るだけで自分の中で気力が湧き上がるのを自覚する。

 感慨に浸っていたのは、ほんのわずかな時間だった。

 ファーンは常連特有の迷いのなさで彼女に駆け寄り、シュバッと無駄のない手つきで千リンを差し出す。


「奴隷少女ちゃん! はい、千リン!」

「うん!!!! 確かに受け取ったの!!!!!!」


 ファーンのテンポをしっかり承知している奴隷少女ちゃんも、すぐさまパッと看板をどけて、リズムよくはきはきと発声する。


「いつも頑張っているあなたのため!!!!! 今日に疲れた明日のあなたの元気のため!!!!!! 奴隷少女ちゃんはいまのあなたをいっぱい全肯定をするのよ!!!! えへっ!」


 暑さなんてなんのその。

 夜空の星よりきらめくあざとい営業スマイルを輝かせ、他の誰とよりもテンポよく全肯定の時間が始まった。

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